アヴェスターにはこう書いている?
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ジョン・M・マキ 『クラーク その栄光と挫折』(その2)

 マサチュセッツ州は教育熱心な所として知られておりますが、その地に本学と同様の教育機関を設置し得てから未だ10年とたっておりません。今日ここに私が札幌農学校の初代学長(プレジデント)として、同時に、ここから数千マイルの彼方、地球の向こう側にあるマサチュセッツ農科大学の学長として立ち得ますことは、私の大いなる特権であると考えております。こちらに参りましてから、開拓使直轄の三ヵ所の大試験農場のいずれでも、マサチュセッツ農科大学で学んだ日本人がその管理者となっていることを知り、欣快この上もありません。私は今ここに、農科大学の卒業生二名と共にこの大学の基礎を据えるべく参っているのであります。この学校が、やがて北海道の農業の改良と諸産業の発達とに資することの大いなるものがあることを信じております。(p.189)


クラークが札幌農学校の開校式で述べた式辞より。開拓使直轄の試験農場の管理者がマサチューセッツ農科大学で学んだ日本人であったという事実は大変興味深い。単なる偶然とは思えない。



 三人組に1877年初めに加わったブルックスは、中でも一番卓越した経歴を辿った。彼は札幌農学校に1891年まで奉職し、その間、二度にわたって教頭(プレジデント)を務めている。彼はまた北海道に、玉ねぎ、とうきび、豆類、飼料作物などといった主要な作物の導入に与って力があったし、また、日本の大豆をアメリカに導入したのも彼の尽力に負うところが大きい。(p.198)


三人組とは、クラークと彼が札幌に連れてきたホイーラー、ペンハローのことを指す。玉ねぎ、とうきび、豆類はいずれも北海道の農産物の中でそれなりに重要なものだということを考えると、ブルックスの功績がいかに大きいかがわかる。



 九月下旬、クラークは農場に建てる大きな畜舎(バーン)の設計図をホイーラーに描かせ、これを黒田に提出した。クラークはこの建築計画を優先的に実現したいと思っていたが、それは学校農場をやって行くのに必須であるだけでなく、国内あちこちに畜舎を建てる際のモデルに使えると考えたからである。当然のことながら、それはマサチュセッツ農科大学にある畜舎をモデルとしたものであった。そして、これはクラークの提案した種々の計画の中で、彼には一番忘れがたいものになった。
 一世紀たった今日でも、このモデル畜舎(バーン)は残っている。骨組はしっかりしているが、全面的修復が必要だと思われる。ちなみに、現在それは国の重要文化財の指定を受けている。このニューイングランド風の畜舎は、クラークを初め、ペンハロー、ホイーラー、ブルックス、それに多くの日本人の努力の結晶であり、その努力を記念する建物と言える。(p.206-207)


マサチューセッツにはモデルバーンのモデルになった畜舎は残っているのだろうか?残っているのなら是非見てみたい。また、「ニューイングランド風」とされているが、札幌のものとニューイングランドのスタイルとを比較してみたい。



 一般的な道徳教育よりも遥かに意義のあったのは、クラークが初めから関係していた、学校における活発な宗教活動である。クラークのこの種の活動について驚くべきことは、彼が経験したアマースト大学における劇的な回心を別にすれば、彼は本国では日曜日には決まって教会に行くだけの極めて普通のクリスチャンであり、それ以上に何か教会の活動に加わっていたとする記録が全く無いということである。(p.218)


思うに、クラークは外国(日本)に行くことによって、自らのアイデンティティの重要な一部分としての宗教を強く自覚するようになったのではなかろうか?日本に来ることによってクラーク自身にも変化が生じたと見るのは不当なことではないはずである。



 大阪と京都でもクラークは宣教師を訪ねて回った。大阪にいるデフォレスト牧師の妻は、たまたまクラークの妹イザベルのかつての教え子であった。京都では彼の遠縁にあたるラーネド牧師宅でお茶を御馳走になった。京都を訪ねたのは実はクラークの言う「私の教えた最初の日本人学生」新島襄との旧交を温めるためであった。新島がアマースト大学に入ったのは1867年のことであるが、それはクラークが同大学を辞めてマサチュセッツ農科大学の学長に転出する数カ月前のことであり、その時、短期間ながらクラークから化学を教わったと考えられる。新島は帰国してから、1875年京都に同志社大学の前身を設立した。この学校は当時まだまだ大変な時期にあったが、新島はクラークを連れて学校を案内して回っている。クラークがアマーストに戻ってから一年後のこと、彼は新島に手紙を送り、学校のことで彼を励まし、書籍や機械器具を学校のために何とかしてみようと申し出ている。(p.248-249)


クラークが北海道を離れてアメリカに帰る途中、京都で新島襄に会っていたというのは興味深い。クラークと新島、札幌農学校や札幌バンドと同志社との関係がどの程度のものだったのか?

