アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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平井信義 『「心の基地」はおかあさん やる気と思いやりを育てる親子実例集』

 「いたずら」というのは、自発性にもとづく好奇心の現れです。……(中略)……。
 ……(中略)……。「いたずら」は自発性のある「よい子」の姿ですから、絶対に叱ったり叩いたりするような「悪い」ことではないのです。悪い行動であれば叱る必要がありますが「よい行動」ですから、「いたずら」は大いに許容してあげたいわけです。(p.14)


「いたずら」は自発性にもとづく「よい行動」であるということが、本書では繰り返し述べられる。この見方は、子育てにおいて非常に重要であり、何も知らずにいると大人側の都合で禁止してしまいがちな問題であるが故になおさら知っておく価値がある考え方であると思われる。



また、屑籠を散らかしたり、ティッシュペーパーを引き出すような「いたずら」はそのまま大目に見ていてよいのです。散らかしたあとは片づければよいし、ティッシュペーパーはビニール袋にでも入れて溜めておけば、ちゃんと使えます。しかも、赤ちゃんの好奇心が満たされてその実態がわかれば、このような「いたずら」は二、三ヵ月でしなくなってしまいます。私は、それを、発達課題を卒業した――と言っています。そして、もっと複雑な「いたずら」へと挑戦するようになっていきます。三歳までが、親たちにとって困るような「いたずら」が多いので、私はこの時期を「いたずら時代」と名づけました。(p.16)


なるほど。卒業するまで(危険のないような「いたずら」は)大目に見ておけば、自ずと卒業してしなくなる、というわけか。なかなかそこまで大らかに待つということはできない親が多いように思うが、発達の様子を見守りながら「待つ」というのは、子育てにおいても(仕事などで後輩や部下の育成においても)共通する重要な姿勢なのではないか、と思う。

個人的には、このときに「諭す」ことが必要か否かという判断が難しいと思っている。



子どもは、以前に失敗した困難に意欲的に挑戦して、それに成功したときには、強い自信をもちますし、さらに意欲がさかんになります。「やった!」というわけです。その点で、お母さんが子どもに失敗をさせないように気を配って、先がけてやってしまっていますと、これが過保護という育て方になっていますから、自信のない子どもになってしまい、何かにつけて「やって!」と言い、依存心の強い子どもに育ってしまいます。自発性の発達を阻害するのは、過保護に育てたお母さんやそのほかの家族の責任です。(p.20)


この点はしばしば指摘されることだが、やってみるとなかなか難しい点でもある。最近のように子供の数が少ないとなおさらであると思われる。



 子どもに「自由」を与えるということは、子どもに「まかせること」ですし、子どもに責任をもってもらうことにつながります。子どもは自分の力で(自発的に)何とか行動しなければならないからです。どうしてよいかわからないこともあるでしょう。困難に挑戦しなければならないこともあるでしょう。あるいは失敗を重ねることもあるでしょう。それらを自分の力で解決したときに、成功感を味わうとともに、責任感もまた育ってくるのです。子どもたちは、親たちに「まかされる」ことによって、責任感の強い子どもになるのです。ですから、お母さんもお父さんも「無言の行」をぜひ実行して下さい。初めに、それを子どもに宣言しておくとよいでしょう。
 「無言の行」を始めてみますと、自発性の発達のおくれている子どもは、すでに述べたように(28ページ参照)、ぶらぶらと過ごす状態が現れます。その姿を見ていると、お母さんはいらいらしてきます。……(中略)……。「無言の行」は、なかなかつらい修業ですが、この修行によってお母さんの人格も向上するのです。しかし、三カ月から六カ月は続けなければなりません。(p.32-33)


「無言の行」とは、子どものすることに干渉や口出しせずに見守ることで、親にとって多くの我慢を伴うことから「行」と名づけられているようだ。

過保護とか過干渉というのは、どこからがその領域になるのかがなかなか難しいものだが、子どもの発達段階によっても変わってくることがさらに問題を難しくしている。ただ、いずれにせよこの傾向があると自覚する親は、「無言の行」をやってみる価値があるように思う。3~6か月は続けるという目安が示されているのは参考になった。これくらいの期間続けることでようやく子どもに変化が生じてくるということがその理由のようである。



 私の経験によれば、この「無言の行」は、子どもが小学校二、三年生の頃に実現するのが、非常に効果的です。それは、子どもの心に親たちを批判する力が芽ばえるときであるからです。「無言の行」をしている間は、しつけをしようなどとは考えないことです。(p.34)


