アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

坪田信貴 『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』

 この子は、見た目と違って素直だ、これなら絶対大丈夫、相当行けるぞ。
 ひねて、妙にプライドが高い子は、自説をなかなか変えようとしませんそういう子は「あ、はい。でも……」と、なかなか行動を変えたがらないのです。そうした場合は指導に少々手こずります。そういう子は、自分がこれまで間違ったやり方、バカなやり方をしていたと認めるのが恥ずかしいから、常に無意識に反論してくるからです。
 でも、この子なら、さやかちゃんなら、勧めたやり方をすぐ受け入れるのではないか。そうだ、この子は、伸ばせる――(p.27)


素直さが重要だという点は非常に納得ができたというか、偏差値が急激に伸びた理由として非常に大きなポイントだっただろうと思われたところ。

実際には大した実力がないのに、「自分はある程度できている」と勘違いしている生徒は、「妙にプライドが高い」というパターンの一つの典型例だと思われる。自分の実力を客観的に見ることができていない時点で、この類型の場合、自分自身で正しい方法を見つけることができないが、恐らくは、自分の実力が客観的には自分が思いたいほどの水準ではないと薄々感じているからこそ、自分自身を守るために「プライドが高い」振る舞いをしなければならなくなっている面もあると思われる。この場合の「プライド」は、この言葉が本来示しているはずの「自尊心」ではなく、他人に対して自分をよく見せるための「虚栄心」となっている。この虚栄心が邪魔をして、正しい方法を提示されても、素直にそれを受け入れることができないため、いつまで経っても力がつかない、ということになる。成績が伸びない受験生のかなりの割合が、これに近い状態なのではないかという気がする。

大学受験で求められる学力水準など実際には大したものではないから、正しいやり方で必要なだけの量をこなせば、本来の能力にやや特別な欠落(知的障害など)がない限り、一般に「難関」と呼ばれるような大学に合格できる程度の水準まで到達するのは容易である。私立大学の場合は、受験科目も少ないので半分以下の努力で到達できる(例えば、国立大学など、普通の私立より科目数が2倍ある場合、苦手科目も普通の人の得意科目並みかそれ以上の水準に達することを求められるため、実際の難易度は2倍よりもかなり高いと考えられる。)



「テストって、さやか、嫌いだなー。だって、点数が出て終わりでしょ」
「そっかなぁ。僕は点数が出てからが始まりだと思ってる。だって、できないことがわかったら、そこからできるようにすればいいだけじゃん?」(p.31)


ここでの主人公さやかちゃんの考え方は、「テスト」というものに対してしばしば抱かれがちなイメージであり、先生の意見はそれなりに(大学受験に限らず)受験に関わりを持ったことがある人にとっては当然の考え方であると思われる。

本番の入試というのは、合格や不合格を決めるための「テスト」、すなわち、入学に相応しいかどうかを「試す」ためのものであり、結果が重要な類のテストだが、学校で行われる日常的なテストや模擬試験のようなものは、様々な分野や項目についての到達水準がどの程度であるかを「試す」ための「テスト」であり、この種のテストは出来ないところを明らかにすることに意味がある。テストというものは、点数がつくことによって他人(教師や同級生など)から評価される事になるため、そのことばかりに気を取られてしまうと、自分を良く見せるための自己防衛的な観念がまとわりつくので、こうした当たり前のことが見えなくなる傾向があるように思う。



さやかちゃんが慶應に行ったら、周りのみんな、マジでビビるよ。で、スゲーってなる。でもね、何より、絶対無理!って言われることを成し遂げたことが、自信になるんだ。それが大人になってからも、大事なことなんだ(p.31)


この点は、ある意味、大学受験が人生に及ぼす影響のうちでも、比較的大きな点であるように思われる。本書の主人公ほど劇的な人はそう多くはないが、いわゆる難関といわれるような大学に入学することは、そのこと自体が「自分はこのくらいの事は成し遂げられた」という自信を与えてくれるものだろう。(ただ、それで満足したり、それだけしか自信になるようなことを成し遂げられていないようだと、周囲からの評価はむしろ下がることになるが。)

もっとも、これよりも大きな影響は、いわゆる「良い大学」には、それなりにできのいい学生の割合が高く、人生の中で優れた人物と交流することから得られる影響や人脈自体が持つネットワークの力などがあり、こちらの方が社会学的な観点から見ると重要な意味を持つと思われるが。(この点についても本書で指摘があり共感したところ。)



慶應に関しても、坪田先生が、“慶應に受かって、ものを知っている仲間たちと出会うと、さらに世界が広がるよ”と教えてくれました。(p.89)


