アヴェスターにはこう書いている?
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丸山眞男 著、松本礼二 編注『政治の世界 他十篇』
「科学としての政治学」より

一般に、市民的自由の地盤を欠いたところに真の社会科学の生長する道理はないのであるが、このことはとくに政治学においていちじるしい。(p.16)


先ごろ、大学の文系学部を縮小すべきだとかいうような話が出たが、まさに昨今の日本社会は市民的自由の地盤が崩れてきていることを象徴している。(政府・文科省あたりは誤解だと言っているようだが、このような言い訳は全く信用するに値しない。)



そうして、爾来経験科学としての政治学は主として英米(political scienceとして)及び仏(sciences morales et politiquesとして)のごときいわゆる西欧民主主義国家に発展し、そこでもっともみのり多い成果をあげて今日に至っている。これに反してドイツにおいては後に触れるように、政治学はほとんどもっぱら国家学(Staatslehre)として展開し、それもとくに、国法学(Staatsrechtslehre)乃至は行政学の巨大な成長のなかにのみこまれてしまった。これもつまりプロシャ王国乃至ドイツ帝国における市民的自由のひ弱さと、これに対する官僚機構の盤石のような支配力を反映した結果にほかならない。(p.16-17)


なるほどと思わされる対比。特にドイツについての記述は説得力がある。



 ビスマルクはかつて政治をば「可能的なものについての術」(Kunst des Möglichen)と呼んだ。政治的思惟の特質は、それがすでに固定している形象ではなくて、何か絶えず新たに形成され行くもの、その意味で、未知を含んだ動的な可変的なものを対象としているところから生れるのではないかという事は既に多くの学者によって感知されていた。十九世紀ドイツ国家学の発展が政治的なるものを国家理論のなかから漸次排除して、ひたすら国学として完成されて行く過程(この伝統を究極までつきつめたものがケルゼンの純粋法学であるこというを俟たぬ)にほかならぬことは前にも触れたが、そこで、政治学的考察をば、法学的なそれと区別する際に、共通に見られる傾向は、やはり政治を国家の「動態」に関連させて捉えていることである。(p.29)


ドイツの国家学の発展のプロセスがどのようなものだったのか、少し詳しく検討してみると面白そうではある。



「政治学」より

政治学はその本質上人間生活のあらゆる領域い関係するので、勢いきわめて包括的な知識を必要とし、それだけ動もするとディレッタンティズムに堕し易い。しかしそれかといって隣接領域に盲目ないしは無関心なプロフェッショナリズムに陥っては、他の学問はいざ知らず政治学は到底有効性を発揮できない。そこでこの二つの危険から免れるためには、ロブスン教授が言っているように政治学研究者はどうしてもJ.S.ミルの定義した意味での「教養人」を志さざるをえないことになる。それはあらゆることについて何事かを知っており、何事かについてはあらゆることを知っている人」というのだ。(p.313)


社会科学を学ぶことは上記の意味での「教養人」のような者になっていくことであると私は考えている。しかし、個人的には、経済学の研究者の多くからはこうした傾向を感じないことに大きな問題を感じている。



「政治的無関心」より

アパシーはなるほど支配的な象徴にも対抗的な象徴にも積極的には結びつかないが、その現実的効果は一般的に支配層により有利である。現在の体制は「消極的」忠誠によっても惰性の力で相当の程度まで維持されるが、それを変革しようとする運動は自己の側に「積極的」に大衆を動員しないかぎり進展しないからである。積極的にリベラルでも保守的でもないということは政治的には保守的に作用せざるをえない。(p.336)


これは現在の政治状況においても非常に重要な指摘である。7月に参院選が控えているが、それを前にした安倍政権の動きはまさにこの性質を利用したものである。積極的に反対をひき起こすようなことはせず波風立てずにしていれば、世論の政治への関心は高まらず、その結果、支配層により有利になる。そして、議席を獲得した後に、何の信任も受けていない事柄を好き勝手に進めていこうとしている。この程度のことにはもう少し多くの人が気づき、大衆を小馬鹿にした支配層の魂胆に対して怒りを感じるべきである。