なるほど。理に適っている。



 お母さんにからだで甘えたいという要求は、順調に情緒が発達しており、母子関係が成立している子どもの場合には、思春期になるまで続きます。(p.70)


そんなに大きくなるまで続くものなのかと驚いた。



お母さん・お父さんに自分本位の心が多ければ多いほど、子どもを叱ることが多くなってしまう(p.74)


確かに。



玩具などは、お誕生日とかお正月など、日を決めて与えるとともに、その際の予算も決めておくとよいでしょう。その間に欲しい物があっても、その日まで「待つ」心を育てましょう。これが、がまんをする力を育てることになりますし、自分本位な心を自分の力で統制する能力を育てることになり、それとともに、「思いやり」の心も発達するのです。(p.79)


いつでも何でも子どもが欲しがった時に買い与えるという方針は誤っているとは思っていたが、その理由がより明確になったように思う。



お手伝いをしていないというよりも、お母さんがさせていないということです。それはなぜでしょうか。第一に、子どもにお手伝いをしてもらいますと、時間がかかったり、ものを壊したり、ダメにしたりして、かえってお母さんの手間がかかるので、自分がやったほうが能率的に家事がはかどるから――という理由があげられます。このようなお母さんが完全主義であることは当然です。未熟な子どもであることを理解して、少しずつ家事を教えていき、だんだんに上達してもらうことを考えていないのです。(p.81)


説得力がある。



子どもは、お父さんと遊ぶのが何よりも楽しく、お父さんに遊んでもらった子どもは、お父さんを慕います。(p.100)


父親が子どもとの情緒的関係を深める最大の機会は普段の遊び、ということ。



子どもと楽しく遊ぶことのできる男性には童心があります。童心があるということは、非常に柔軟性があるわけです。柔軟性があるということは、自分の考え方に固執せず、自由に考えることができることを意味しています。さらに、子どもと楽しく遊ぶことのできる人は、子どもの立場に立って考え、子どもの気持ちを汲むことができますから、「思いやり」があるわけです。(p.102)


なるほど。逆に言うと、自由に考えることができる人や「思いやり」がある人こそ、子どもと楽しく遊ぶことができるというわけだ。ある意味、人としての根本的な力量が試される。(ただ、子どもと楽しく遊ぶことができていても、「単に童心があるだけ」という人もいないわけではないと思うが…。)



つまり、子どもは不潔の体験を重ねながら、だんだんに清潔の意味を理解していくことが大切であって、急いでしつけをしないでほしいのです。子どもが泥んこ遊びで不潔なことをしていても、それを楽しんでいる子どもの気持を理解し、それでひとしきり遊んだ後に、それを清潔にする方法を教えていくわけです。(p.122)


なるほど。ここまでは自分では思い至ることができなかった…。



 興味のもてないことに対しては、お母さんだって前向きに取り組めないのと同じように、子どももそのことに取りかかるまでに時間がかかりますし、始めてみてもなかなかそれに乗ることができないものです。お母さんとしては、そのような子どもを目の前にすると、すぐに腹を立てて叱ってしまうでしょうが、叱る前に、興味のないことの原因がどこにあるかを考えてみましょう。一般的に言って、生活習慣などは子どもにとって興味のもてないことなのです。……(中略)……。お母さんとしては、せっせと子どもにやってもらいたいでしょうが、ほどほどにしておいていいことで、思春期以後になって自覚すれば、生活習慣などは自発的にやるようになるものです。
 勉強についても、学校の勉強は面白くないものです。それは、先生から一方的に押しつけられた課題であるからです。(p.124-125)


歯磨きや洗顔などの生活習慣に関することは、子どもにとってみれば興味がないことだというのは、なるほどと思わされた。思春期になれば自発的にやるようになる、というのも納得できる。

小中学校などの勉強が押し付けられた課題というのは、その通りだと思う。それをいかに自分のこととして考えられるように仕向けられるかがポイントなのではないか、という気がする。



「早く」は、お母さんの焦りを現しています。つまり、おおらかでない心、ゆとりのない心から飛び出してくる言葉です。何かにつけて、子どもがせっせとしないと怒ってしまっているわけです。その点にお母さんが気づいたならば、何とかして自分の人格におおらかな心を育てるように、努力を始める必要があります。(p.127)


親から子どもに向けて発せられる代表的な言葉のひとつが「早く」ではないか。親の側にこの責任が全面的にあるものと考えろというわけだ。確かに、子どもに多くを求めるよりはその方がかえって現実的でもあるかも知れない。

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