アヴェスターにはこう書いている?
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デーヴィド・ビーサム 『マックス・ヴェーバーと近代政治理論』(その1)

だが、『経済と社会』での官僚制の説明は、ヴェーバーの著作に見出されるべき官僚制の三つの異なった側面ないし理論のうちの一つを成すにすぎない。しかも、この説明がヴェーバーの同時代人に対してもった意義すら充分には把握されてきていない。というのも、その背景をなす社会政策学会内での論争が無視されていたからである。ヴェーバーの三つの理論のいずれもが、学会の「保守」派によって採られた官僚制観に反対して構想されたのである。従って、ヴェーバー自身の説明を考察する出発点として、この「保守」派の見解を取りあげるのが適当である。(p.77)


社会政策学会の「保守」派とは、ウェーバーより上の世代の学者であるシュモラーらのことである。また、ここでの官僚制の三つの異なった理論とは、本書によれば、①官僚制は技術的に効率の良い行政手段であるということ、②官僚制は社会内部の一つの独立した力となって、その社会の目標や性格に影響を与えることができるようになるという内在的傾向を持つということ、③官僚制は社会の階級構造を反映するということ、である(p.78-81)。本書によると、こうした見方はいずれも「保守」派の官僚制論を批判するものであったという。

ある思想や理論などを理解する際、それが何をどのように批判して成立してきたかということを理解することが非常に重要な場合があるし、これを理解することでなぜそのようなことを言うのか、ということが理解でき、こうしたことを踏まえないでいるよりも一段深い理解に至ることができることが多い。一人の思想家が書いたテクストを読み解く場合、このように少し視野を広げながら読み解いていくことは重要である。



イギリスとドイツの統治制度の対比はドイツの政治分析の常套であり、イギリスの議会は民主的改革を唱えた人々にとって一つのモデルとして受け容れられた、と言ってよい。その意味では、ヴェーバーの類型論には特に独創的なものは何もなかった。だがヴェーバーは、異なった視覚から接近することによって、この常套手段に新たな光をあてるという独自の方法を用いた。ここでヴェーバーによって強調された議会的政府の特質は、それがより「民主的」だというのではなく、むしろ、それが近代官僚制を統禦しうるようなリーダーシップを発達させるという点にあった。……(中略)……。ヴェーバーの立場の特異性は、彼が、近代の状況のもとでは形式的に民主的な諸制度が力強い政治的リーダーシップの最良の保障をなす、と考えるところにあった。(p.124)


ウェーバーの政治思想の核心に近いところに触れているように思われる。ウェーバーの理想では、「民主的」かどうかといったことはあまり問題とされず、国家や民族の「名誉」であったり、官僚制化に対する「自由」といったことが重視される。ウェーバーがその政治思想において思考が発する出発点は、ひとりひとりの個人ではなく、国家や民族であるという点で、根本的に保守的な立場である。ただ、そのための手段としては、第一次大戦頃までは議会の権限強化という手段を重視していた点でリベラル派と政策的に共通していたというに過ぎない。このように「理想や目的」の次元では根本的に保守的であり、そのための「手段」としてはリベラルな方法によって達成できると考えていたところに、ウェーバーの政治思想の両面価値的な評価、様々な価値観の立場から自らに引き付けた解釈を許す余地があった、と私は今のところ見ている。(もっとも、ウェーバーの政治思想については、改めて関係する諸論文を読み直さなければならないと考えている。)



彼はまた、ブルジョアジーの「赤い幽霊」への恐怖が幻であることを暴露した。その特に有名な例は、1907年にマンハイムで開かれた社会政策学会の会合で彼が行なった発言である。討議の主題は地方自治の制度と行政であったが、話は選挙権の拡大についての議論にまで発展し、拡大の結果として大都市域で社会民主党が権力を握るであろうということに多くの人々の恐怖が表明された。ヴェーバーはそうした恐怖を嘲笑しようとした。彼はこう論じた。社会主義者が官職を得たあかつきには、第一に重要なことの一つは、革命的イデオロギーの担い手たちと、彼らの勢力拡張に物質的利害関心を抱く一群の党支持者との間に対立が現れるだろうということである。真に危機に陥るものは前者であろう。長期的にみて、都市や国家を征服するのは社会民主主義なのではなく、むしろ国家の方が社会民主主義を征服するであろう。(p.209)


