アヴェスターにはこう書いている?
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榎本守恵 『北海道の歴史』(その3)

 ところで、金子堅太郎の視察課題の一つに、開拓使以来の薩閥の弊害をのぞく問題があった。しかし、道庁設置以降も、旧県令などの薩閥官僚は道庁理事官および屯田兵幹部として、いぜん勢力をもっていたのである。井上・山県両相の視察も、薩閥の背後に黒田があるとすれば、黒田に対抗しうる大物の派遣という意味だったといわれる。明治21年4月末、伊藤博文が首相から枢密院議長に転じ、黒田清隆が首相になっていくばくもない6月、岩村は元老院議官に追われ、二代目道庁長官は、屯田兵本部長、薩閥の永山武四郎が兼ねたのである。(p.259)


北海道開拓初期における薩摩の勢力の影響力とそれに対抗する政治的な動きは、もっと詳しく知りたいのだが、観光地などに残されている資料などではこうした側面は削られてしまっており現地を軽く見に行った程度ではなかなか分かりにくい(例えば、旧永山武四郎邸など)。「薩閥の背後には黒田がいる」という認識は、この関係を紐解く際の重要なポイントを指摘しているように思われる。



屯田兵本部長との兼任だったからあるていどはやむをえないが、永山長官時代の道庁は腐敗の極だったという。
 道庁長官が総理大臣直属から内務大臣管轄にかわって、松方内閣の品川弥二郎内相は、永山の兼務をとき、渡辺千秋を抜擢して道庁長官に任じた。渡辺の使命は多年北海道に根をひろげた薩摩の“芋づる”征伐にあった。庁内は粛正され、人事は刷新された。渡辺の最大の標的は、かげの長官堀基の北海道炭礦鉄道会社であった。(p.262)


永山は北海道の開発について海か内陸かという争いについて、後者の立場に立っていたようだが、屯田兵本部長という立場ともそれは関係していたのではないかと想像する。具体的に調べられれば面白いかもしれない。この開発の海か内陸かという議論も知りたいのだが、当時の政治的な話題であるが故にだと思われるが、あまり解説されていないのが残念である。

また、「影の長官」率いる北炭という会社の歴史もまた当時の政治状況との関係から理解したいのだが、これも同じく詳しい解説がされているものは少ない。知りたいことがあっても通り一遍の一般書ではなかなか知り得ないことが多くあり、もどかしいところである。



室蘭線から夕張炭山へ通ずる夕張支線は、馬追から分岐して栗山を経て夕張へ入る予定であった。工事の難度や経費の事情もあったが、堀は、路線変更の許可をとらずに、独断で追分から分岐させたのである。……(中略)……。工事の指揮は、かつてクロフォードのもとで幌内鉄道を建設した松本荘一郎が、道庁技師として担当していた。(p.262)


明治期の鉄道敷設に関して松本荘一郎や平井晴二郎に焦点を当てて調べてみるのも面白そうな課題である。



 北炭は、そのほかコークス・製鉄・電灯・造林(杭木用)などの副業を経営するが、やがて三井資本の系列にくみこまれる。北海道の企業のたどる運命は、つねに中央大資本の下請けか、系列下であり、資本移住の当然の結果ともいえよう。(p.263)


このあたりは北海道の植民地的な性格をよく表していると私には思われる。



おおざっぱにいって、20年代に空知地方の開拓が進み、20年代から30年代は上川開発がクローズアップされる。30年代に入って、開拓前線は南下して十勝に入り、一部は北見方面へ進むといったもよかろう。これには道路・鉄道の問題も関係するが、それは後述する。(p.272)


この概要の説明は非常に見えやすい見取図を示しており参考になった。

明治20年代に空知地方の開拓が進む前提としては、明治初期に炭鉱が発見され、明治15年には幌内鉄道が全通し、小樽港まで石炭を運び出せるルートが出来ていたことがあったことは間違いないと思われる。上川地方の開拓については、私はほとんど知らないが、内陸開発論者だった永山武四郎が道庁長官を務めたのが明治20年代だったことも一つの要素となっているのではないかと推測する。十勝の開発は道央地域と十勝地方を繋ぐ鉄道が明治30年代にできたことと並行しているのではないか。