上で述べた通り、共感したところ。私自身が、大学受験に失敗した生徒に、いわゆる良い大学に行く意味はこの点にあると話したことがある。学歴が高いことがあまり意味を持たなくなってきているなどと言われることがあるが、私は逆に、資産と所得の格差が拡がっていることが実証されている現在においては、より恵まれた環境にいる社会層とそうでない社会層のどちらに属するかということの意味は、以前にも増して大きくなっている面があると考えている。



 受験は、「マラソン大会」に似ています。……(中略)……。
 大学受験というのは、すでに10年以上マラソン大会をやってきている選手たちのラストスパートの場です。みんな必死です。
 たとえて言うなら、
 偏差値70の子たちは、時速30キロで走っています。
 偏差値60の子たちは、時速25キロで走っています。
 偏差値50の子たちは、時速20キロで走っています。
 偏差値40の子たちは、時速15キロで走っています。
 偏差値30の子たちは、時速10キロで走っています。

 こうして走者の集団ができあがるわけですが、偏差値30の子が、40に追いつこうとすると、当然、偏差値40の子たち以上のスピードで走らないといけません。(p.118-119)


この点も、大学受験に失敗した生徒に同じ主旨のことを説明したことがあり、共感したところ。実際に、偏差値50以下というのは、基礎学力が相当足りない状態であることをも示しているので、基礎固めをどれほどの速さでできるかに勝敗がかかってくる。偏差値50台は基礎がまだ不安定なので、どこが弱いかを見極めて効率的に攻略するステージであり、60を超えてきたら基礎より受験問題に対応するためのいわゆる応用力をどこまで鍛えられるかによって到達水準が決まってくるという感じだと思っている。

もっとも、大学入試の場合は、大学の出題傾向の把握が先にあり、それに対応した対策をとるのが最も効率的であるため、一般的な模試などでの偏差値は必ずしも重要ではないが、総合的な基礎学力の習得度を図るという意味では偏差値の数字にも意味があると考える。(偏差値は相対的な値ではあるが、毎年似たような教育を受けた多数の生徒たちが叩き出す結果であるため、相対的な位置を知ることが絶対的な水準を計る目安となると考えている。)



 自分が成功することを“知っている”こと。自分が天才だと“知っている”こと。根拠なんていりません。そう“知っている”だけでいいんです。もし、そう思い込めないなら、
「言葉に出して、みんなに言いふらすといいよ」
と僕はさやかちゃんに助言しました(そして実際、素直にそうしたようです)。
 たぶん、周りのみんなは「バカだ」とか「無理だ」とか「恥ずかしい」とか言うでしょう。だけど、なんと言われてもそれを「口にし続ける」ことで、自分自身がそう思い込み始めるのです。これが大切なんです。そこに、2、3人でいいんです、信頼できる人の肯定を加えられれば、知らぬ間に人は伸びていきます。これが成功のための第一歩なのです。(p.122-123)


前段の部分、成功することを知っているかどうかが重要だという点は、先ほどまで何度か書いてきた受験に失敗した生徒に話をした際に同じようなことを話していたこともあり、共感したところ。

自分自身の経験として、最終的に受験先を決めた際、間違いなく受かるという確信が自分の腹の底にあったことを覚えている。このような感覚があるかどうかを、その生徒に尋ねたが、その感覚はないと言い、泣き出したことが印象的なやりとりだった。

引用文後段の、言葉に出して人に言うというのは、なるほどと思わされた。私が大学生の頃に読んだナポレオン・ヒルの『成功哲学』の考え方と同じだと思った。こうやって無意識が働くようにしていくことがいかに能力を発揮する上で重要か、よくわかる。上述の話をした際、ここまでアドバイスできていればよかったのに、と少し悔しい思いになった。



 基本、参考書ベースではなく、問題集ベースでやることが大切です。なぜなら「入試」は問題ベースですから。参考書はあくまでも「参考」程度。問題が解けない場合だけ解説を見て、「解き方を覚える」。そして、とにかく「解いてみる」。これで十分なのです。(p.129)


私自身の経験とも合致する。浪人していた頃、予備校の授業を聞いていても何の意味もないと判断して、1~2か月ほどで行くのをやめたのだが、その理由がこれだった。授業を聞いていても点数には結びつかず、通学に往復3時間近く取られることも時間の無駄になっていたからである。

