アヴェスターにはこう書いている?
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山本博文 『あなたの知らない北海道の歴史』

 余市町の大川遺跡は、遼や女真といった十世紀から十三世紀の大陸の土器と酷似する黒色土器や、ロシア沿海州地方原産と見られる環状錫製品などを出土する。また律令制の衣服令による規定で律令官人の身分を表わす革帯に装着された銙帯金具も出土。これは朝廷の位階を受けたから授けられたものだ。この余市あたりは、北海道と大陸、本州との広域の交易に使われたポイントだったに違いない。……(中略)……。
 大川遺跡出土の銙帯金具も、朝廷が渤海との交流の仲立ちをした擦文人を律令体制下に組み入れることで北海道の擦文文化圏やオホーツク文化圏、さらには日本海をはさんで対岸の渤海国との交流を円滑に行おうとしたツールだと考えられる。(p.39)


北海道は本州との関係もさることながら、大陸との関係もかなり深い土地であったようだが、中国東北部や沿海州の文化などについての知識が日本の一般書ではほとんど得られないので、なかなかこのあたりの関係性についての認識を深めることが出来ないのが残念である。



近江商人の商いは組織的な行動に特徴があり、北海道に進出する際も「両浜組」という組織をつくって本州との遠隔地交易を行っている。
 ……(中略)……。両浜組のバックアップにより松前の漁業は、それまでの自給自足的なものから大規模な経済活動へと発展し、後には松前藩の財政を支える産業にまで成長したのである。
 その他にも両浜組は、松前藩に参勤交代の経費を融資するなど財政面でも協力的だったことから、藩からさまざまな特権を与えられて優遇されていた。だが、十八世紀末頃から、より資本力のある江戸系商人が松前・蝦夷地に進出すると、相対的にその地位は低下していく。また、その頃には両浜組が拠点としていた和人地の漁業が停滞していたこともあり、次第に彼らの組織立った活動は勢いを失っていったのである。(p.108-109)


江戸時代における近江商人の北海道への進出もなかなか興味深いテーマであるが、北海道だけ見ていても全体像が見えない問題であり、なかなか手が付けられずにいる。

近江商人は北海道の多くの地域で比較的早く撤退したとされるが、江戸系商人が進出してきたことがその相対的没落と関係しているという指摘は私は本書で初めて接した。道南地方でのニシンの不漁などは分かりやすい理由だが、この点は江戸系商人も同じだとすれば、江戸系商人はどのように進出していったのだろうか?



 この東北戦争のさなか、会津・庄内両藩が蝦夷地に所有する領地の売却をプロイセン(現・ドイツ)に対して持ちかけていたという記録が、ドイツの国立軍事文書館に残されている。……(中略)……。
 しかし列強各国は戊辰戦争に対して局外中立を保つことを申し合わせており、ビスマルクは両藩の申し出を断る意向であったという。もっとも当時日本・ドイツ間の連絡には船便で二か月を要したため、このやり取りが終わらぬうちに会津藩は降伏し、売却話は幻と消えたのである。
 ……(中略)……。
 だがこの売却が仮に実現していた場合、日本は国内に外国勢力の拠点を抱えることになり、後の北海道開拓にも大きな影響が出たはずである。戊辰戦争を短期間で終了させたことで、日本は最悪の事態を辛くも切り抜けたのである。(p.140-141)


いかにも帝国主義の時代らしい話である。全体として実現する可能性は低かったと思われるが、仮に実現していたとすれば、本書の指摘のとおりその後の歴史は大きく変わっていただろう。

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