アヴェスターにはこう書いている?
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丸山眞男 著、古屋旬 編 『超国家主義の論理と心理 他八篇』(その1)
「超国家主義の論理と心理」より

国家秩序が自らの形式性を意識しないところでは、合法性の意識もまた乏しからざるをえない。法は抽象的一般者として治者と被治者を共に制約するとは考えられないで、むしろ天皇を長とする権威のヒエラルヒーに於ける具体的支配の手段にすぎない。だから遵法ということはもっぱら下のものへの要請である。(p.26)


丸山は戦前の日本の精神構造について語っているが、この時代ものとして説明されている考え方は、ほとんどが現在の安倍政権の考え方と共通しているように思われる。ここもその一つである。

いずれも法治国家とか法の支配あるいは立憲主義といったことが蔑ろにされ、権力者による人治が実質的に横行している。安倍政権の下では「遵法」は、権力者(政府や国会)には課せられず(従って、法に従わずに好き勝手に振舞うことができ)、一般の人々にだけ課せられている。

例えば、集団的自衛権の閣議決定と安保法制が最も典型的だが、沖縄県の決定に対して審査請求を行うなどということも明らかに違法ないし脱法行為である。そして、自民党の憲法草案権力を縛る要素を減らしており、国民の義務を大幅に書き込んでいるが、これは権力の暴走を防ぐための高位のルールとしての憲法としての体をなしていない。むしろ、権力者が国民に縛られずに自分たちがやりたいことを勝手にできるようにするようなルールになっている。まさに「遵法ということはもっぱら下のものへの要請」になっていると言ってよい。



思えば明治以後今日までの外交交渉に於て対外硬論は必ず民間から出ていることも示唆的である。更にわれわれは、今次の戦争に於ける、中国や比律賓での日本軍の暴虐な振舞についても、その責任の所在はともかく、直接の下手人は一般兵隊であったという痛ましい事実から目を蔽ってはならぬ。国内では「卑しい」人民であり、営内では二等兵でも、一たび外地に赴けば、皇軍として究極的価値と連なる事によって限りなき優越的地位に立つ。市民生活に於て、また軍隊生活に於て、圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆が、一たび優越的地位に立つとき、己れにのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられたのは怪しむに足りない。彼らの蛮行はそうした乱舞の悲しい記念碑ではなかったか(勿論戦争末期の敗戦心理や復讐観念に出た暴行は又別の問題である)。(p.33-34)


最初の一文はとくに重要であり、この論文が書かれてから70年ほど経った現在でも妥当すると思われる。

丸山の理解社会学的な説明は興味深いものがあるが、必ずしも実証されていないという弱点があるように思われる。ただ、ヘイトスピーチを行なうような人々の心理も、ここで描写されているものと近いのではないか、とは思う。国内では「卑しい」人民であっても、在日朝鮮人のようなより弱い立場の人間に対しては優位に立てると感じるからこそ、彼らはあのような攻撃ができるのである。もし、彼らが本当に在日朝鮮人が彼らよりも優位に立っていると心の底で感じているのなら、あのような攻撃はできないであろう。



「日本ファシズムの思想と運動」より

わが国の中間階級或は小市民階級という場合に、次の二つの類型を区別しなければならないのであります。第一は、たとえば、小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校教員、殊に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官、というような社会層、第二の類型としては都市におけるサラリーマン階級、いわゆる文化人乃至ジャーナリスト、その他自由知識職業者(教授とか弁護士とか)及び学生層――学生は非常に複雑でありまして第一と第二と両方に分れますが、まず皆さんは第二類型に入るでしょう。こういったこの二つの類型をわれわれはファシズム運動をみる場合に区別しなければならない。
 わが国の場合ファシズムの社会的地盤となっているのはまさに前者であります。……(中略)……。
 ……(中略)……。しかし日本のインテリのヨーロッパ的教養は、頭から来た知識、いわばお化粧的な教養ですから、肉体なり生活感情なりにまで根を下ろしていない。そこでこういうインテリはファシズムに対して、敢然として内面的個性を守り抜くといった知性の勇気には欠けている。しかしながらともかくヨーロッパ的教養をもっているからファシズム運動の低調さ、文化性の低さには到底同調出来ない。こういう肉体と精神の分裂が本来のインテリのもつ分散性・孤立性とあいまって日本のインテリをどっちつかずの無力な存在に追いやった。これに対して、さきにあげた第一の範疇は実質的に国民の中堅層を形成し、はるかに実践的行動的であります。しかも彼らはそれぞれ自分の属する仕事場、或は商店、或は役場、農業会、学校等、地方的な小集団において指導的地位を占めている。……(中略)……。しかも尚重要なことは生活様式からいって彼らの隷属者と距離的に接近しておりますし、生活内容も非常に近いということから、大衆を直接に掌握しているのはこういう人達であり、従って一切の国家的統制乃至は支配層からのイデオロギー的教化は一度この層を通過し、彼らによっていわば翻訳された形態において最下部の大衆に伝達されるのであって、決して直接に民衆に及ばない。必ず第一の範疇層を媒介しなければならないのであります。……(中略)……。実際に社会を動かすところの世論はまさにこういう所にあるのであって、決して新聞の社説や雑誌論文にあるのではないのであります。(p.92-96)


当時の日本のインテリ層を2つの層(本当のインテリと亜インテリ)に分けた上で、ファシズムの責任は本当のインテリではなく亜インテリにあると受け取れなくもない論調は若干気になる。というのは、ここで描かれている無力な存在に追いやられた本当のインテリの姿は、丸山本人の姿ではないかと思われ、自身にはファシズムへの責任はないと弁解しているように読めるからである。

それに、亜インテリ層は自分の小さな世界で指導的地位を占めていることと絡めて影響力の大きさが説明されているが、教授は彼が指導する教員たちや学生たちを従えるような立場であり、弁護士は自身の弁護士事務所の指導的な立場であると同時にクライアントに対しても様々な助言ができる立場であるなど、今一つ説得力に欠ける面もある。ただ、彼らは情報を流通させるハブとしての役割を果たしやすいということは言えるかもしれず、「亜インテリ」たちは教養の水準が教授や弁護士よりも低いことが一般的であるため、いわばイデオロギー的な抵抗力が弱く感染しやすいということはあるかも知れない。

また、現代の日本で当時の「亜インテリ層」に相当するような社会層は存在するだろうか?



岩波文化があっても、社会における「下士官層」はやはり講談社文化に属しているということ、そこに問題があります。(p.99)


インテリの岩波文化と亜インテリの講談社文化、これらは当時どのようなものとして考えられていたのだろうか?



日本ファシズムの最後の段階において議会において最も反政府的立場に立ち、最も批判的な言動に出たのは、皮肉にも、日本ファッショ化の先駆的役割をつとめた民間右翼グループだったわけであります。終戦後における皇道派勢力の復活、乃至ちゃきちゃきの右翼主義者がただ東条だったという理由で、民主主義者として現われて来たのもここに根拠があります。(p.117)


興味深い指摘。


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