FC2ブログ
アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

ニクラス・ルーマン 『権力』

 権力は、しかしまた、権力に襲われる自我の側にも別の諸行為の可能性が開かれている、ということを前提している。権力が伝達の働きをおこなえるのは、自我が別の諸行為もなしうるという状況のもとで、自我の行為(あるいは無行為)の選択に影響を与えることができるからである。自我の側に行為もしくは無行為の魅力的なさまざまな選択肢があるのに、なおかつ自己を貫徹することのできる権力こそ、強力な権力である。したがって、権力は、権力服従者の側での自由が高まっていく場合にかぎって高まっていく、と言うことができるのである。
 それゆえ、権力は、具体的に明確に定められた何事かをなすべきだとする強制とは、区別されなければならない。強制を受けるとき、彼の選択可能性はゼロに下がってしまう。強制は、極端な場合には、物理的な暴力の行使ということになり、ひいては、他者が聞き入れない行動を自分で代ってするという結果になる。権力の性格が強制に近づいていくにつれて、その権力は、二重の偶発性を橋わたしするという機能を失なっていく。強制とは、シンボルによる一般化の利点を放棄するということを意味しているのであり、パートナーの選択性を操縦するのをあきらめることである。多くの場合、権力が欠けているために強制が行使されなければならない、と言うことができるのであるが、強制を行使するひとは、その行使の度合いに応じて、選択と意思決定の負担を自分で引き受けなければならなくなる。(p.13-14)


権力と強制は異なるという理解は、これまで主にウェーバーの権力概念に依拠して権力を捉えてきた私にとっては新鮮だった。ルーマンの権力はコミュニケーション・メディアであるから、コミュニケーションの前提としての二重の偶発性(ダブル・コンティンジェンシー)を欠くことができない。強制においては自我の側の選択肢がなくなってしまうためコミュニケーションが生じない、というわけだ。

明確に定められた何事かをなすべきと言葉によって命令されただけであれば、コミュニケーションが成立する余地があり、権力の出番がある。普通、日常用語では「強制」という語には、こうした場合も含まれることが多いように思う。この区別を明確に成り立たせるためには、「強制」という語の意味をかなり限定しなければならないように思う。



 帰属化させてラベルを貼るという関心のあとに続くのは、行為の事実を前提してそれに説明を与える類別化、すなわち自己の行為や他者の行為の体験のしかたを秩序づける類別化である。意志(理性とは区別された)の概念や選択の偶発性を自由(偶然とは区別された)として把握することは、この類別化の一部であるし、最近でいえば、とくに動機や意図の認定がそうである。自由意志というのは、行為の古代ヨーロッパ的な一属性であるし、動機づけられているという性質は、行為の近代的な一属性である。それらは、どちらの場合にも第一次的な事実ではなく、ましてや行為の<原因>ではない。そうではなくて、それらは、行為についての社会的に一致した体験を可能にする帰属認定のあり方である。動機は、行為するにあたって必要なものではないが、行為を理解しつつ体験するためには必要なものである。(p.31-32)


このあたりはウェーバーの理解社会学の方法に対する批判になっているように思われる。動機を理解しても行為を理解することには必ずしも繋がらない。むしろ、観察者による理解が行為の理解を妨げることになる面もある。



定式化された権力は、コミュニケーションの過程では、脅しの性格を受けとる。したがって、この権力は明示的な拒否の可能性にさらされている。それは、回避選択肢の実現化へのすでに第一歩、権力破壊への第一歩であり、この理由から、権力の定式化はなるたけ回避される。そのため、たとえば強制力を直接に表に出すのではなくて、強制力を内に秘めた権利主張を引き合いに出すといったやり方がとられる。(p.40)


権力が明示的に定式化されることは、それへの拒否の可能性をも生じさせるという部分が特に興味深い。何かが強くなると、それへの反対も強くなるというような形での両義性の発生がルーマンの議論では頻出するが、この論理はいろいろな場面で認識の役に立つように思う。個人的にはルーマンの理論から学びたいところのひとつかもしれない。



 社会の複合性の増大とともに選択の伝達ということに対する要求も高まるのであるが、コミュニケーション・メディアがこの要求を満たさなければならない場合に、こうした副次コードが形成される。その結果、抽象的で特定的でなければならない本来のコミュニケーション・コードと並んで、これとは逆向きに形成される副次コードが発生する。これは、本来的なコードと対立する諸属性をもちながらも、ある程度までは同じ機能をはたすことができる。(p.63)


一つ前の引用文と同じく、ルーマンの理論で多用される興味深い論理。



 さらに注記しておかなければならないことだが、交換に特定化されたメディアとして、貨幣は転換に対していちばん鈍感で抵抗力が強いので、他の諸メディアの保護のために、貨幣を遮断するような制度化がほどこされなければならない。(p.197)


ネオリベやリバタリアンへの批判として、この議論は参考になるように思う。



訳者解説より

 まず組織という社会システムの水準では、権力の増大は選択肢の布置の多様化・重畳化ということを同時に意味しているのだが、このことによって、互いに妨害しあえるような権力が発生する。なるほど上司は命令することができるが、多くのことを命令することができる場合には、彼はすべてのことを細部にわたって自分で指図することはできない。彼は部下の協力を当てにしており、自分が命令すべきことについても、逆にひとの方からこうしますからと言ってくれることすら当てにしている。(p.242)


上司と部下のヒエラルヒー的な関係においては、組織論などでは上司は部下に対して命令することができることが強調されてきたが、ルーマンは、むしろ部下の側にも上司に対してかなりの権力を持っていることを喝破している。

組織中央の権力が強くなると、こうした逆方向の権力が発生するため、中央集権化をしようとしてもなかなか頂点に権力が集中しきることはないということも示唆している。


スポンサーサイト

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/1064-052b3a75
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)