アヴェスターにはこう書いている?
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丸山眞男 著、古屋旬 編 『超国家主義の論理と心理 他八篇』(その3)
「ナショナリズム・軍国主義・ファシズム」より

しかし軍国主義の浸透にはまた大衆の側での精神的物質的な受入れ体勢ができていることが重要な条件である。軍隊という閉鎖的特権的なカーストは、社会的昇進の途をふさがれた下層民にとって、しばしば栄誉と権力の階梯をのぼりうる唯一の装置である。高度資本主義のもとで、「都市」に象徴される機械文明の恩恵にあずからずそれにたいする嫉妬と羨望をもっている農民は、機械化された軍隊に入ることによってその挫折(フラストレーション)を癒すし、逆にまた都市の小市民で機械的な生活のルーティンに堪えられず、その単調さから救いをもとめるひとびとも、やはり軍隊生活や国民生活の軍事体制化のうちに刺戟と変化を見出していく。一般的には軍国主義下の最大の被害者である労働者階級でさえも、工場閉鎖や大量整理の脅威が慢性化すると、企業の全面的な軍事的編成に「安定」へのデスペレートな希望を託することがまれではない。したがって軍国主義自体は一つのイデオロギーであるとしても、その解毒のためには単なる軍国主義や平和主義のイデオロギーの鼓吹では足りないということになる。(p.401-402)


現代日本の右傾化や軍事拡張化に対して対抗するにも反軍国主義や平和主義の言説だけでは足りないように思う。

思うに、現代日本の国粋主義的な勢力の伸長(それへの抵抗の弱さ)の重要な背景には、人口減少、生産年齢人口の減少が基底にある経済成長の「自然な」鈍化や経済が国境を超えて動く度合いが非常に高まっていることによる上層部への富の集中と中間層以下に対する下方移動圧力などによる不安感・焦燥感の蔓延といったものがあるだけに、抵抗する側は単に言説のみによって抵抗しても全く足りない。この条件は一国の政治の力では変えることが難しいが故に軍事拡張反対派にとっては分の悪い戦いになっている。

(逆に言うと、軍事拡張派は、それ自身の論理が強力であるとか、運動の勢力が強いというわけではない。むしろ、これらの点はそれ自体としてはとてもまともに扱う価値があるものではない。単に彼らの主張が多くの人々の不安につけ込む結果となっているというだけだと言うことができる。)



 周知のようにこの言葉はイタリア語が原語で、その語源は古代ローマの儀式用の棒束の名称から発し、それが転じて一般に「結束」を意味するファッショfascioの語となった。(p.404)


2011年の東日本大震災の前後だっただろうか、やたらと「絆」という言葉が使われたことがあった。当時の野党自民党も谷垣総裁の下で頻繁にこの言葉を使っていた。私はこのことに違和感を常に覚えていたのだが、この件を読んでその理由がはっきりしたように思う。

すなわち、現在の自民党のような政治思想的には極右に近い権力集団から「絆」という言葉が出てくることは、まさに政治思想的なファッショを求めるメンタリティと共通性があるが故にそうした物言いになっているのではないかと感じさせるからである。



ファシズムの主張やスローガンの公分母をもとめていくと、いつも最後には反共とか反ユダヤとかいった否定的消極的な要素に行きあたる。それはファシズムが現代の社会的矛盾にたいして反革命と戦争をもってしか答えるすべをしらないからである。(p.418)


自民党(特に安倍晋三やそのシンパたち)の政治思想的な面での主張も同じようなところがあるのではないか。安倍の究極の目標は言うまでもなく「憲法改正」だが、これは拳法を改めるというよりは「反日本国憲法」という否定的消極的な要素に他ならない。

安倍や自民党がやりたいことが「反日本国憲法」であることは、人権の制限が盛り込まれた憲法草案、平和主義の換骨奪胎(集団的自衛権の行使を含めた積極的に他国に軍事的行動を示すことにより自国の安全を守れるとする主張)、国民主権の理念を否定する情報操作といった一連の動きを見ていればすべてこれに該当することが分かるはずである。



「現代文明と政治の動向」より

 他方、未だ政治的に啓蒙されていない、つまり批判的な、合理的な組織を平素教えられていない非デモクラチックな大衆は、きわめて一方的な考え方と行動しか教えられていないからとかく強硬論に支配される。ロシヤ討つべし、支那打つべしといった勇ましい議論が大衆の中から出てくる。また、そういうような議論しか出てこないように政治意識を低く止めておいたわけです。
 ところが、そういった政治的な低さ、というものから、対外的な、排外熱の昂揚という形で大衆の感情が沸騰すると、指導者は自分が煽っておいた世論に自分自身が引きずられるという結果になり、政治家自身がそれをコントロール出来ないで、心ならずも大衆に引きずられ、敵国と妥協すべき時に妥協する能力を失ってしまう。そういうことがかえって非民主的な体制においては起り易い。第一次大戦のドイツがそうであり、第二次大戦の日本がそうであります。自分が煽っておいた国民的情熱に、逆に指導者が縛られて、自由自在に政策を決定することが出来ない。こういう奇現象が起るわけです。(p.460-461)


このあたりの叙述は最近20年くらいの中国がまさにこの状態を続けているように思われる。

日本も学校教育で社会科学がまともに教えられていないことがあり、大衆の政治的な問題を批判的に見る見方は一般に未成熟であり、最近はマスメディアへの自民党の圧力が強いためなおさらこの傾向に拍車がかかるだろう。



要するに、近代テクノロジーが単なる政治社会だけでなく、生活環境そのものの中においても人間の知識なり、判断力を断片化するように出来ている。例えばニュース映画を御覧になってもお分りのように、朝鮮戦争のナパーム爆弾による悲惨な被害の場面とか、あるいは水害による被害といったような、われわれが非常に悲惨な思いをさせる情景が映し出され、その映像が消えないうちに画面の方がパッと変って、今年のファッションショウは……というのが映る。
 前の画面と後の画面とが関連がない。次々に無関連な印象を押しつけられる。こういう時代に生きておるわれわれにとっては、どうしても持続的に思考して、じっくり考えるということはなく、瞬間々々に目まぐるしく変る現象に巻きこまれ、持続的な思考力はこういう風にして麻痺させられる。
 ですから現代の広告技術と、独裁者の政治的宣伝のテクニックというものは恐ろしく似ています。(p.464-465)


知識や判断の断片化というのは、丸山の時代よりも現在の方がより酷くなっているように思われる。スマホで通知が随時鳴っているような状況の人には特にそれが当てはまるかもしれない。



解説より

批判に値するほどの論敵からは、立場の違いを超えて学ぶべきところが必ずあり、そうした敵との真摯な対話ほど自らの思考を鍛える格好の機会はないというのが、彼の終生変わることのなかった信条であった。(p.549)


なるほど。容易なことではないがゆえにこうした心がけは重要と思う。

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