このように見てくると、私の北海道開拓に関する知識は、ほとんど道央と道南地域に集中していることが自覚させられる。他の地域に関心を広げていく時期になりつつあるように思う。



 道路・鉄道の発達は開拓の動脈として奥地開拓を促進し、沿線には開拓集落がつぎつぎに形成されていった。もっとも、それまで海運ルートによって全道を掌握していた函館商圏にたいし、こんどは上川線・釧路線を通じて小樽商人が道央・道東に進出するようになった。そのうえ、日露戦争後の樺太領有によって、小樽商圏はさらに発展した。(p.297)


明治30年代以降についての説明か。小樽の商圏がこの頃に道東に進出した事については、このことを象徴する歴史的建造物があるので私はいつもそれを想起する。現在の小樽オルゴール堂の建物がそれである。もともと共成(株)という米穀商が明治45年に建てた木骨レンガ造の建物だが、小樽の米穀商がこの時期にこれだけ立派な建物を建てたというのも、北海道の内陸の開発が進んだことにより、そこに本州から小樽経由で米を運ぶ需要が増大したことを反映しているからである。(この点については資料による裏付けがあったと記憶しているが、本稿執筆時にはすぐに発見できなかったため、誤りが含まれているかもしれない。)

他にも小樽商人の高橋直治が「豆成金」「小豆将軍」などと言われたのも十勝の小豆を第一次大戦時に高く売ったことで財を成したことに由来すると聞いているが、これも一つの象徴的な事例だろう。(彼が大正12年に建てた邸宅が「旧寿原邸」として小樽に残っている。)

なお、小樽商圏の発展にとって樺太は思われていたほど大きな重みはなかったと最近の研究では言われているということは付記しておこう。



大土地の払い下げをうけた大地主たちは、ほとんど東京在住の不在地主である。無償の北海道国有未開地処分法の時代、いわゆる寄生地主制が大きく形成されたのである。
 開拓者のほとんどは内地で産を失って移住してきたものである。まじめに開拓しようとする、資力のない移民が新天地に希望をいだいてやってきたとき、よい土地はみな資本家が占有していた。……(中略)……。
 明治33年(1900)に営業を開始した特殊銀行、北海道拓殖銀行は、国有未開地処分法に対応して、大資本家や大地主にたいする融資を担ったが、中小資本家には冷たかった。そこで中小地主は、他府県同様の農工銀行設立をはかったが成功しなかった。拓殖銀行は大正末・昭和初頭、融資の抵当流れで、いつのまにか寄生地主の側面をもつにいたる。(p.300-301)


このあたりも先の北海道の企業は中央大資本の系列になるという議論と同様、植民地として「内地」とは異なる位置に置かれていた北海道の状況をよく示している。



ストーブの使用は幕末・昭和初年の官の施設までさかのぼるが、一般家庭への普及は第一次大戦前後、むしろ後といったほうがよいだろうが、それと成金が結びつけられて話になるのである。大・小豆、菜豆、エンドウ豆などの豆類王国は十勝である。豆類はもっとも投機的作物(ここに水田農業を中核とする本州農民とのちがいがあるが)だが、従来、大・小豆は必ずしも輸出商品として重視されていたわけでもなく、とくに大豆は満州・朝鮮産に押され、大正3年からは暴落した。だが明治40年における大豆8円73銭、小豆8円95銭が、5年後の大正元年には、それぞれ9円32銭5厘、13円52銭5厘に高騰した。この情勢をつかんで日本郵船を利用し、大もうけをして小豆将軍といわれたのが小樽の高橋直治である。(p.303)


高橋直治については上で少し述べたが、日本郵船との繋がりはあまり私も知らないので、詳しく知りたい。日本郵船が豆の投機的売買のために(?)ヨーロッパへの航路を開いたといったことがあったのか?



だが、昆布からとれる塩化カリは火薬の原料になる。思わぬところで、第一次大戦中に輸出が高まったのである。(p.304)


第一次大戦が日本の経済に及ぼした影響は大きなものがあるが、昆布もここに関係してくるとは驚いた。



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