アヴェスターにはこう書いている?
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池上俊一 『パスタでたどるイタリア史』(その1)

 さて、この教皇がおさめるローマ教会と、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)の教会の間では、教義の違い、あるいはローマ司教(教皇)が他の司教と比べて優越しているのかといった問題をめぐって、対立が深まっていきました。七世紀から八世紀前半にかけてのことです。その隙を狙って、ランゴバルド王が、教皇のいるビザンツ支配下の、ラヴェンナ・ローマ枢軸地帯にまで侵入してきました。
 ビザンツ皇帝からの援助を得ることができない教皇は、ゲルマン民族の一派で急速に勢力を拡大しつつあったフランク人と手を結ぼうと考えます。(p.27)


いわゆるゲルマン人の大移動によって東方からランゴバルド人が流入してきた際、ローマ教皇はコンスタンティノープルとの対立のため、ビザンツ皇帝から援助が受けられないという状況にあった。このことがフランク人との協力へと繋がった。そして、フランク人側にも少数の政治支配層が多数のキリスト教たる民衆を治めるにあたって、教会の協力を必要としていた。この両者の利害の一致がカールの戴冠へと繋がったということか。さすが高校生向けのジュニア新書だけあって分かりやすい説明だと感心した。



スペインによる南イタリアの支配という体制は、スペイン継承戦争(1701~14年)によってスペインの王家がブルボン家に替わったあとも、一時の例外をのぞいて、イタリアの国家統一(1861年)まで継続したのです。
 スペイン支配下では、諸侯や騎士の権利は抑制され、都市の自治も完全に抑圧されました。商業は特権を得た外国商人が行い、宮廷の高級役職も王国の財政実務も外国人が独占しました。本国からやってきた王族や王権と結託して広大な所領をもつ大貴族だけでなく、土着の貴族も、スペイン王に忠誠誓約をし軍役奉仕をすることで、特権を得ました。領主が農民を収奪する構造、外国人のために現地人が犠牲になるという構造がずっとつづいたのです。
 またイタリアの北・中部の都市は、ナポリ王国やシチリア王国に毛織物などの各種商品を輸出して、小麦をはじめとする食料・原料を輸入するようになりました。イタリア統一以後明白になる南北問題――南が経済的に北に従属する構造――は、すでにこの時期から始まっていたとも考えられます。そんな状況では、南イタリアの都市は、第1章に見た北・中部のような自治都市として発展すべくもありませんでした。北イタリアのように都市が中心地として周辺のコンタードを支配する、というような都市・農村関係もなかったのです。
 南イタリアの農民を困窮させたスペインの支配は、彼らにとって幸福なことではもちろんなかったでしょう。しかし一方で、スペインからすぐに新大陸産の新食材が入ってくる、という食文化史上のメリットは、たしかにありました。(p.64-65)


14世紀から19世紀まで南イタリアはスペインの植民地のような状況だったということか。普通に世界史の教科書などを読んでいてもこの辺りにはあまり注目されることがないように思うが、現在でもイタリアには南北の経済的格差のほか、政治的にも「ソーシャル・キャピタル」(ロバート・パトナム)に差があるとされていることを考えると、両地域の歴史的な経路を理解したり、国民国家の統一ということの意味などを考える際にも重要になってくる事実であると思われる。

また、パスタを含めた「イタリア料理」にトマトなどの新大陸に由来する食材が使われるが、この背景にはスペインとの関係の深さがあるという指摘も興味深い。



 サトウキビ栽培は、イスラーム教徒の支配したシチリア島やキプロス島などでは、比較的早くからさかんになりましたし、十字軍を契機にサトウキビ栽培および製糖技術もヨーロッパに伝わるようになりました。しかし大量消費が可能になったのは、ようやく十六世紀になってから、スペイン領のカリブ海の島々で、ついでポルトガル人支配下のブラジルにおいて、大規模なプランテーションが始まってからのことでした。ですから砂糖は、中世では薬品ないし一種の香辛料として扱われていたのであり、使えるのは貴族にかぎられていました。パスタに使うのも貴族だけだったことでしょう。(p.67-68)


砂糖の歴史も、川北稔などが書いたやさしい本(『砂糖の世界史』)などもあり興味深いものだとは知っていたが、やはり食糧や食材などについての歴史を見ていくと、必ずというほど突き当たる。このことは、ある意味、現在がいかに砂糖にまみれた(?)生活をしているかということが反映しているように思われる。

砂糖がヨーロッパで大量消費できるようになったのは、南北アメリカを植民地化し、そこでのプランテーションによるものだったというのは重要。本書の姉妹編である『お菓子でたどるフランス史』でもこのあたりについては触れられるだろう。



 こうした甘いパスタの痕跡は、現在、思いがけないところに残っています。というのも、イタリア語の甘いパスタとしての「マッケローニ」maccheroniが、フランス語の「マカロン」macaronsになり、今、日本でもデパートの洋菓子店などによく見られるようになった、人気のお菓子のひとつの名前になったからです。(p.69)


一つ前の引用文の最後に、パスタに砂糖を使ったということを示す一文があるが、16世紀頃のイタリアでは香辛料としての砂糖を使ったパスタが食べられていたという。これがマカロンの名に繋がっていったというのは面白い。



 ここで、いわゆるルネサンス期の歴史について、簡単に触れておきましょう(バロック期の歴史については本章末尾参照)。イタリア半島では、中世末には多数の小さな都市国家に分かれていましたが、15~16世紀には、それらが集合して大きくなり、今日の「地方」regioneに等しい大きさの領域国家となっていきました。そして政治体制としては、コムーネ(自治都市)がシニョーリア(君主国)に席を譲ることになります。
 これらの君主が皇帝か教皇から封建的な称号をもらうと、正式の「君主国」になります。ミラノのヴィスコンティ家、マントヴァのゴンザガ家、フェッラーラのエステ家、フィレンツェのメディチ家などが君主となり、中心都市に立派な宮廷をかまえ、廷臣たちが群がったのですが、また教皇宮廷も同様な役割を果たしました。宮廷は、当時の政治・文化の中心で、芸術家・学者をも集めることになりました。
 こうした君主たちは、「パトロン」となって学者・芸術家たちを保護しました。その結果、世界と歴史の中心に人間をおき、言語文献学と市民道徳を融合した運動である人文主義が花開き、芸術分野でも、神中心ではない、人間中心のルネサンス芸術が開花したのです。これには、古典古代の文献・文化の再発見と、諸科学・技術の一大進歩を伴っていました。(p.107-108)


当時のイタリア半島では都市国家から領域国家へと規模が拡大し、君主の宮廷が成立していったことが、学者・芸術家たちにパトロンが存在し得るようになった背景にあったということか。なるほど。科学史や思想史などから見れば、イスラーム世界からの学問の翻訳・輸入があり、その原典としてのギリシアやローマの発見といった要因が指摘されるが、宮廷のパトロンの下に多くの学者や芸術家が集まり活躍したという形になったことの社会的な背景としては、この国家規模の拡大があり、そして恐らくこれに伴う宮廷の財力の拡大ということがあったのかもしれない。



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