アヴェスターにはこう書いている?
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井上美香 『北海道人が知らない 北海道歴史ワンダーランド』

 「札幌の街は広く、うんざりするほど直線的だった。僕はそれまで直線だけで構成された街を歩きまわることがどれほど人を摩耗させていくか知らなかった」
 『羊をめぐる冒険』のなかで、札幌を訪れた主人公にこう呟かせ、一目瞭然でわかりやすい直線構造が、逆に主人公の方向感覚を失わせていく様を描いています。(p.86)


なるほど。確かに言われてみればこうした感覚も分かるような気がする。ただ、現実には各十字路には信号があり、それに付いている表示を見れば、現在どの座標におり、どちらの方角を向いているかが分かるので、ここで指摘されているほど感覚が狂わされることはあまりないと思う。慣れていない人が札幌の中心付近を歩くときは、感覚と知性とを交互に使いながら歩くのであり、感覚だけで歩くのは逆に普通の歩き方ではないように思われる。(目的地がないままさまよう場合に上記のような感覚になりやすいかもしれない。)

ただ、札幌は思われているほど直線の街ではなく、古い集落ごとにまとまりがあるためそれらを繋ぐ箇所などで不自然に道が折れ曲がりながら繋げられていると理解した方が妥当であると思われる。



 ≪日本は、その歴史の初期と近代にふたつの計画都市をつくった。京都と札幌である。ふるい都市の代表である京都も、あたらしい都市の代表選手である札幌も、ともに自然発生的な都市ではなく、日本ではひじょうにまれな人工の都市である。京都は中国を、札幌はアメリカをモデルにした都市であり、日本文明の特徴があらわれているといえないだろうか。文明とは自己のもつ原理原則の不定性を根本とする。日本の文明は、可変性という原則を不変的にもちつづけた文明であり、札幌の発展は、古代以来の日本文明が、いまだに健在であることのよき例証であろう。(執筆:園田英弘)≫
 なるほど京都と札幌は、外来の文化を換骨奪胎し独自の文明・文化を構築してきた、まさに「日本文明的」都市といえるわけです。(p.87)


京都と札幌は人工都市であり、モデルが中国とアメリカという指摘が面白かったので引用しておく。ただ、京都は長安をモデルにしているとされているが、朝鮮経由で同じパターンが入ってきたことが分かってきており、直接中国(長安)をモデルにしたわけではないようだということは付け加えた方が良いように思う。また、札幌はアメリカをモデルにした人工都市ではあるが、北海道には帯広や旭川など「人工都市」が多くあり、ここで述べられていることは、細部を知らずに大上段から語りすぎている感は否定できない。

なお、文明というものが原理原則の不定性を根本とするという考え方も私としては拒否しておく。



 北大構内にいまもあるクラーク胸像に観光客が殺到し、学内環境が悪化したため、1976年に札幌市が羊ヶ丘展望台に新設したのが、よく知られるあの立像なのです。つまり、羊ヶ丘展望台に建つクラーク像は、顕彰という意味よりも観光客に対するサービスとして存在しているわけです。
 おそらくクラーク先生は、羊ヶ丘に来たことなどなかったでしょう。北海道農業試験場の用地でもあるこの展望台は、羊毛の国内自給率を上げるための国策によって大正時代と戦後に種羊場が置かれた場所で、クラークがいた時分は何もない丘だったはずです。(p.97)


羊ヶ丘に建つクラーク像の意味についてあまり考えたことはなかったが観光用だったとは…。



 ソクラテス、ブッダ、キリスト、孔子……これら偉人はみな、自ら何かを書き遺したわけではありません。すべては、弟子たちが師の偉業と言葉を後世に語り継いできました。こうした弟子たちがいなければ、ブッダもキリストも存在し得なかったといっても過言ではないのです。世界の偉人と同列に語ることはできませんが、クラークの場合も、師の精神を後世に残したいと願う弟子たちの思いによって、その存在が現在まで語り継がれてきたといえるのです。(p.100-101)


確かに。



 スクリーンに現われる北海道は、敗戦後の日本人にある種のロマンを与えました。戦後によって樺太や満州を失った日本人の心に、安心して訪れることのできる異郷を提供したのです。(p.174)


「作られた北海道」像があるのは現在でも変わらないかもしれない。



 とはいえ、現在の北海道はやはり「自然豊か」とか「食べ物が美味い」などといった大地の豊かさによる評価が大半を占めます。言いかえれば、いまだ未開地的な豊穣のイメージがそこにはあるのです。そうした“外”からの北海道的イメージを再確認できるのが、村上龍の『希望の国のエクソダス』(2000年、文藝春秋)です。


ポストコロニアリズム的な見方でこうした表象(外から作られた北海道的イメージ)を批判するのはそう難しくはなさそうだが、このイメージは北海道という地を搾取するものというよりは地元の観光産業や地域経済にむしろ奉仕するものとして使われていることの方が多いように思われ、微妙なねじれのようなものを感じる。


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