アヴェスターにはこう書いている?
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北海道大学125年史編集室 編 『北大の125年』(その1)

 札幌農学校では、1880年代後半以降、ほとんどの基礎的科目を廃止し、「学術技芸」の専門化・分化を進め、マサチューセッツ農科大学のカリキュラムの影響から脱した。このような改編は、1886年には工部大学校が帝国大学工科大学に、90年には東京農林学校が帝国大学農科大学となり、工学・農学分野における「学術と実地」は、急速に「学術の蘊奥」へと傾斜しつつあったことと無縁ではない。(p.17)


クラークがいた頃の初期の札幌農学校は、アメリカ的なリベラルアーツ・カレッジのようなカリキュラムであったものが、それほどの時間を置かないうちに専門分化の方向に転換していった。

このあたりの推移は、明治31年に出た学校案内の書である『札幌農学校』などを見ても具体的に見えてくる。なお、この本についても、後日、このブログに記録する予定である。



 1928年の調査によれば、大学本科卒業生458人の在住地が判明する。道内112人、道外223人、台湾40人、樺太6人、朝鮮18人、中華民国35人(うち満州19人)、欧米16人、その他8人である。北海道在住者は24%である。93人(22%)が台湾・朝鮮・中国に在住していた。いずれも台湾総督府(台北)・三井合名会社朝鮮農林事務所(京城)・関東庁(旅順)・東洋拓殖会社(奉天)など、植民地経営に深くかかわる機関・企業に勤務していた。農学実家卒業生162人中33人(20%)、林学実科では195人中32人(16%)、土木工学科では166人中20人(12%)、水産学科では258人中32人(12%)が台湾・朝鮮・中国で職を得ていた。農科大学は「膨張的帝国の鴻図を翼賛」していた。(p.26)


このあたりのことには非常に興味がある。数年前に北大図書館で展示されていた北大の卒業生と台湾とのかかわりについてのパネル展を興味深く見たのが思い出される。

この問題については、他の帝国大学や私立大学などの全体的な状況と併せて把握したいと思う。



札幌農学校から北海道帝国大学への過程と節目は、いずれも原敬・中央政界の動向に直接重なっていた。(p.32)


このあたりの具体的な内容についてももう少し知りたい。



 東京・京都帝国大学は文・法・経済学部、東北・九州帝国大学は法文学部、京城帝国大学は法文学部、台北帝国大学は文政学部を備えており、1928年に文系学部を有していないのは北海道帝国大学のみであった。北海道帝国大学が際立った位置にあることは明白であった。(p.33)


このような状況であった背景や理由を考えると面白そうである。明治初期から中央官僚の供給を東京帝大が担ってきたことや明治30年にその競争相手として創立された面がある京都帝大で文系学部が充実するのは理に適っているというべきだろうが、北海道よりも中央から遠く、新しい大学である京城や台北の帝大には文系学部があるのに、それよりも創立が早い北海道に文系学部がない理由には興味が惹かれる。

要因の一つは、北海道帝大は札幌農学校が母体だということだろう。北海道開拓というミッションに対しては官僚は中央から供給可能だが、北の大地に適した技術を持つ技術者の養成が必要だったため、農学のほか、工学や医学などが優先されるのもやむを得ない。

また、朝鮮や台湾のような当時の植民地においては、言語や習俗の違いが大きいことから統治のための社会科学的研究がより必要だったことが文系学部を早期に持った背景にあるのではないだろうか?これに対して、北海道はアイヌの人々などがいたとしても、より以前から和人が入植していることや、土地の広さとアイヌの人口の少なさなども、他の植民地ほどには文系の知が必要とされなかった地政学的背景ではなかろうか。もし、この仮説が正しければ、文系学部とはいっても、社会を多面的かつ批判的に見る学問というよりは、既存の権威や権力をさらに強めるための学問が求められていたのではないか、と予想される。



 柳条湖事件(1931年9月18日)を機に引き起こされた満州事変は、一時収束したかにみえたが、37年7月の盧溝橋事件により全面戦争と化した。軍部の発言力も格段に強くなり、国内は急速に戦時体制へと変わっていった。北大は、どのような影響を受けたのだろうか。まず、研究施設・研究体制が拡大・充実したことが指摘できる。日中戦争期(37年7月~41年12月)から太平洋戦争期(41年12月~45年8月)にかけて実現した新研究施設はたくさんある。(p.46)


戦争の時期は自然科学の研究者にとっては研究しやすい時代だったということは、科学史などではよく言われることであり、ここで述べられていることもそうした動きの一環である。



 一方、文科系を補う存在として北方文化研究室(1937年10月設置)が挙げられる。医学部を中心に行なわれてきたアイヌ研究を継承すると同時に文献の保存・整理も行なうこととされている。(p.47)


北方文化研究室も中国大陸への進出後になってから出来ていることからすると、やはり植民地統治に結びつく研究が期待されていたのかも知れない。また、アイヌ研究が医学部によって行われていたというのは意外だった。和人との解剖学的ないし民族的な相違などを中心に研究されていたということだろうか。



「雪博士」として知られる中谷宇吉郎は、当初、原子物理学の研究を志していたが、北大では実験が困難であることから、雪の研究にテーマを変えた。(p.48)


中谷宇吉郎が原子物理学を志していたというのは、寺田寅彦に師事していたことなどからも納得できる。そして、中谷の雪の結晶の研究は複雑系的な研究だと私は見ているが、ここから私は、寺田寅彦の思考が複雑系の発想に近いという河本英夫の指摘を想起させられる。



 研究体制の面では、従来行なわれてきた日本学術振興会の研究補助金とは別に、文部省「科学研究費」(いわゆる科研費)の制度が1939年度から始められ、学振補助金に比べ、はるかに大規模に研究費が給付された。(p.48)


科研費の制度も戦時中の総動員体制の産物だったとは!


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