アヴェスターにはこう書いている?
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ユルゲン・コッカ 『〔新版〕ヴェーバー論争』

まず、フーフナーゲルが浩瀚な文献的知識に依って明らかにしているように、ヴェーバーは彼の「理念型」概念を決して十全かつ体系的に説明したことはなく、それ以来理念型には、高度の――ある人には厄介な、他の人には「可能性豊かな」――「両義性(アンビヴァレンツ)」がつきまとっている。次に、モムゼンが明確に示した如く、マックス・ヴェーバーの理念型理解はいくつかの段階を経てきた。後期ヴェーバーの理念型は、「プロテスタンティズム」論文や「客観性」論文の理念型と較べると、現代の社会科学者・行動科学者のつかう一般命題により近似していると言えるのではなかろうか。(p.33)


理念型理解がいくつかの段階を経たというのは、「十全かつ体系的に説明したこと」がないのであれば、単に揺れ動きがあるだけ、という可能性もあるように思われる。今後、モムゼンの本も何冊か代表的なものは押さえておきたいと考えている。



一方でヴェーバーの徹底した

「価値の不可知論」

、つまり価値と行為目標に関する理性的な討論の断念、そしてこの問題をもっぱら闘争と決断の領域に放っておこうとすることは、民主主義概念のこうした危険な形式化へ、議会制の道具化へ、そうして(行政がますます目的合理性を増してゆくなかで)政治的な〔意思〕決定過程の形骸化、いやまさにその非合理化へと導いた。(p.40)


このあたりの指摘は、サンデルがリベラリズムの中立性の要請を批判しているのと同じ論点と思われる。



もしも――グスタフ・シュミットが明らかにしたように――人民投票的指導者民主主義の諸要素へのヴェーバーと同様な共感が――他の面では、価値の問題性に関するヴェーバーの見解も、「官僚制的凍死」に対する彼の懊悩もほとんど分かち持ってはいなかった――マイネッケやトレルチにおいても見出せるならば、かのヴェーバーの提案を、モムゼンが行っているようにひたすらヴェーバーの思想全体の傾向から説明しようとするのは正しいかどうかが問われることとなる。(p.42)


なるほど。



近代的官僚制と経営の革新能力は、ヴェーバーにとって(他には例えばシュンペーターによっても)著しく過小評価されていたようである。これは社会的変動に関する彼のモデルの弱点を示している。彼のモデルでは――イデオロギー的な倍音を少しく含んで――変化の運動法があまりにも偉大な人間個性――経済の領域でいうと、企業者個人の資質――につなぎ留められている。(p.55)


伝統的支配や合法的支配のもつ硬直的というか変化に抵抗する局面をカリスマ的支配によって打破するというモデルになりやすい。ウェーバーの理論では、社会変動について説明する道具立てが不足している



 この半世紀の発展は、いったいヴェーバーの社会硬直化という予測を確証しているであろうか?政治、経済及び文化における偉大な独一の個性をもった人間の役割が疑いなく減少したにもかかわらず、変動はますます急速かつ全般的となっている、と少なからず確実に論じられるのではないか?このことは再度、こうした諸々の変貌とスピードアップとを説明することも予測することもなかった彼の社会変動モデルの弱点を示している。(p.55)


ウェーバーの社会変動モデルに対する鋭い批判。



 最後に、ヴェーバーのとった態度や彼のなした定式化の多くを、彼が論争し、抗議を行なっていた当時の状況から理解すべきではないか、という問題が吟味されるべきであろう。彼は、不断の闘争と評価の分析に対する独立性というテーゼを、彼の基本的な傾向に適切であった以上のものにまでしてしまったのではなかったか?というのも、固有の政治的立場の隠蔽のために専門知識を濫用することに対して、彼は徹底した反対の意を表していたからである。彼はまた恐らくは、認識を導く観点の、研究対象の構造からの、実際にはただ相対的でしかない独立性を――彼の確信に照らしてみると正当であったものの度を越えて――強調しすぎたのではないか?というのも彼は、客観主義者たちに対して、認識論の領域における素朴さや独断主義に対して、論争的に議論していたからであり、また彼の学問論は、論争的な個別論文の一集成だからである。彼はおそらく、その立憲政治の諸提案の中で、多くのリベラルで民主主義的な、反権威主義的な、また反情念的な保証――そんなものへの言及など当時の具体的な状況裡にあっては何ら論争的な機能を持たなかったであろう――については、この保証が、多分彼の基本的な立場の帰結にあったのであろうが、いや彼にはこんな保証などおそらくは明々白々と思われていたにせよ、彼は黙殺したのではないか?このような考察は、ヴェーバーの著作における亀裂を取り除くことはないが、それでも次のことの助けとはなりうるであろう。まずその亀裂を理解すること、そうして、〔論者による〕多くの定式化が有する論争上の一面性について、強調されることが余りに少なかったそれの対重局面を見逃すようなことからヴェーバー解釈を救うこと、である。この対重局面は、ヴェーバーの立場を〔従来の解釈と〕全く同等に刻印づけているのである。(p.56-57)


ウェーバーの議論の論争的な性格が、様々な定式化を一面的なものとしており、ウェーバー本人の考え方を正しく表現していないところがあるとコッカは見ている。論争的に書くことで一面性が高まるというのは確かにありがちなことであり、ウェーバーに限らず一般にテクストを読む際には、発言の相手や文脈を踏まえて読み解くことは、テクストのより深い理解のためには重要


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