アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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河本英夫 『<わたし>の哲学 オートポイエーシス入門』

忘れたことは、次に思い起こすとき、まったく別様なものになることが多い。想起とは、再組織化の仕組みでもある。忘れることは、最も貴重な経験の一つであり、なにを学ぶかではなく、なにを忘れるかによって、経験の輪郭は決まる。少年は忘れることをつうじて、学んでいるのである。少年とは忘れるということの弾力のことである。
 ……(中略)……。
 そのため誤解しやすいのだが、ほとんどの根本的な問いは、直接解答の出るようなものではない。同じ問題を考え続けていれば、誰であれどこか妄想様の想念に取りつかれたり、偏執性のこだわりが生じやすくなる。同じ問題は一度忘れて、しばらく経ってから再度取り組んでみるのがよい。忘却と想起をつうじて、問いそのものが変容していくのである。(p.7-8)


言われてみれば思い当たる節があるが、なかなかこうしたことを指摘してくれる人はいない。観察者がすれ違ってしまうもの、見落としてしまうものを感知できるようにしてくれるオートポイエーシスの構想から学ぶものは多い。



注意には、現実性そのものを成立させることにかかわる遂行的注意がある。注意が向き、なにかの現実に気づくのである。成立した現実を詳細に捉えようとすると、焦点的注意が働き、対象が特定されて、見るべきものを見るようになる。これが知覚である。知覚はすでに成立している現実を正確に捉える働きである。なにかあると感じられるさいには、遂行的注意が働いているが、そこからどの局面を焦点化していくかにかかわるのが、選択的注意である。
 不思議さの感覚は、まさに不思議な事象がそれとして気づかれるので、遂行的注意である。そこから焦点化の手前で、特定のなにかに局面を絞るのが選択的注意であり、一般的にはセンスと呼ばれるものである。センスのよい人は、一般には「見えているものが違う」と感じられる。学習の最短性の要請から、多くの児童や少年は一般に見えるべきものを見るように訓練され、焦点化されが知覚を学んでいる。だがそれでは「経験の可動域」が狭くなりすぎるのである。(p.54)


遂行的注意を働かせ続けるには、むしろ不思議なものは不思議なままにしておき、選択的注意を働かせ過ぎない方がよく、その方が「経験の可動域」は広くなるということか。

いわゆる詰め込み教育とか知識偏重などとして学校教育が批判されるが、その議論も、現行の教育が選択的注意ばかりを働かせるものであるところに問題が感じられているところに由来する面がある。一時期、「ゆとり教育」という方針が出されたが、遂行的注意を働かせることに寄与するかという点から見ると、そうは言えないように思われる。単に選択的注意を活用する機会を減らすだけでは、遂行的注意をよく使うことの可能性は多少は開かれるかもしれないが、それほどうまくつながる(遂行的注意の力を育てる)ことはないだろう。では、どのような教育であれば「遂行的注意」の力を鍛えることができるのだろうか?



 観察は、一般によく見ることであり、物事の意味を捉えることである。その点で観察の中心には、つねに知覚が置かれた。知覚は、対象をそれとして捉える感覚的直観であり、捉えられたものが意味である。そして発見とは、この意味を別様に捉えることだと言われてきた。そのさいしばしば、天動説から地動説への移行、フロギストン説(燃素が飛び出すことを燃焼だとする)から酸素説(酸素の化合を燃焼だとする)への移行が、歴史的な典型事例として取り上げられ、議論されてきたのである。そこでは視点を切り替えるように、物事の捉え方を全面的に変えることが発見だと言われてきた。そしてそれが「パラダイム転換」と呼ばれた。
 こうした主張に対して、私はいつもなにか変だという思いを抱き続けてきた。実は、発見とは視点の転換だというような議論は、発見がなされた後に、複数の捉え方を知っている人間から見た発見についての解釈なのである。発見が実際に起きたという事実と、発見が前のものからの不連続な飛躍であることを知った上で、そこで起きたことを、再度視点の転換だと解釈してきたのである。これは複数の捉え方をすでに知っている歴史的傍観者による解釈である。
 少なくとも、発見のプロセスのさなかを進むものは、そのとき何が起きているかが分からないような局面を進む。そのさなかで五感を目一杯開き、勘だけを頼りになお進んでいく部分がある。それは視点を切り替えるような作業とは異なる。(p.55)


