アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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マックス・ウェーバー 『国家社会学[改訂版]』

国民投票的指導者による政党の指導にとって、前提条件となるのは、従属者の『魂の喪失』である。彼等の精神的プロレタリア化といってもよかろう。指導者のために器具として役立つためには、従属者は、名望家的虚栄心にも自己の見解の要求にも心を乱すことなく、盲目的に服従し、アメリカ的な意味での機械にならなくてはならぬ。……(中略)……。『機械』を使う指導者デモクラシーか、それとも指導者なきデモクラシー、つまり、使命(Beruf)をもたず、指導者の条件たる内面的な、カリスマ的資質をもたぬ『職業政治家たち』の支配か、二つの中の何れかしかないのである。(p.81-82)


晩期ウェーバーの人民投票的指導者民主制の政治観がよく表れているところであるように思われる。(もっとも、本書はヴィンケルマンがウェーバーの政治的な著作をつぎはぎして勝手に組み上げた議論なので、ウェーバー自身の思想を語るには適切な本とは言えないが…。)大衆は所詮は魂を喪失した精神的プロレタリアであり、指導者にただ盲目的に服従するだけの存在であると前提されており、カリスマ的指導者がこの「機械」を使うべきだと考えられている。

ここで述べられている「機械」という語は、官僚制や軍隊などを語る際に「装置」という語を用いるのと並行しているように思われる。指導者が官僚制という「機械(装置)」を使うように、大衆をも「機械」として使うという発想に対しては、個人的にはおぞましいと感じるが、それを抜きにしても、命令系統が決まっている組織である官僚制と、アモルフなものとして捉えられることが多い大衆的な従属者たちを同じように「機械」として操作可能なものと考えるのは仮に比喩であったとしても適切ではないように思われる。

また、ルーマン的なコミュニケーション概念からは、官僚制という組織でさえ、「機械」や「装置」として捉えることの不適切さが指摘できる。「機械」や「装置」では、ダブルコンティンジェンシーが考慮されていない。すなわち、従属者側が指導者側に対してどのように反応するかという選択の余地があることについて無視されており、このことが持つ意味や効果は軽視できない。いわんや大衆をや、というところである。

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