アヴェスターにはこう書いている?
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『看見平埔 臺灣平埔族群歷史與文化特展 平埔を見つめる 台湾平埔族の歴史と文化』

原住民族の多くはアワを原料にした醸造酒を作ってきた一方で、東海岸の各地で見られるサツマイモを原料とした蒸留酒作りは、沖縄での製法と同じであり、日本統治時代以前からこの製法が伝わっていたという指摘もある(杉本1932:443)。(p.68)


沖縄と台湾は地理的にも近いが、日本統治時代以前からの繋がりがどのようなものであったのかを解説してくれる文献は少ない。もう少し詳しく知りたいテーマである。



乾隆53年(1788)、清朝が「熟番」を徴兵した林爽文事件の平定に成功したため、役人たちは「熟番」が貴重な人材であり、山林地域での戦いに長けていることに気づきました。福康安将軍が上奏して「番屯制」を設立し、台湾全土93の「熟番社」から強者4,000名を選抜し、12か所に大小の駐屯地を設けました。このほか、国庫の負担を増加しないために、境界外の荒地を屯田兵に耕させ、平時は耕作に、戦時は防御に当たらせました。これを「養贍埔地」といいます。また、漢人の境界外の不法私墾地を精査し、小作に開墾させ、俸給として兵に与えました。「番屯制」の実施により、「熟番」武力が正式に政府体制内に取り込まれ、使用されることになりました。(p.103)


屯田制的なものは古くから中国大陸では採用されてきた制度だが、台湾にも適用されていた。このあたりの歴史ももう少し詳しく知りたい。



清朝は「番」(原住民)に対して、「生番、帰化生番、熟番」、そして「民」となり「天朝の赤子」となるまでの感化法を用意していました。このため、官員は<化番俚言>を書き、「番」に努力して「民」となるように説きました。「汝ら番はすでに加護を受け、天朝の百姓となった。しかしこれまで男女を問わず髪を長く伸ばし、分別がなく、恥ずべきことである。番から民になるには、婦女は長髪を蓄え、男子は辮髪して、真に服従を示してこそ、制度を尊ぶ良民である。」政府は「熟番」を保甲烟戸(戸籍の一単位)に編入し、「土番社学」(学校)を設け、「姓」を与え、「番」のあらゆる特徴を徹底的に排除していきました。(p.111)


清朝による台湾の統治なり経営はどの程度浸透し、どの程度の実効的な支配を確立していたのだろう?どうも日本側の歴史叙述では清朝の統治を軽視し、日本統治と比較してそれほど浸透していなかったことが語られる傾向がある。日本による統治と比べると強い支配が及んだとは言えないのは恐らく事実であろうが、例えば、上で述べられているような戸籍、学校、姓について、当時台湾に在住していた人のうち、どの程度の割合の人が戸籍に登録されたり、学校に通ったり、中国式の姓を名乗ったのか、といったことをもう少し具体的に知りたいと思う。日本統治時代も同じように具体化して把握し、それらを客観的に比較することが重要であるように思われる。

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