「政治的判断」より

政治から逃避する人間が多ければ多いほど、それは政治にカウントされない要素ではなくて、その国の政治にとって巨大な影響を及ぼしてくる。つまり、専制政治を容易にする。一般人民が政治から隔たるほど専制主義的な権力というものは、容易になるということです。……(中略)……。政治に関心をもたない人の群れのムードによって、それなりに一つの政治的な気圧というものが作られるといことになるわけであります。(p.354-355)


一つ前の引用文とほぼ同じことを言っているが、上で私がコメントをつけたことに関連して述べると、安倍政権(自民党)が勝てば参院選後にはひどい専制的な政治が待っているということを理解すべきである。



さしあたり今の政治的なリアリズムの問題に関係させて申しますと、つまり、現実というものを固定した、でき上がったものとして見ないで、その中にあるいろいろな可能性のうち、どの可能性を伸ばしていくか、あるいはどの可能性を矯めていくか、そういうことを政治の理想なり、目標なりに、関係づけていく考え方、これが政治的な思考法の一つの重要なモメントとみられる。つまり、そこに方向判断が生れます。(p.357-358)


この方向判断というものは、確かに政治的な思考法において非常に重要なものである。

また、政治的なリアリズムというものが現実を固定したものとは見ないというのも重要である。ここで批判されているのは保守的な見解の持ち主が「現実」を見る際に採用している見方である。例えば、現在の権力者を肯定し、その「勝ち馬に乗る」ことが「現実的」であるとし、それを批判するような見方に対して「現実的ではない」と見做すような見方は、政治的なリアリズムではない、ということである。



これに対して、ああいう中国やソ連のような大きな国が隣りにあって、膨大な軍備をもっている。それなのに日本は無防備ではいかにも心細いというのは、日本と中国とを世界の具体的状況から切り離して、抽象的に考えるか、あるいは何となく心細いという心理的気分に基づく判断です。こういうのは政治的なリアリズムに立った判断とはいえません。ところが皮肉なことに今日では、再軍備反対論者にたいして、「道徳的には日本は無防備でもいいという考え方も成立つだろう。しかし現実の問題として考えれば、再軍備は必要である」という言い方が通用し、それがあたかも政治的リアリズムに立った唯一の考え方であるかのようにいわれます。ですから、必ずしもそういう結論が出てくるとはかぎらないという例として今のようなことを申し上げたわけです。(p.364-365)


この論文が出た1958年から70年近く経過しても、同じ議論が繰り返されている。安倍政権が2015年に安保法制を力づくで採決した際にもここで批判されているのと同じ説明をしていた。この時の議論で集団的自衛権の発動の要件について具体例をまともに上げられなかったことは間違いなく、「抽象的」な考え方でありリアリズムではないということを物語って余りある。(ただ、安倍政権の真意は恣意的に軍事力を使えるようにすることにあり、その真意は違法行為であることから正当な説明が不可能であるため、形だけの理屈を持ってくることで議論したふりをして数の力だけで押し切ろうとしていたのは明らかではあるが。)



政治にベストを期待するということは、強力な指導者による問題解決の期待につながります。政治というものは、われわれがわれわれの手で一歩一歩実現していくものだというプロセスを中心にして思考していったものでなければ、容易に過度の期待が裏切られて、絶望と幻滅が次にやってくる。万事お上がやってくれるという考え方と、なあにだれがやったって政治は同じものだ、どうせインチキなんだ、という考え方は、実は同じことのうらはらなんです。(p.370)


政治的な選択は「悪さ加減の選択」であり、ベストを期待すべきではないというのは、全く同意見である。そして、ベストを期待することが強力な指導者による問題解決の期待に繋がるというのは鋭い指摘であり、このことが孕む問題に我々はもっと敏感にならなければならないと思う。



いいものだから参加するというよりはむしろ悪いものだから参加して監視していく。これがつまり政治的リアリズムの考え方ということになるわけです。(p.371)