私見では、授業や参考書が必要(重要)な場合があるとすれば、それは基礎が全く固まっていない科目だけである。偏差値が40台以下の科目では問題を次々解こうとしても、まったく歯が立たない場合がある。そうした場合に、短期集中で(!)覚えるべきことを完ぺきに頭の中に叩き込む。それがある程度まで行ったら、問題集ベースに切り替えて覚えたことの使い方を練習する

高校3年生で授業を聞くのは、初めて知る知識だから意味があるが、予備校で授業を聞くのはほとんど意味がない。このことを良く弁えることは非常に重要だと思う。



“なんで僕が君に慶應、慶應って言うかわかるか。卒業したら、慶應のすごさがわかるよ。慶應の卒業生にはすごい人が多いから、素晴らしい人生の宝になるような人たちに出会えるよ”(p.130-131)


89頁の引用文と同じだが、良い大学にいく意味は究極的にはこれに尽きると言ってもよいように思う。



 結局、学校教育の現場には、なかなかそうした臨在性も迫真性も持ち込めていないのが問題なんです。(p.137)


臨在性とは、「まさにそこにある、という感覚」であり、迫真性とは、「まさにいま、自分がやらなきゃいけない、という感覚」だという。

学校教育にそれがないというのはなるほどと思わされた。高校でいえば、いわゆるレベルが低い、受験から遠い高校ほどその傾向は強そうに思う。いわゆる良い高校から良い大学へと進学しやすい理由の一つは、こうした感覚を持っている生徒の割合が高いことが、その他の生徒たちにも伝染していく効果があるということにあるように思われる。



 そして、今や「理想的な家族」と見えるこのご家庭から学んだことは、結局、「子どもの成長」と共に、「家族も成長」するのだなということです。

 さまざまな教育的な背景、価値観が違う人間が家庭を作る。そこでいざこざがあるのは「普通のこと」なのです。
 誰のせいとか、何が良い悪いとかではなくて、「家族」というのもたぶん、結婚した時を0歳として「成人」していくものなのかもしれません。(p.271)


なるほど。



●「一喜一憂するな」
 僕が受験指導をする上で最も数多く発する言葉です。いちいち悲しんだり喜んだりするんじゃないと。
 ……(中略)……。
 でも、そういう感情の上下があまりにも大きいと、「いろいろな理由」を思い浮かべることができて、まったく勉強しなくなる傾向が出てきます。(p.300)


確かに。



 ポイントは、「何回言ったら、わかるんだ!?」というしかり方は、「お前は何回言っても、わからない奴だ」というラベルを貼っているに過ぎない点です。実際は、そんなに何度も言ったりはしていないはずです。「ただ言葉をかけるだけ」ですと、500回も言わなければ、行動まで変化することはないと知ってください。
 これを知っているだけでも、大きな差になると思います。(p.307)


これは受験というよりも社会に出てから仕事で人を指導するようになってからの方が重要なことかもしれない。



 「やればできる」という言葉を多用すると、相手の「やる気がなくなる」のです。
 なぜなら、本人の中に本当に「やればできる」という確証がない状態でものごとをやってみて、もしもできなかったら、それは「自分の能力がないことを証明することになる」からです。
 真剣にやらずにいれば、いつまでも「やればできる」と言ってもらえます。
 ですから、やる気のない「やる気なしお」くんに「君は、やればできるんだから!」と声をかけると、ますますやらなくなるのです。(p.312)


確かに、この言葉をかけられている子どもが「できる」ようになったのを見たことがない。



 多くの親御さんが、「うちの子のやる気スイッチはどこにあるのでしょう?やる気になれば、やるようになるし、うちの子もやればできると思うのに」とおっしゃいます。
 僕はそんな時、「それは順番が違いますね」と言います。「やる気になる→やる→できるようになる」ではなく、「やってみる→できる→やる気になる」が正しい順番なのです。(p.312-313)


まったくその通り。「やってみる」にうまく誘導できるのが、教える人として優れているかどうかを分ける一つのポイントだと思う。



 逆に言えば、思春期にいる子どもたちは、「年中生理中」という状態なのです。よって、時期が過ぎれば、そうした人生の生理も終わります。その時期に、「あなたはわがままだ!」とか、「そんな考え方では世の中通用しない!」とか、「私だって大変なんだ!」とか、理論や理屈や感情でぶつかって行っても、相手はただイライラが募るだけで、しかもレッテルをたくさん貼ってしまう分だけ、悪影響しかありません。
 この「年中生理中」というのを「知る」だけで、安心する親御さんは多いですね。(p.315)


なるほど。うまいことを言うもんだと感心する。


スポンサーサイト

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/1055-966b4d92
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)