アヴェスターにはこう書いている?
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H.R.マトゥラーナ、F.J.ヴァレラ 『オートポイエーシス 生命システムとはなにか』

 言語が指示的なものとみなされる限り、必然的に言語は情報伝達の手段とみなされてしまう。「受け手」の不確かさの範囲が、「送り手」の特定化の度合いに応じて縮小されるような仕方で、有機体から有機体へとなにかが伝えられるというのである。だが言語は指示的ではなく内包的であり、言語の機能は方向づけるものの認知領域にはかかわりなく、方向づけられるものの認知領域で、相手を方向づけることだということが認められるならば、言語をつうじての情報伝達はありえないことが明らかになる。方向づけられるものは、自分自身の活動が独立に働くことの結果として、自分の認知領域のどこに方向づけが働くかを選択しなければならない。この選択は「メッセージ」によってひきおこされるが、こうしてつくり出された方向づけは、「メッセージ」が方向づけるものにとってもつ意味とは独立である。だから厳密には、話し手から聞き手への思想の伝達はなにもない。聞き手は、自分の認知領域に、相互作用をつうじて不確かさを縮小しながら情報をつくり出すのである。合意が成立するのは、結果としてそれぞれの有機体に生じた行動が、双方の維持に役立つような協働的相互作用が行われる場合だけである。(p.203-204)


マトゥラーナは、ルーマン的に情報・伝達・理解としてコミュニケーションを捉える場合に当てはめると、理解の場面に言語は主に関わっていると捉えているようだ。



生命システムで生じていることは、飛行機で生じていることに似ている。パイロットは外界に出ることは許されず、計器に示された数値をコントロールするという機能しか行わない。パイロットの仕事は、計器のさまざまな数値を読み、あらかじめ決められた航路ないし、計器から導かれる航路にしたがって、進路を確定していくことである。パイロットが機外に降り立つと、夜間の見事な飛行や着陸を友人からほめられて当惑する。というのもパイロットが行ったことと言えば計器の読みを一定限度内に維持することであり、そこでの仕事は友人(観察者)が記述し表わそうとしている行為とはまるで異なっているからである。(p.231)


オートポイエーシスにおける行為(作動)と観察との説明として分かりやすい説明と思われる。



以下、訳者・河本英夫による解題より。

 オートポイエーシス論は、コード化された情報やプログラムという発想そのものに異を唱えている。……(中略)……。生命システムの基礎に存在する情報プログラムから、生命システムは設計されているという構想そのものに異論が立てられているのである。(p.274)


このあたりの考え方は、私もあまり詳しくは知らないのだが、もしかするとエピジェネティクスの考え方と近いのではないかという気がする。



 未来社会への移行のコードは、ある種の歴史的変化をコード化するものである以上、必然的に「物語」の形式をとる。未来社会への必然的な移行を説く歴史哲学の「大きな物語」は今や崩壊し、日常的実践の「小さな物語」だけが残されていると、昨今しばしば指摘される。未来社会を予言する歴史哲学的な「大きな物語」は前世紀の遺物となり、もはや身近でコマゴマとした「小さな物語」を描き続ける以外にはないというわけである。このタイプの議論には、過度の自己限定がふくまれている。未来への志向は、行為者であるとともに観察者にもなりうる人間の固有性なのだから、未来社会をコード化すること自体は避けるべき禁止事項ではない。そうだとすると「大きな物語」のなにが放棄されねばならないのか、という問いが生じる。コード化という点についてだけ言えば、「大きな物語」に含まれる未来社会のコード化の仕方は、多くの場合、実現されるべき「未来社会像」を描いている。まるで箱庭を上から見下ろすように未来社会の見取図を描くのである。さらにそこに到達するための段階的な手順が設計図に書き込まれることになる。その結果大多数の人間はたんなる行為者となり、解読されたコードに従って見取図に接近するよう行動するだけになる。「大きな物語」に特有な未来社会を箱庭俯瞰的に描く、このようなコード化の仕方はもはや放棄されたのである。たとえ「大きな物語」をコード化する場合でも、人間の行為のプロセスの関係を規定するようコード化することはできる。その結果同じ未来社会に到達することはできるのである。だがこのようなコード化の仕方は、「小さな物語」の作製を積み上げて行くことによってしか修得されないであろう。オートポイエーシス論が提起するのは、このコード化の仕方の変更である。(p.278-279)


この訳書が出版されたのは1991年であり、その頃によく議論された「大きな物語」の終焉という議論に対するオートポイエーシスの構想から下された診断。なかなか興味深い。どのように行為のプロセスを継続させていくことによって望ましい未来社会に到達できるのかということが欠けており、到達したい結果だけが語られ、そこに至る道は現状との差から暗示されるというタイプの議論になってしまうことについて鋭い批判となっている。



多元論は、その主張のソフトムードにもかかわらず、みずからのみが観察者の立場に立ち、他の複数のシステムを判定しうるとする特権的な視点を前提にしている。それとともに各システムを産出のダイナミクスとしてではなく、並置されるべき固定した立場として誤解するのである。(p.302)


リベラルな考え方の人にとって馴染みやすい多元主義の問題点を鋭く指摘している。

オートポイエーシスの構想に触れて、行為と観察の相違が感じ取れるようになると、嘘くさい議論に対する感度が上がる。例えば、観察者の立場から無理に構成されている議論はたいてい現実との接点が十分でない。こうしたことはこの構想に触れる大きなメリットの一つだと私は考えている。


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