アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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ああちゃん、さやか(ビリギャル) 『ダメ親と呼ばれても学年ビリの3人の子を信じてどん底家族を再生させた母の話』

 児童心理学者 平井信義先生は、子どもはけんかをしながら健やかに育つ、とおっしゃっています。
 ……(中略)……。
 平井先生のおっしゃる「性善説」からしますと、4歳までの子がやることはすべて「善」であって、すべてを認めてあげることで、思いやりのある子に育つのだそうです。
 ……(中略)……。
 愛する親に、いらだちや怒りを伴って叱られることで、もともと善の意識しかない子どもは、戸惑い、傷つき、親への信頼を少しずつ失っていきます。
 ……(中略)……。
 結局、「このままでは長男が悪い子になってしまうのではないか」と、長男を信じ切れなかった母の疑いが、その頃の長男を傷つけ、悪くさせていた根源であったと思います。(p.109-110)


なるほど。4歳までの子どもには悪意を持って何かをしようなどと言うことは考えていないから、その気持ちを認めてあげながら育てるべきであり、行動面などの矯正/強制を怒りなどの感情を伴ってすべきではないということか。認めてあげつつ、社会の規範なり他人の感情なりを理解できる方向に仕向けるのだとすれば(もしそうしたことが全く必要ないというのであれば、何の働きかけもせず子育てを放棄しているような事例との違いがあまりないことになる。単に心理的に受容するだけでよいということなのだろうか?)、言うほどには簡単ではなさそうだ。

いずれにせよ、平井信義氏の考え方には参考になるものが含まれていそうであり興味を惹かれた。この点は本書からの収穫のひとつ。



 教育者の長谷川由夫先生は、その後著書のなかで、子どもを「叱る」怖さを、このように説明されています。
 「叱る」とは、ある行為を否定禁止する「罰」の1種である。
 誰しも、あたたかい信頼関係があるときには相手を「叱る」などとは思いもしない。
 人間関係において、信頼と罰とは、相反する。罰が続けば、信頼関係は壊れる。
 また叱ることは、手段として限界があり、悪循環を作る。勉強しないことを叱り続ければ、さらに勉強しなくなる。
 もっと押さえつけを徹底して、子どもを叱り続ければ、爪かみ、言葉のつっかえ(吃音)、おねしょ、ずる休みなどの神経症状や問題行動におよぶことがある。
 「叱る」ことは、ストップをかけるだけ。なにが良いかを示さないから期待行動は起きてこない。悪い行動はやめても、良いこともしない子になる。
 むしろ恐怖と不安からいじけ、消極的になり、何もしなくなる。
 さらに長期におよべば、叱る程度を、より上げなければ効かなくなる。
 そして、それは、叱る者への敵意となって返ってくる
 あるいは、子どもの自発性や自信を奪い、顔色を見る子になる。そうした子は、力に弱い権威主義者になり、強い者には絶対服従し、弱い者には、冷酷に攻撃を加えるようになる。
 わが子が「弱い者いじめ」をするのは、親が子を叱り続けたことによる、当然の結果である。
 また、親の勝手な見栄や世間体、日常の不満不安、いら立ち、自分自身の心理的安定のために、子どもを叱っているケースも、多くあるのではないか。
 自分の気が済むまで叱り続け、それが激化すると、子どもが見えなくなり、親が自分を保てず、子どもの全人格を否定するようになり、子どもはひどく傷つく。
 そうしたなかで叱られて育った子は、大人の身勝手さ、大人の無反省さを見抜く力が育ち、人間不信が心のなかで育つ。
 人に対する「不信と敵意」と、親の態度を真似た「弱者への攻撃」の2つが結合すると、「いじめ」現象が生じる。
 叱られつけた子は、2タイプに分かれる。
 耐性ができて、不信感で図太くなり、人への敵意を心に宿したたくましい子が「いじめっ子」となる。いっぽう、敏感でちりちりと委縮した子は「いじめられっ子」になる。
 叱るなら、まず自分を叱るのが第一だ。自分を叱っている人は、他を叱るひまはない。(p.115-117)