科学史や科学哲学などでかつて議論されてきた問題に対するオートポイエーシスからの批判。



 現象がおのずと見えるようになるということは、ただ見ていたり、教えられたことを見つけるような学習とは異なる。教えられてはじめて見えることは、教えられたようにしか見ることはできず、また教えられたことしか見ることができない。ところが何かの拍子に、突然見え始めるような現実がある。こうしたタイプの注意は、選択的注意とは異なるタイプの注意であり、現実性そのものの成立にかかわっている。おのずと何かが見えるようになるためには、現実の宙吊りが必要であり、しばらくそれを維持することが必要になる。(p.62)


このあたりは、2つ前の引用文に対するコメントで私が最後に述べたことと深くかかわっている。思考の宙吊りとそれの維持をさせるような教育とはどのようなものか?



 アナロジーは、当の現象との隔たりがなおかなりある場合であっても、さらにそこに謎を残し、不思議さを残し続ける。アナロジーによる現象の解明は、別段決着がつかなくてもよい。現象を考えるための手掛かりは増え、少しずつピントが合う程度でも十分なのである。(p.63)


容易に決着がつかない問題には、こうした方法によって宙吊りを行うことが有効。



 キュビズムの仕組みで見る限り、形状が基本形の加算となり、持ち合わせた基本形に現実の事物を変形していく。この変形のプロセスに、イメージが関与する。物を見る。眼を閉じる。そしてさきほどの物を可能な限りイメージのなかで蘇生させる。ある意味でイメージをつうじた解釈である。そしていくつかの基本形から事物を再構成するような手順を踏んでいく。このとき現実の物との接点をどこかに残していかなければならない。物をどのように変形させようと、それが物であることの感触を残し、かつ多様でありうることの可能性を残しながら構成されなくてはならない。
 この構成には、現実の物と作品が離れすぎてはならず、近すぎてもいけないような微妙な均衡点があるに違いない。しかもその均衡点は、一つには決まらない。その均衡点をかたちと色から探り当てるところが、それぞれの作家の才能であり、資質である。……(中略)……。
 かたちの変形を極端にまで推し進めれば、実は抽象絵画になってしまう。……(中略)……。
 抽象絵画は、方法的な視点から現実性を別様に解釈できること、さらには方法的に制御できる変数を変えることで、際限のない多様性を確保できるかに見える点に特徴がある。ところが抽象絵画には「何かが欠けてしまっている」という印象が残り続ける。方法的に実行される圧倒的な多様性のもとで何かが欠けるのである。おそらくマティスにとってそれが存在するものの個体性であり、個体のもつ強さであった。
 物は、みずからによって物である。女体はそれ自身によって女体である。あるいは女体はみずから女体であることによって、それじたい一つの喜びである。絵画は、どのように方法的に制御されようと、一切の方法の一歩先において、みずから個体化する。この個体化するものが、みずからによる存在である。そしてそこにまで届かせようとすると、方法的な制御の一歩先で起きてしまうことにかかわらなければならない。それが抽象絵画ではごっそりと抜け落ちてしまうのである。
 このことは抽象絵画が、一目見ただけで面白さも良さも、またそれを描いた者の才気の質まで分かるが、それで打ち止めになってしまうことに関係している。絵から才気は感じられるが、そしてそれは小さなことではないにもかかわらず、それだけなのである。才気は、おのずと感じられることが必要であり、スタンドプレーではないはずである。見せつけるような才気には、凄さと同時にどこか過度に意図して見せつけるような余分さが感じられる。またその意味では見え透いている部分が残り続ける。一般に方法的に制御されなければ、作品は無作為が過剰となり、方法的に制御されているだけであれば、作品の現実は貧困になる。(p.106-108)


