アヴェスターにはこう書いている?
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榎本守恵 『北海道の歴史』(その1)

 ところで、日本列島をひとしなみに縄文文化とよぶが、北海道の最初の土器は、縄目文でなく貝殻文土器で、二つの流れがあった。一つは道南地域にみられる底がとがっている尖底土器グループで、東北地方と共通性がみられるもの、いま一つは底の平らな平底土器のグループである。尖底土器は床面に立てて置くことはできないので、火灰の中に立てて石で支えたものであろう。ものを煮るには熱が伝わりやすいからである。あるいは、芝や枯れ草の床につきさしていたのかもしれない。
 このように土器が使われはじめたころには、東北地方と道西南部が一つの文化圏をもっており、こののちは、たえず北と南からの文化の流入がある舞台が北海道なのである。(p.21)


東北地方と北海道の南西部との文化的な繋がりは意外と強い。北海道についてある程度理解が深まったら東北についても学んでみたい。



また、コシャマインのマインは、のちのシャクシャインなどにもみられるように、酋長の名に多い。じつは男性名にはアイヌが付せられるが、慣例として一般には語尾までよまず、酋長のばあいにはアイヌまでつける。アイヌは、アインになるのである。(p.57-58)


なるほど。



 松前地には本土と同じように村を設け、五人組制度、村役人を通じて支配し、土地売買は禁止された。アイヌにたいしては、「蝦夷は蝦夷次第」ということで、従来の慣例にあまり変化をあたえないようにした。アイヌと和人とのまさつを避けようとしたものであろうが、アイヌの社会形態を従来どおり存続させることで、和人社会との格差が、アイヌ搾取のテコになったといえる。(p.79)


これは松前藩の統治についての記述だが、習慣などが異なる集団を統治する場合、同化政策をとるかそれぞれの文化を認める「寛容な」政策をとるか、という問題は避けがたいものがあるが、後者の方針は一見するとリベラルであるように見えるが、力関係などによっては逆に経済力や技術力の格差を固定化することもあり得るという見方は興味深く、参考になる。



 当時、この騒動の背後にはロシア人の扇動があったとのうわさも流れた。幕府および松前藩の政治のうえでは秘密事項ではあったが、ロシア南下問題は、幕閣の一部や識者のなかで知っていたのである。だから、和人の蝦夷介抱の不十分、酷使・不正が蝦夷に不満と怨みをいだかせていたことは、ロシア人のうわさとも結びつく重大な問題であった。(p.118)


「この騒動」とは、1789年に起こったクナリシ・メナシの騒動のことである。天明の飢饉による食糧不足などもあり、和人によるアイヌに対する搾取が激化していたことなどが背景にあるとされるが、アイヌが和人に敵対するようになるとロシアと結びついてしまうという恐れを幕府が抱いてしまうというのはなるほどと思わされる。



通商条約の締結にもとづいて、安政6年6月、箱館は正式に貿易港になり、それから文久3年(1863)までの6年間に、商船148隻、軍艦99隻、猟船60隻が入港した。国別では商船がイギリスとアメリカ各66隻、ロシア6隻、オランダ5隻、プロシア4隻、フランス1隻の順である。ロシア商船が意外と少ない。軍艦ではロシア82隻、イギリス13隻、アメリカ・フランスが各1隻、軍艦ではロシアが圧倒的に多い。猟船はアメリカ56隻、ロシア4隻である。北太平洋の捕鯨業・ラッコ猟の主流は米露にかわってきたらしい。商船はイギリス・アメリカが群を抜いて多いが、そのほとんどは蝦夷地産物を中国(清)に運ぶものであった。これは、従来長崎俵物諸色として重要な役割を果たしたイリコ・干鮑、とくに昆布であり、貿易は輸出が大部分、輸入はせいぜい外人居留民の必要品で、きわめて少額であった。ただ、ここで問題なのは、従来の長崎輸出の俵物諸色が、長崎会所の訴えにかかわらずその独占体制がくずれたことである。……(中略)……。ところが、例えばイギリス商人が箱館で公正に昆布などを購入し、清国へ適正に輸出するならばさして問題は残らない。内実はイギリス商人の名目で、実際は清国商人が蝦夷地昆布を安く買いたたき、独占的利益を占めるようになると、道内の商人・生産者はいちじるしい苦境に立たされることになる。この問題は、維新以降も尾を引き、国策会社が何度も設立されて対策に苦慮したのである。(p.161-162)


前段は開国前には「通商」を求めてきていたロシアが商船が少なく軍艦が圧倒的に多いのが興味を惹かれる。

後段ではイギリス商人の名目で清の商人が安く買いたたいて独占的利益を得ていたという件からは、中国の商人のしたたかさを感じる。



諸術調所は、幕府の開成所を小型にしたようなものであったが、入学者は幕臣たると藩士たるとを問わず、ひろく門戸を解放していた。学生は原書で講義する原書生と、訳書で勉強する訳書生とにわけ、オランダ文典・航海術・算法などひろい指導をうけた。当時の学生のなかには、明治の工部大学校で活躍した山尾庸三や、郵便制度の生みの親前島密、鉄道の父井上勝、航海者蛯子末次郎らの俊才が集まった。武田を慕って箱館にきたが、かれが不在だったために福士成豊の援助をうけてアメリカに密出国した上州安中藩士新島七五三太(新島襄)のような青年もいた。福士成豊は、船大工続豊治の子で、のちに気象学などで北海道に貢献した傑物である。
 前述の箱館丸による日本一周や、亀田丸のニコライエフスク行きや、建順丸の上海行きの指導は、学生の実施訓練や視野拡大に大きく役立ったことであろう。文久2年(1862)、鉱物調査のために招かれてきた、アメリカの地質学者パンペリーが、この諸術調所で鉱山採掘法・溶鉱法・分析法などを指導した。諸術調所は幕府開成所以上に視野がひろく、進歩的であった。(p.164)


開成所より諸術調所の方が進歩的であるのは、それだけ政治権力の目が及ばない地であったことと関係しているのではないか。

新島襄が北海道に渡っていたのは知っているが、武田斐三郎を慕って来ていたとは知らなかった。



コーヒーのばあい、とくにおもしろい話が伝えられる。すでにのべたように、蝦夷警備隊は越冬にさいして多く浮腫病(水腫病)で陣没した。壊血病の一種ともみられる。その対策として、箱館奉行は各場所にコーヒー豆(オランダ豆ともいう)を配給した。もちろん日本でははじめてのことである。箱館奉行は詳細な説明書を添付、そのなかで「黒くなるまでよくいって、こまかくたらりとなるまでつきくだき、二さじほど麻袋に入れ、熱湯で番茶のような色にふりだし、土びんに入れておき、冷えたら適当にあたため、砂糖を加えて用うべし」とのべている。日本におけるコーヒーのはじまりは、このような特殊薬用であり、蝦夷地警備隊がその先鞭をつけたのである。(p.165-166)


上記のような病気に効き目はあるのだろうか?また、箱館奉行がこれほど詳しい説明を書くことができたということは、蝦夷警備隊が飲む以前に誰かが日本でも飲んでいたのではないか?という疑問を抱かせる。

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