本書では先の平井先生とここで出てくる長谷川先生の教育論をベースにして教育について語られている。長谷川由夫氏の考え方も学んでみたいと思う。

「叱る」ことは罰の一種であり、信頼を損なうものであり、ストップをかけるだけで善を示さないものであり、権威主義、人間不信、人への敵意を生み出すものであるという一連の指摘には非常に納得できる。一部は自分自身が育ってきたプロセスと重なる部分があるし、他の親が子に対してしている自身の見栄に基づいた叱りつけなども見聞してきたことがある。

信頼を損ない敵意を育てることは、いろいろと感情面の作用などもあるとは思うが、論理的には、ストップをかけるだけのものであり、善を示さないものであるところに関わってくるように思われる。逆に言えば、叱るよりは何が善であるかを言動によって示すこと(明示的あるいは暗示的に)をした方がよいのではないか。心理面に着目すると受容して諭すといった流れになるのかもしれない。



 さやかの場合は、「すばらしい未来の友人たちと出会いたい」という、さやかの個性に合わせたワクワクする価値観を共有するところから、スタートしてくださいました。

 その上で、坪田先生は、本来「学ぶ(=知らないことを知る)ことは楽しいこと」であって、人生をより楽しくするための、誰もが平等に持てる“最強の武器”こそが「学問」なのだ、ということを子どもたちに教えてくださいます。
 学問は、「良い点を取って、親を喜ばせるためのもの」ではないことを、根底から教えてくださるのです。

 ……(中略)……。

 私は、さやかに勉強を嫌いになってほしくなくて、勉強を押し付けることはしてきませんでした。(p.174-175)


勉強する意味についての見解としては、高校生から大学に入る頃までの考え方としては理想的な考え方だと思う。ただ、大学を出る頃や大学院に進学するような場合には、もう少し学問の負の側面なども含めて批判的に捉えられるようになってもらいたいとも思う。

最後の一文のスタンスは非常に重要で、小学生や中学生の頃に押し付けるとまともに勉強するような子どもには育たないとはっきりと知っておくべきだろう。親は本人が必要性に気づいた時点で頑張れるように環境を整える、なるべく悪い環境にならないように配慮するのが仕事であると思う。



 長男が小学校に上がって以降の長い間、夫には、「息子には一切、口も手も出してくれるな。こいつのことのすべてはおれが決めて、幸せな人生を歩ませる。おまえなんかがちょっかいを出すと、こいつの人生は、めちゃめちゃになってしまう」と言われていました。(p.188)


夫婦の関係が悪いことが、子育てのあり方にも深く影響を及ぼす。この家庭の場合はこのあたりの分裂が非常に際立っており特徴的。ただ、ここまで極端だったからこそ、問題も見えやすくなり和解の可能性へと繋がった面もあるのかもしれない



 子どもは、何かを与えられるだけでは、幸せにはなれません。
 親は、いつでも子どもを信じ、子どもが自らの意思で、自分の望む幸せを見つけ、そしてそれを自力で手に入れるのを、あくまでも「手伝う」べきだと思うのです。(p.189)


基本的な考え方としては非常に共感するところなのだが、どのように「手伝うか」というのは、常に変化する子どもの成長の度合いとその置かれた環境の双方の先の見通しを立てながら行うことになるので、なかなか難しいとも感じている。そのあたりの「良い加減」の目安になるものを見つけたい。



 今の学校教育においては、子どもの心を理解することよりも、成績の良い子や、大人によく従う良い子を作って、問題を起こさせないことが優先されているように思います。(p.206)


親たちが権利や子どもの望ましい環境について敏感になればなるほど、逆に学校側はこうした傾向を強める可能性があるのではないかという気もしている。メディアなどによる学校への批判なども然り。



 楽しい家庭があると、それが子どもたちの原動力になり、何事にもがんばれる子に育つのだ、と思います。(p.210)