前半ではキュビズムに関して述べられているが、現実の物と作品との距離の微妙な均衡点について語られているところは、なるほどと思わされた。そして、その一つに決まらない均衡点を見つけるには才気がいるということも然り。一見すると子どもでも描けそうだ、などと言われるキュビズムや抽象絵画なども、実際に書いてみようとするとそううまくは行かないことが分かるが、その秘密が少し理解できたように思う。

また、抽象絵画に対する批評も、今まで抽象絵画に対して私が感じてきた違和感のようなもののかなりの部分を言い当ててくれているように思われる。ある意味、今まで読んできた中で最良の絵画に対する批評・解説だと思う。



 制作の試行錯誤は、一般に次のプロセスに進むことができるかどうかである。次のプロセスに進むことができたものは、その手前の部分が集合のメンバー(構成素)として確定していく。そしてプロセスの接続点には、ほぼ必然的に選択肢がある。このときプロセスが進めば、なにか特定の傾向がそのプロセス群のなかに出現してくることがある。そのとき作者は、よく分からない力によってそちらに引っ張られていくと感じることがあり、時としてまるで出発点では気づいていなかったものに向かって行ってしまうこともある。
 ところがこのプロセスの連鎖は、どこまでも続くわけではない。制作プロセスの連鎖が、どこかのプロセスに接続して、プロセスの閉域ができたとき、そこに作品の個体が出現する。すると、これはすでにある個体の必要条件を述べているのではなく、個体そのものの出現の仕方を定式化しようとしていることになる。
 しかもプロセスのさなかを進む経験は、個体が出現したとき、それが何であるかを知りようがない。……(中略)……。
 制作プロセスと作られた作品は、異なる次元(ディメンション)にあり、二重の現実性として成立している。(p.120-121)


一つ前の引用文の中で「絵画は、どのように方法的に制御されようと、一切の方法の一歩先において、みずから個体化する」と述べられているが、こうした個体化のプロセスがどのようなものであるかを示しているのがこの箇所である。

制作する行為の連鎖がシステムであり、作品はそのシステムの外部に副産物的なものとして生成している。一つ前の引用文で「方法的に制御されているだけであれば、作品の現実は貧困になる」と述べられているが、これは、こうした場合には、システムと作品とのギャップが非常に小さなものになることと関係している。



 ちなみに新たな角度や観点から、なにかが分かるということじたいは、それほど重要なことではない。むしろ重要なのは、どの程度の展開可能性があるかである。「器官なき身体」という概念で、さらにどの程度、展開見込みがあるかを感じ取り、考えてみるのである。そうするとこの語に込められた主張は、いささか過激なものだが、ほとんど展開見込みがないことが分かる。こうした場面で働く評価が、センスである。こうした場合には、一度それを理解したら笑って脇に置いておくのがよい。少なくともこうした視点を全面的に切り替えるような主張を、自己正当化の言説として活用するようなことは、ただの自己主張である。そこでは実際にはほとんど何も生み出されはしないのである。(p.186-187)


ここではドゥルーズとガタリについて批判しているが、ポストモダンと呼ばれたような議論のほとんどが、展開可能性はほとんどないように思う。あれらはいずれも過度に観察者の立場に立ちすぎており、それまで誰も語らなかった観点を探し、その角度から何かを語ってみただけ、(そして、そういう発見をした自分はすごいだろうと誇ってみたいだけ)という程度のものでしかない、というのが私の評価である。ある意味、二つ前の引用文で、河本は抽象絵画について才気は感じられるが、ただそれだけだと語っていたが、ポストモダニズムもそれと同じようなものだと考えている。

なお、展開可能性がないという主張に対して反論するためには、実際に展開させてみてどれほどのことが言えるかを示すことが重要であり、単に反論者があり得ると思っている可能性について語るだけではほとんど何の意味もない。

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