アヴェスターにはこう書いている?
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寺崎昌男 『東京大学の歴史 大学制度の先駆け』

 東京大学に限らず、日本の大学が四月を学年暦の始めにしたのは、約70年前、1921年(大正10)からである。これは法令によって決められたものではない。……(中略)……。四月学年始期制(以下、たんに四月始期制と記す)は、大学が自ら選んだものだった。だが、積極的に選んだのではなく、周囲の状況に押し切られて、否応なく呑まされたというのが正しい。
 ……(中略)……。
 明治維新の直後、東京大学の前身をなす学校ができたころ、学年の始めは秋、終わりは夏であった。
 ……(中略)……。
 帝国大学成立前の医学部の学年始めがなぜ十一月という奇妙な時期になっていたのか、判然としないが、ただ、新学期がともかく秋に始まる、ということは法理文学部さらにその源流の南校以来の流れと共通だった。その基本的な背景としては、開成学校や医学校の教官スタッフの圧倒的部分がアメリカ、イギリス、フランス、ドイツからの外国人教師だったことが大きかったと思う。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 九月始期制度がまず崩れたのは高等師範学校(後の東京教育大学)においてであり、帝国大学発足と同じ1886年のことだった。佐藤氏の調査によれば、それは文部省の指示にもとづくものであった。
 ……(中略)……。「軍に引きずられ、かつ経費支出上の便利さをもとめて学年の始期が変更されるという点に、日本の近代学校の『官』的性格がはしなくも露呈された」というのが、氏の評価である。
 高等師範学校は、当時「教育ノ総本山」という位置付けを与えられていた。その高等師範学校が四月始期制を採ると、二年後には、全国の尋常師範学校が例外なく四月始期制に切り替えた。このあとを追って、1982年(明治25)には小学校が四月始まりになる。その前年、中学校と高等女学校も四月始まりになっていた(1891年)。
 このようにして、20世紀の初めには、日本の義務教育機関と教員養成系学校に四月始期制が定着したのだった。政府会計制度と徴兵制度。この二つが学校の始期を変えさせたのである。
 ……(中略)……。
 ただし、旧制高等学校と帝国大学は別だった。それ以後、ほぼ15年余り、この二種の学校は九月始期制を続けていた。
 ……(中略)……。
 臨時教育会議は、この意を受けたのであろう。答申のなかに大学も四月を学年始めとすることを決定し、やがてそれは高等学校規程(1919年3月、文部省令第8号)のなかに四月学年始めの規定を盛り込むことになって結実した。この規定に沿った高等学校卒業生の出る1921年から、公・私立大学も含む全大学に影響を及ぼすようになったのである。
 ……(中略)……。
 なぜ、当時の大学は、消極的な姿勢にもかかわらず四月始期制を採り入れたのか?
 ……(中略)……。
 はっきりいえることは、学校のつながりにムダを無くすことによって、高等教育修了までの「修業年限短縮」を実現しなければならない、という政府の強い意向が、あらゆる教育論をおさえてこの結論を導いた、ということである。(p.14-23)


秋に年度が始まり、夏に終わる国が多いように思うが、日本では4月から学年暦が始まるのはどうしてなのか?今まで何度か疑問に思ったことはあったが、あまり深く追究したことはなかった。本書を読み、基本的な流れが理解でき興味深かった。



 律令制の影響をつよく受けてできた明治初期の太政官制のもとでは、「部」という言葉は官庁の主管区分(セクション)を示すものだった。文省、兵省、工省、教省といった当時の中央官庁名が、そのことを示している。
 それから推すと、東京大学の中の四学部は、政府がつくり文部省が所轄する東京大学という一「大学校」の中で、法学なら法学、文学なら文学という専門教育を担当する「部(セクション)」という意味合いをもって作られたものだったのである。
 つまり法「学部」ではなく法学「部」であり、文「学部」ではなく、文学「部」だったのだ。それは文部省と東京大学が限りなく一体をなしていた揺籃期の官立東京大学の姿態を象徴していた。(p.49-50)


初期の東京大学における法学部は、法「学部」ではなく、法学「部」だったのであり、それが文部省と東京大学の一体性を示しているという。大変興味深い指摘。確かに明治期の東京大学や帝国大学は、教授たちも政府の高級官僚を兼ねていたことが『京都帝国大学の挑戦』などでも指摘されていたことが想起される。



 『東京帝国大学五十年史』は、「欧米諸大学に講座の制あるに倣ひ、帝国大学にも講座を設けんとするの議文部省内に起り」云々と記している。Lehrstuhlやchairがもともとは教授の坐る「椅子」や「座席」のことであり、それが大学教師の講義のためのものであることは、文部省側でも分かっていたものと思われる。(p.89)


旧帝大系の大学には現在も「講座」という制度があるが、教授の座る椅子が語源とは興味深い。それぞれの専門分野ごとに教授、准教授(助教授)、助教(助手)などを配置していくという仕組みと「講座」という言葉とがはじめて私の中で明確にリンクしたように思う。



 法科大学のこの優位を招いたのは、幾つかの起伏はありましたが、やはり行政官庁からの人材需要でした。とりわけ日露戦争が終わったあたりから、いわゆる海外領有地というのを日本が持つようになりますと、その地の経済活動その他を管轄していくためにも、ますます法ジェネラリストとしての教養というのが必要になってきたとみられます。(p.247)


法科大学の優位ということは、他の本でも述べられていたが、植民地支配がその背景にあったということか。なるほど。



明治20年代の半ば、すなわち1890年代初めぐらいまでは、どの進学案内書も、私学に行くことと官立学校に行くことをほとんど対等に書いている。ところが、それがだんだんと官立学校に進学するのが進学のいわば正統的な道であり、それ以外の者は私学に行け、というふうに変わってくる。
 1907年(明治40)ぐらいになりますと、学士号の持っている権威というものは非常に高いものになってまいります。この中で、たとえば早稲田大学(当時の東京専門学校)、慶應義塾大学あるいはほかのたくさんの私立学校がそれなりの発展を遂げ大学らしい学校になっていくチャンスが、大いに弱められていったのです。安かろう悪かろうの私学、一方、非常に進学は難しいがそこを出れば人生の幸福の半分ぐらいは保証される官学、この二つの区分が、進学案内書の記述を見ていくと、1900年ぐらいを境にはっきり生まれてきていることがわかるというのです。(p.251-252)


入学の難易度については、初期の頃から官立の学校と私学とでは差があったのではないかと思うが、逆に、進学案内書がそれを対等に扱っていたことに驚いた。

学士号の権威が高まったことが官学と私学との区別と関係付けられているが、さらにその背景を見ると、明治30年(1897年)に京都帝国大学が設立されたことにも見られるように、明治後期には高等教育機関への進学圧力が高まっていたことが指摘されなければならないと思われる。つまり、受験生が少なければ高等教育機関への進学は競争の様相はあまり帯びないが、受験生が多く門が狭ければ進学はより競争の様相を呈する。当時の進学案内書もそうした状況を踏まえて書かれていた、ということではなかろうか。
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