これは大事なポイント。子育てに関して、夫婦の関係が良いことが必要なのはまさにこのためではないかと思う。実際にはこれもそう簡単なことではないとも思うが。



 私たち家族は、正しさだけの旗を掲げて、人をなじったり、戒めるばかりで、思いやりやユーモアのないやり方が、嫌いなのです。
 間違ったことをしている人に「違うぞ!」と強く叱りつけることは、意外とかんたんです。
 でも、その間違っている人は、知らずにやっているのかもしれませんし、わかっていてもできないのかもしれません。
 叱ることは、誰にでもできます。
 でも、思いやりを持っている人は、怒るのではなく相手にわからせようとするものだと思います。(p.234-235)


ここで良しとされている人間関係のあり方は、確かにその通りだとは思う。しかし、例えば、ある人が育った環境(親や家族の関係)がもともとこうしたものだった場合、築きやすいと思うが、こうした関係が身近になく、こうした関係を経験したことがない人にとっては意識や努力をしようとしても成し遂げるのは至難の業であると思う。



 平井信義先生も、成果ばかりを考えて、習い事をさせることは、よほど性に合った子以外には、むしろ弊害が大きいとおっしゃっています。
 子どもの豊かな感性を育むには、子ども自身が好きで通う習い事でなければいけない、ということです。(p.240)


同意見。



 特にまーちゃんには、幼い頃から「謝りなさい」「ありがとうと言いなさい」「ごあいさつは?」というしつけはしてきませんでした。
 子どもが納得していないことを強制して、“良い子”を装わせるような道徳教育はしないできたのです。
 本当に子どもにやってほしいことは、自分でやって見せて、子どもに自主的に「真似したいなあ」と思わせるように仕向けてきました。
 それでこそ、人生に意欲的で、一度その気になったときには爆発的にがんばれる若者、大人に育つと思うのです。(p.268-269)


確かに。「納得していないこと」を「強制しない」ということがまず重要である。納得していないことを強制すると、子どもの意思は否定されるため意欲がない人間になりやすい。こういうことをする必要性が生じないようにするには、納得させることが重要なのだが、言葉で納得させることも必要な場面は必ずあると思うが、できるだけ行動によって示していくことで、自ら子どもが気付くことになるため良い効果が見込めるわけだ。



 教育者の長谷川由夫先生は、前出の『あなたと子供が出会う本』のなかで、現代は情報過多でありながら、正しい情報を選別しにくい情報飢餓時代でもある、として、こういったことをおっしゃっています。
 現代は、誰か偉い方が旗を掲げて言い出した、いかにも正しそうなスローガンを、疑わずに正しいと思い込み、ワーッとみながなだれ込んで真似をする。その絶対数が多いほうが正しい、とされがちな時代である。
 例えば、「人に迷惑をかけない」というスローガンが、どこの学校にも誇らしく掲げられるようになったことについて、「高慢な人間を作りかねないのではないか?」。
 なぜなら、人間は多くのものに面倒をかけどおしのなかで、やっと育っていけるものである。なのに、「人に迷惑をかけない」というスローガンにより、「みんな、迷惑をかけながら生きている」という自覚がなくなってしまう。
 こうしたスローガンのせいで、「草木や他の動物すべてに迷惑をかけながら、我々はやっと生きているのだ、だからすべてに感謝しないといけない」ということをわからない子が多く育つのではないか?――と。(p.270-271)


なるほど。前段の時代診断については、教育の場面というより昨今の政治の場面を思い浮かべてしまう。特に小泉政権や第二次安倍政権などの姿勢と重なるものを感じてしまう。

それは措くとして、「人に迷惑をかけない」という考え方が学校で掲げられているかどうかは分からないが、確かにこの考え方は次第に強まってきた趨勢にはあると思う。一昔前の方が「おたがい様」ということを言い合う機会は多かったように思われ、それが次第に「人に迷惑をかけない」の方が優位になってきた感じはする。これは80年代以降の新自由主義的な考え方の蔓延と並行していると考えるべきだろう。