90年代の日本で社会党が政権与党に入ったことによって生じた現象を言い当てているように思われる。私見では、例えば、社会的弱者や個人の権利を擁護することと政権を運営していくことの間にはどうしても矛盾がある。すべての人をひとり残らず同じ程度だけ満足させることはできない。このため弱者や権利を擁護する立場の者が権力を握った場合、この矛盾がより大きく表れてしまう。ここに左派・リベラル派が権力を握った後の運営の難しさがあるように思われる。

(もちろん、だからと言って保守的な立場の者が政権につくことが望ましいとは全く思わない。安倍政権の集団的自衛権に関する閣議決定や法制化に見られるように、権力濫用の懸念が大きいことや社会全体にとっての有益性よりも一部の特権階級的な人々の短期的な利益に沿った利益誘導、例えば法人税の減税と消費税の増税や、震災復興の最中に東京オリンピックの招致をして復興のための資源を奪ってしまうことなどによって社会全体としてのバランスが崩れるため結果として悪い結果になることが多いと思われるため。私の見るところ、「保守」は強い者をより強くしようとするため、彼らの望む何をやってもバランスが崩れることになる。)




 この倫理の二類型を区別するなかで、ヴェーバーは政治的道徳性の普遍的な問題を強調してはいるが、その論争的な目的と背景とは明白である。この区別は、彼の政治的敵対者たちを非政治的な一範疇へと追放するのに有用な案出物であった。この範疇でみれば、彼らが自己矛盾にとらわれていることを示しうる、つまり彼らが、本質的に現世外指向の態度によって現世内の目的を達成しようと試みていた、というのである。(p.220)


ここでの倫理の二類型とは、もちろん、あの有名な「心情倫理」と「責任倫理」のことである。ビーサムによれば、ウェーバーは政治を行うには責任倫理がふさわしく、心情倫理はふさわしくないと考えているとした上で、上記の議論を展開している。心情倫理によって行動している人々は、政治に相応しくないとすることができる区分であるというわけだ。

心情倫理と責任倫理という概念はいろいろな解釈がされてきていると思うが、さすがに本書は70年代の著作ということもあり、このあたりの理解は単純になされているという感はある。ただ、確かにこのような使い方をされている節はあり、ウェーバーの主観的意図に沿った説明にはなっているのではないかと思える。

ただ、ウェーバーは理念型を構成する場合、批判に耐えられるように流動性を持たせたりするので、そのことがこれら二つの倫理の関係を複雑にしており、後世の研究者たちの頭を悩ませているのではないか、という気がする。(例えば、理想的な責任倫理的立場では心情倫理の要素も求められており、これらは単純な2項対立ではないという理解も可能であり、私もそのように理解している面もある。つまり、論理的には双方の良いところが組み合わされることで理想的な倫理になるように構成されているが、実際に概念が使用されている場面では本書のような仕方で使われているのではないか。特に後段の部分についてウェーバーのテクストに立ち返って検証しなおしてみたい。)



 ヴェーバーの議論は、社会主義者を、真の政治家ならば含まれない一範疇に入れようとした。彼らが、恐らくは情熱はあろうが、見透しをもたぬ人々であったから。彼の議論の弱点は、それが、政治的行為の結果〔の評価〕についての相違、つまり長期的な効果と短期的な効果のいずれが考慮されるべきかについての相違としても示すことのできるものを、道徳的範疇の差異として示したことであった。……(中略)……。ヴェーバーは、彼の敵対者たちが自らの魂の救済よりもむしろ現世内での成果について真剣に考えるのであれば、彼らは結果に関する経済的議論の地盤に立つべきだ、と主張した点では正しかった。しかし、その結果については正しい見解がただ一つしかありえないかの如くに語った点で彼は誤っていた。(p.222)


これは一つ前の引用文で問題にされていた心情倫理と責任倫理の対比に関する考察の続きだが、鋭い批判だと思う。

ウェーバーが責任倫理の重要性を主張するとき、確かに、正しい見通しが一つしかないかのように語っているという印象が強い。しかし、結果に対する見通しは、どのような要素を考慮に入れるか、また、どの程度の時間軸で考えるか、といったことにより様々な結論が導かれるはずであるにも関わらず、この点に関してウェーバーのテクストでもあまり突っ込んだ議論が展開されていないように思われる。従って、引用文の批判は、ウェーバーの二つの倫理を巡る議論が学問的にみると不十分であることを示す、かなり強力な批判になっている。

とはいえ、「責任倫理」というカテゴリーを示すことによって、政治などのような重大な決定を下す際には、結果に対する考慮を重視せよというメッセージを発することはできている。「責任倫理」という概念は、教育的な意味がある概念であり、ウェーバーの議論を参考にして鍛え上げていく価値があると思う。

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