アヴェスターにはこう書いている?
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ジョン・M・マキ 『クラーク その栄光と挫折』(その1)

実は、アマースト大学は長らく牧師養成の大学として知られていた程に宗教色が強く、祈りを含む宗教的な日課が大学生活で重要なものとなっていた。クラークが部屋の中で独りでいた時に回心を経験したのだとしても、大学全体の信仰的雰囲気に影響されての結果と考えるのが妥当であろう。(p.36)


クラークはアマースト大学の学生のときに回心を経験したという。歴史的にみると、この経験が札幌農学校での伝道の成功と札幌バンドの形成へと繋がることになると言える。



 アマースト大学では当時の学問上の傾向を反映し、また牧師養成に主眼を置いていたせいもあって、修辞学を重要視していた。そのため、クラークは持って生まれた弁論の才能を大いに伸ばす機会に恵まれたのである。これは後のことであるが、彼はアマーストだけでなくマサチューセッツ州至る所で雄弁家としての名声をほしいままにすることになる。(p.42)


雄弁家としてのクラークの才能は、札幌でも学生たちを惹きつける要因の一つであったと思われる。



 かくして、新設のマサチュセッツ農科大学は教授陣4名、学生約50名、校舎三棟という、ささやかな規模で出発した。その出発当時の一番の頼みとなっていたのは、学長クラークの精神的な推進力そのものであった。(p.114)


札幌農学校の開校時と非常に似た状況と思われる。



このダーフィ植物館は開館三年にして、クラークが考えていたその使命を十分に果たすようになった。というのは、その年の大学年報によると、ヴィクトリア・レギアなる睡蓮がそこですくすく育ち、花つきもよく、葉の大きさは直径約3メートルにも達し、「普通の人が乗っても大丈夫な」ほどであったからである。
 ……(中略)……。25年以上も前、クラークをあれほど虜にしたキュー王立植物園の美しい花を、彼が今度は自分の土地で上手に育てることができて御機嫌そのものであったに違いない。
 彼はまた学長第一年目に、モデル畜舎(バーン)の設計図と設計明細書を準備する一方、その建築費を特別に確保して置いた。これは間口100フィート、奥行き50フィートという規模のもので、それから数年後に彼が札幌農学校でモデル畜舎を建てることになった時の着想もこれから発している。
 クラーク外3名の教授は当然のことながら教育課程の実施計画を立てるのに一刻を惜しむ思いであった。それによると、土曜日と日曜日を除いて毎日授業「または、それ相当の講義か作文演習」が三講あり、土曜日の午後はリクリエーションや視察、見学旅行に当てられている。これはアマースト大学やゲオルギア・アウグスタ大学でのクラークの経験は勿論のこと、ウィリストン高校にまで遡る彼の経験を生かしたものであるし、この種の学外実習は後年、札幌農学校の一つの特徴ともなるものであった。(p.115-116)


クラークの前半生の経歴の中に札幌農学校に繋がる要素が随所に見られるのが大変興味深い。なお、現在北大構内にあるクラーク像の土台にヴィクトリア・レギアの葉のレリーフがある。



開学第一年次に、クラークは学生が農場での労働作業を大変喜んでやっているようだと報告しているが、1870年春には学生の間に労働作業についての不満が高まり、ついにストライキを決行するまでになった。……(中略)……。
 ……(中略)……。その際、ストライキの首謀者の一人ウィリアム・ホイーラーは学長に向かって、「学長先生、必修の労働作業とは腕を磨いて行くための訓練に資するものだと、大学便覧にちゃんと書いてあることなのですが、その契約履行を要求することを学長は反抗とお考えになるのですか」と迫った。
 ……(中略)……。
 ……(中略)……。クラークがこの一件を結局はどのように受けとめたかを知る一つの手がかりとして次の事実がある。それはストライキ事件から6年後のことになるが、彼が重要な使命を帯びて札幌に行く際に、自分の助力者の一人として、例のストライキの先頭に立ったホイーラーを選んでいるのである。
 第二の事件は、これほど劇的なものではない。1872年6月上旬、三年目学生19名のうち12名が、年1回の学内弁論大会への一年目、二年目学生の参加者の選出について抗議し、署名入りの書面を学長クラークに提出した。……(中略)……。署名した三年目学生12名の中にペンハローもいたが、他ならぬ、クラークが北海道出張の際に連れて行った二名の助力者のうちの一人となった学生である。(p.119-122)


ホイーラーとペンハローに関する興味深いエピソード。



 クラークは内藤よりも前に、もう一人の日本人と接触があった。この日本人の方が、クラークの日本招聘にさらに大きな役割を果たしたと考えられるが、それは他ならぬ新島襄のことである。彼はアマースト大学を卒業した日本人の中で一番有名だと思われるが、1860年代に遠い異国の地、西洋に強烈な魅力を感じた若者の一人であった。彼は密かに日本を脱出し、あるアメリカの船長の厚遇を受け、ボストンに連れて行ってもらい、そこで今度はその船主の援助を受けた。その後、彼は1867年アマースト大学に入学する。これはクラークが同大学を辞める年に当たるが、彼はクラークから教えを受けたようである。何年か後のことになるが、クラークが新島のことを「私の教えた最初の日本人学生」と言っているからである。(p.151-152)


クラークと新島襄の関係がどれくらい深かったのか、非常に興味が惹かれる。クラークは彼の札幌農学校の弟子たちに、信徒として新島を頼るようしばしば助言しているが、こうした札幌の弟子たちと新島との関係も是非知りたいと思う。



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