アヴェスターにはこう書いている?
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合田一道 『札幌謎解き散歩』

 明治政府を混乱に陥れた「開拓使官有物払い下げ事件」。その中心人物は「開拓使の黒田か、黒田の開拓使か」とまで言われた開拓長官黒田清隆にほかならないが、事件の本当の黒幕は、薩摩の黒田と対立する肥前(佐賀)出身の参議大隈重信だったとは。
 黒田は、開拓使十カ年計画の終了を翌年1月に控え、諸事業の存続をはかる目的で一社を興し、そこへ廃止となる開拓使の官有物を払い下げる計画を立てた。明治14年(1939)7月21日、この黒田の意をたいして開拓使大書記官安田定則ら4人により、「払い下げ願い」のかたちで太政官に提出された。
 願書によると、官有物の払い下げ金額は38万7千円、無利子30年賦。物件の中には東京の物産取扱所、大阪の貸付所、函館の常備倉、札幌の牧羊場、真駒内の牧牛場、ポップ園、桑園、蚕室、麦酒醸造所、葡萄酒醸造所、さらには「玄武丸」はじめ6隻の艦船も含まれていた。ただし採算性の低い製鋼所や製糸場、木工場などは除外されていた。
 これら官有物の実際価格は300万円を下らないといわれ、公開入札もせず、一社のみを優遇しようというもので、あまりにも独善的な願書といえた。
 激怒したのは大隈である。目にもの見せてくれるとばかり、新聞を利用して黒田叩きに走りだす。願書を提出してわずか5日後の26日、『横浜毎日新聞』がこの内容をスクープした。この時期、藩閥政治の解消が叫ばれ、国会開設を求める自由民権運動が高まりをみせていただけに、各新聞がいっせいに糾弾の矛先を政府に向けた。(p49-51)


「開拓使官有物払下げ事件」は明治時代の北海道を語るとき必ず触れられるトピックだが、黒田と大隈の対立といった政治闘争の側面にはあまり触れられないことが多い。その意味で、本書の叙述は分かりやすく政治闘争の側面を描いてくれている。単に黒田と大隈という個人の問題というより、藩閥政治と自由民権運動という当時の社会情勢が背景にあると理解することは重要と思われる。

個人的には、採算性の低い事業は引き継がないという姿勢は官公庁ではない主体が事業を引き継ぐ場合、採算性が必ず問題となるという経営的な側面のほかに、やはり私利私欲が絡んでいるように思われ、よくぞこのような計画を建てたものだと呆れる。黒田清隆は開拓使自体を私物だと錯覚していたのかもしれない、とさえ思えてくる。



 この売春防止法の施行は、すすきのにとっても新しく生まれ変わる絶好の機会だった。赤線や青線がなくなって、すすきのは再び輝きを取り戻した。
 ……(中略)……。
 昭和35年、札幌市は人口52万人を超えた。このころから本州商社の支店が次々と進出し、単身赴任者が急増した。(p.57-58)


売春防止法は昭和33年に施行されているが、すすきのの発展は、この法律の施行がきっかけというよりは、昭和30年代の札幌の都市としての発展(特に人口の増加)とそれに伴う企業や銀行などの札幌への進出(道内的な見方では一極集中だが、本書のように本州からの進出という面も見る必要がある)という要素が最大の要因だと考える。



 明治4年(1871)、開拓使は近在に入植した50戸を集めて、いまの中央区南4条通の南側に「辛未村」を設けた。辛未とは、干支で「明治4年」を指す。……(中略)……。
 ところが寄せ集めのせいか、まとまりを欠き、50戸のうち6戸が円山に、残りの44戸が琴似村に移り住み、八軒、十二軒、二十四軒にわかれて定住したことから「八軒」「十二軒」「二十四軒」の地名で呼ばれるようになった。
 どの地域もしだいに開拓され、人口が増えていったが、なぜか「十二軒」の地名だけが突然、消えることになる。
 昭和3年(1928)に秩父宮が、翌4年に高松宮が来道され、三角山と荒井山でスキーを楽しまれた。これを記念して昭和5年からは「宮様スキー大会」が開催されるようになり、十二軒周辺はいつしか「宮の森」と呼ばれるようになったのである。(p.118-119)


札幌市内の地名、「八軒」「宮の森」「二十四軒」の由来。なかなか面白い。



その二年後に北海道会(現北海道議会)が設置され、第一回道会議員選挙が明治34年8月10日に行われた。
 ……(中略)……。『北海道毎日新聞』は「我邦最初の殖民地に於ける自治制の実施」と報道した。(p.185)


明治期には北海道は植民地として認識されていたと言えそうだが、この新聞記事の見方がどの程度一般化されていたのかが気になるところである。



 大島正健はクラーク精神をもっとも強く受け継ぎ、札幌独立基督教会創立後、牧師第一号となった。母校の教授になるが、新島襄に誘われ同志社の教授になる。(p.213-214)


ここでもクラークの弟子と新島襄の関係が見られる。先輩格の新島はクラークの弟子たちの世話をかなりしていたようだ。



 クラークが札幌から持ち帰ったカツラの苗木が故郷の教会前に植えられ、それが大木に育っている。その大木のそばに、クラーク夫人が日本語とローマ字で「カツラ、1881年にここに移植」と書いた標識を立てたという。(p.215)


アマーストには機会を見つけて是非行ってみたくなってきた。

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