「人に迷惑をかけない」より、「互いに依存しあっているという事実を認めて、感謝し合いながら生きる」の方が人間としても社会としても望ましいように思われる。



 児童心理学者 平井信義先生は、こうおっしゃっています。
 子どもにとっての天国とは、「自分が言いたいことが自由に言える」「自分のやりたいことが自由にできる」場所のことだ、と。
 言いたいことは変わってもいいのです。情けない愚痴でも、嘆きでもいいのです。そのとき、そう思っているのなら、思った通りのことを言えばいい。かつての発言と矛盾していてもいい。
 子どもにとっての家庭とは、そんな場所でないといけないのでしょう。(p.291)


自由に発言でき、自由に行動できる場というのは確かに重要である。自由に発言できるためには受容的に聞いてもらえるということが重要であり、自由に行動できるためには危険の少ない場所であることが必要であると思う。前者はよく強調されるが、実は後者の方が意外と難しいことのように思う。



「100点を目指す」という思考を当たり前にしていたら、「常に不満足」であり、「常に不幸せ」な心理状態に陥ります。(p.343)


確かに。これでは減点主義の評価になってしまう。



 「教育」というのは、誰しもが「持論」という名の素朴概念を持っています。
 日本で生まれれば、必ず小学校から中学校まで9年間の義務教育を受けて育っていますし、また、親なり親戚なり行政の担当者なりから、必ず「教育を受けて」私たちは育ってきました。
 よって、「子育ては、こうあるべきだ」という「信念」を、何かしらの形で形成してきているわけです。これは、例えるならば、「数学を、学問として学んでもいない人が、何らかの数学の理論を振りかざす」ようなものです。実際の数学に関しては、そうした場面にはなかなか遭遇しませんが、「教育について、学問として学んでいない人が、平気で教育理論を振りかざす」場面は往々にしてあります。
 しかも、それが、「学問上、理論上もその通り!」という納得のできるものであればまだしも、あくまでも「自分一人の経験」や「子ども二人を育てた経験」、あるいは「自分の親がそうだった」という根拠をもとに、「こうあるべきだ」と考えていらっしゃるのです。
 それは、例えるならば、「野球が下手な人が編み出した打撃理論を、頑なに信じている」というのと変わらないように思えます。(p.345-346)


確かに、教育に関しては、こうした素朴概念を振りかざすことになりやすい。政治家がイデオロギー的に介入をしてくる可能性が大きいのも、これと無関係ではない。だから、通常の行政と教育行政は切り離すことが必要なのであるが、最近は第一次安倍政権の教育基本法の改悪や儀式における君が代の強制の動きなどを見ても、教育についてまともな知見のない、一般の人々を権力者に奉仕させることを善しとするような極端に保守的なイデオロギーの信奉者による介入が強まりつつあり憂慮すべきである。



 「大丈夫。あなたがやらなくても、世間は確実に『Doing』や『Having』であなたのお子さんを評価してくれます
 それによって、子どもたちが傷つくことも多々出てきます。
 自己と世間との関係性においてバランスを崩し、絶望しかける瞬間も出てくるでしょう。
 そんなとき、「私の親は、どんなときも、私の存在を肯定してくれている。だから、相談してみよう」と思えるのか、それとも、「親に言うのは、恥ずかしい。“また”親に迷惑をかけてしまう」と思ってしまうのか。
 それが子どもの自信や、幸福感を大きく左右することになってきます。
 何が起こるかわからない人生において、「圧倒的な無償の愛情」をベースとした関係性を築けて、常に安定したバランスを子どもに供給でき、それにより「勇気」を与えることができるのは、「親」である「あなた」しか、いないのではないでしょうか?
 誰か一人でも、「本当に心から、こんな自分でも愛してくれている人がいる」、そう信じられる状態である、これこそが「幸せ」なことなのではないでしょうか。(p.348-349)


doingやhavingではなく、beingで評価することが親のすべきことであり、ある意味では親だけができることと言える。子の環境を整えるという仕事も、こうした愛情をベースにできていれば理想的だと思う。

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