最近私は内村鑑三の『代表的日本人』を読んだが、この本の出版に同志社の徳富蘇峰が関わっていた。彼らがどのように知りあったのか、どのような関係にあったのか、少し詳しく知りたい。ウィキペディアには「不遇だった京都時代を助けたのは徳富蘇峰だった。蘇峰のおかげで、『国民之友』に文を発表し生活を支え、文名を上げることができた」とあり、また、「大正13年(1924年)、同年に米国で可決された、排日法案に反対するために、絶交状態にあった徳富蘇峰と和解して、『国民新聞』に何度も排日反対の分を掲載した。」との記載もある。こうした一つ一つの関係を掘り下げていくことで、上記の疑問の概要を知ることが出来ると思われる。



 先に触れたように、クラークはアマーストに帰ってから日本滞在の経験についてあちこちで話をした。1877年9月の第一日曜日には教会で日本についての最初の講演をしているが、この時は椅子が足りないほどの聴衆が集まった。この講演は広範に亘り、日本及び日本人、アイヌ、日本の学生、宗教、歴史、さらに天皇の地位、16世紀日本におけるキリスト教や現代における宣教師の活動といったものに及んだ。終わりにクラークは新島襄の活動に触れ、新島の創設した専門学校に書籍代として100ドルを送金したいので協力して欲しいと訴えた。目標額以上の献金が集まったのは勿論、海外伝道局への献金も優にいつもの三倍に達した。(p.271-272)


クラークと新島の協力と信頼の関係はかなりのものだったと推察される。



 クラークは生涯の終わりの数カ月、死の床に横たわりながらも、60年近い来し方を振り返りつつ、結構仕合わせな満足した気持を味わっていたのではないかと思う。彼は自分の生涯のさまざまな時期を思い浮かべてみていた。イーストハンプトンやカミントンでの負けん気一杯、強烈に生きた少年時代、色々な標本を集めるのが好きになり、それが生涯科学者になるきっかけとなったウィリストン高校時代、宗教的回心に救いを覚え、さらに重要なことに学者としての生涯を選ぶことになる、若い真剣な学生であったアマースト大学時代、ニューイングランドとは別の世界で念願の博士号を取得した、ドイツ留学における大学院生時代、教師として意欲十分、母校のアマースト大学で教えていた時代、やがて可愛いい子供達「クラーキーズ」の母親となる、若く美しい妻との新婚の日々、人間の自由を守ろうとして従軍し、危険、苦難をものともせず奮闘した凛々しい将校の年月、革新的な大学の建設に奉じた学長時代、遠い異国の地で国際教育と農業技術援助の先駆者となり、指導層や学生から友情と崇敬はおろか献身的愛情さえかち得た月日、学生達をキリスト教信仰に導き、思いがけなくも伝道師の役割を果たした日々、それに、自分だけでなく同郷の人達にも直ぐ富をもたらして、生涯を飾ろうとした鉱山投機家の時代。こういった生涯の中でもバラ色に映える年月を回想することは、孤独、失意、病弱、挫折、それに不本意な無為の中にあって彼には大いなる慰めであったに違いない。
 クラークは、人間として自然なことであるが、自らの生涯の比較的暗い部分に関しては内心深く思いめぐらすことはなかったと思われる。それは当時のある人々の胸にしきりに浮かんだ疑問なのであるが、彼のそういう不明な部分に関する疑問の答えが得られたなら、それはクラークという人物をより広い視野から把握する上での、大事な手がかりとなるのではなかろうか。すなわち、有能な教師としての誉れ高く、教授陣の中でも人望厚く、その上、母校の発展に寄与しつつ15年も奉職したのに、何故そのアマースト大学でその終りを全うしなかったのか。彼が信条の上から身を投じ、しかも自らの個性の一面を十全に生かせると感じた戦場から何故途中で身を引いたのか。存亡にかかわる程の財政危機の真只中にあったマサチュセッツ農科大学を、彼は何故棄てたのか。四半世紀もの長い学究生活から何故転身したのか実業界で何故あれほどまでに屈辱的な失敗を招くに至ったのか。もし、クラークが手紙とか日記とかで、こういった疑問にかかわる彼自身の動機や反応を書きとめていたとすれば、その疑問の解明が少なからずできたであろうにと惜しまれてならない。(p.339-341)


最初の段落は、クラークの生涯を非常にコンパクトにまとめた記述となっている。後段はクラークという人物が、ある意味では自ら果たすべき責任を十分には全うしきれずに挫折(逃避?)した側面について指摘しているように思われる。



彼の止むことを知らぬ勤勉、火の中に余りにも多くの鉄片を持ちたがる性癖、絶大なる自信、それに燃えあがるばかりの熱意といったもののゆえに、彼は居心地のよい、人に踏まれた所に落ち着くことができず、緑豊かと見える彼方の野に、絶えず何かを求めて行ったのである。もしこの分析が当たっているとすれば、彼が札幌において生涯に一度だけ全くの成功を収めたことの秘密は、彼の在任期間が一年以下と短く、彼の活力と努力とを激しく集中するのに適当な期間であり、そのため、その止むことを知らぬ活動力の捌け口を、日本のどこか他に求めようとする暇がなかったからだと言える。(p.344)


クラークが前段で述べられているような活動力のある人だったことは恐らくそうなのだろう。また、その札幌での成功が、在任期間が短かった故であるという指摘も妥当と思われる。クラークは「在任期間が短いにも関わらず」影響を及ぼしたというより、「短いからこそ」大きな影響を残したのである。

また、本書を読んでよく分かるのは、クラークが不得手であった財務に関する問題について、開拓使が北海道開拓のために積極的な財政支出が必要だと考えていた時期であったことは非常に大きな意味を持つと思う。もし、北海道庁時代のような民営化推進の時代であれば、クラークたちがあれほどの成果を残すことは全く考えられなかっただろう。


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