同意見である。政治は公権力を行使するものであり、究極的には暴力を伴っているというウェーバーの見方などは、こうした方向へと私の認識を導いてくれたものの一つであった。(しかし、ウェーバーが晩年に到達した「人民投票的指導者民主制」はエリートが最善の選択をするべきだという考え方であって、政治的リアリズムではない。)

政治教育などで模擬選挙などを行われることがあるが、その際、公約を比較して自分と考え方が近い政党に投票するように教える場合があるかも知れないが、この選択の仕方は「ベストの選択」をする考え方であり、この考え方で投票すると望ましくない結果を防ぐことが出来ないという大きな問題があると考えている。むしろ、最もやってほしくないことをやりそうな候補者を落とすために、あるいは落とさなくてもせめて得票率を下げるなどによって彼の威信を下げるために必要な投票行動はどのようなものか、といった発想で投票すべきであろう。



けれども一般的傾向として保守は、現在の憲法の民主主義はゆきすぎているという状況判断にたって、いくらかでも元の日本帝国に近いものにもどそうという方向で、いろいろな政策を出しているというのはリアルに見れば明らかです。(p.378)


70年近く前から「保守」のやっていることは同じであり、安倍政権にはここで述べられていることが特に当てはまる。



とくに革新政党の側が、保守対革新という、非常に公式的な二分法によっているために、さっきいった戦後解放された国民の実感、つまり、現在憲法によって保障されているいろいろな権利の実感を失いたくないという保守感覚、これをもう少し政治的に昇華して、組織化する方向に努力すれば、もっと広範な大衆を動員できるのではないか。(p.380)


現在のリベラルや左派にとっても参考になるものを含んでいる。リベラルや左派の側は、ここで述べられている「保守感覚」をもっと明確に打ち出すべきであり、大衆にそうした感覚について自覚できるように促すべきではなかろうか。そして、「保守」と自称している連中がそうした権利を奪い去ろうとしているということを明るみに出すべきである。



それじゃ、実際国民的なレベルにおいて、政治的な意識がフランスで変動しているかというとあまり変動していないんです。政党のことを専門的に研究しているフランスのある学者によると、驚くことに1870年、つまり第三共和制が成立して以来左を支持する層と右を支持する層とのパーセンテージは殆ど変っていないのです。(p.383)


政治的な意識というものの持つ保守性についてはよく認識する必要がありそうだ。



 デモクラシーの進展にともなって、従来政治から締め出されていた巨大な大衆が政治に参与することになったわけでありますが、巨大な大衆が政治から締め出されていく度合いが激しければ激しいほど、あるいはその期間が長ければ長いほど、多数の大衆の政治的成熟度は低い。大衆の政治的成熟度が低いと、右にいうような言葉の魔術というものは、ますます大きな政治的役割をもちます。つまり、それだけ、理性よりもエモーションというものが政治の中で大きな作用をするということになるわけであります。これをある人々は慨嘆して、デモクラシーというものがどうも誤って大衆に過度の政治的権利を与えすぎた結果である、というふうに考えるんです。(p.384)


「言葉の魔術」に対して日本の有権者はもっと耐性を持ってほしいと思うこと頻りである。



多数決という考え方には、違った意見が存在する方が積極的にいいんだという考え方が根底にある。……(中略)……。つまり、こういう反対少数者が存在した方がいいという考え方から、少数意見の尊重ということが、あるいは、反対意見に対する寛容ということが、民主主義の重要な徳といわれる理由はすべてそういうところから出てくるわけであります。(p.388-389)


近頃、こうした考え方が忘れ去られつつあるように思われる。これは恐ろしいことである。



ある法が望ましくないという場合に、その反対する力が強ければ強いほど、その法が成立する過程において抵抗が強ければ強いほど、できた法の運用をする当局者は慎重にならざるをえない。(p.391)


丸山は安保条約の改定を念頭に置いているのだろうが、現在の安保法制の議論にも当てはまる議論であり、非常に重要な指摘である。デモをして法案の成立を阻止できなかった場合でも、その行動には意味がある。

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