アヴェスターにはこう書いている?
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孤蓬万里 『台湾万葉集【続編】』

下駄ばきに袴で登校し、日本人の甲種訓導から教わるのが小学校、裸足で登校し、台湾人の乙種訓導から教わるのが公学校である。後年、公学校の低学年にも日本人教師をあてがうようになった。十分間の休み時間に肩を組み、「ベースボールする者やってこい」と校庭を練って興ずる小学校、汗を流して騎馬戦や裸足の石蹴りを楽しむ公学校と、遊ぶ様式も異なっている。(p.80)


日本の植民地では公学校というものがあったということはしばしば読んではいたが、このあたりの記述は、日本人子弟の小学校と台湾人子弟の公学校との違いを具体的に目に浮かぶように描き分けており興味深い。



しかし、社会主義思想の蔓延を恐れる政府は、外地出身の文学者を一様に要注意者としてブラックリストに載せ、特高刑事の監視下に置いた。(p.100)


日中戦争の頃についての説明と思われる。



娥さんの生まれた新起町は、繁華街万華の一角で、内台人が入りまじって住んだ。(p.111)


万華というと台湾人の地域というイメージがあったが、時代によっては内地人もそれなりの割合に増えたということか?



大正十年ごろ、鉄の値上がりで硬貨が不足し、代わりに切手が一時使われる。桃色が三銭、緑色は二銭、黄色が一銭であった(p.111)


日本の内地でも同様だったのだろうか?



当時、日本軍が植民地台湾の民を戦争に駆り立てたのは、まず軍医と軍夫という二つの形であり、のちに志願兵と学徒兵が続いた。前者は軍属であり、軍医としては開業医と官公立医院勤務とを問わず抽選で多くの医師が南方に送られる。軍夫はおもに高砂族や下層階級から求めて輜重兵の代わりに大陸で働いた。後者は戦争が激しくなった末期、日本政府がいわゆる皇民化政策を打ち出し、ついに植民地の民にも兵籍を許可することになったもので、フィリピン島における高砂義勇隊は志願兵のなかからすぐった一例である。(p.248)


こうした動員の歴史やその背景などはよく知っておくべきところだろう。



「武」という字は、もともと「戈」と「止」という二つの字の合体したものであり、まことの武人は戦を好むものではない。(p.254-255)


口先だけ勇ましいが無責任な安倍晋三のような輩は武人とはほど遠い存在ということになる。



 王さんと短歌との出会いは、昭和初期生まれの、大方の青少年共通の「啄木への傾倒」に始まる。(p.311)


啄木は台湾でも人気があったのか。



戦前、台湾の地名はその地形や住民の構成から名づけられることが多く、内埔というのは小さな盆地というほどの意、張家荘というのは張姓の人が多く住んでいる村という意味である。(p.330)


地名とその土地の歴史との関係は、郷土史的なものをやると必ず出てくるテーマだが、もう少し詳しくなっておきたいところではある。



①「はたして中国人に日本の古典を教える必要があろうか?ましてや和歌や俳句を習わすのは蛇足になりやしないか?大学教育の四年という短期間に日本の古典が了解できようか?会話と記述と文法と誤りがなくできれば満足すべきではなかろうか?」とみなさまは言われるかもしれない。
②しかし、中華民国の教育部(文部省に相当する)は大学専門課程の一つとして、日本語教育に相当の内容と効果を期待している。
……(中略)……。
④日本語文を専攻する学生であれば、古典まで了解するようでなくては成功だとはいえない。とくに、和歌も作れる程度に至らなければ一人前とは認めがたいと思う。
⑤「鑑古知新」という言葉がある。日本語ないし日本文学を身につけるためには、日本古典にたどりつくことが必要である。国家の立場からしても、純粋に学問研究の立場からいっても、これは必須だといえよう。日本と中華民国の関係は淵源が深い。もし日本の古典の研究をおろそかにすれば、かならずや誤解をふたたび招くであろう。とくに和歌は日本文学の主流であり、なおさら習うべきである。(p.372-373)


最後の⑤に示された考え方は、逆に、日本の側に同じだけの考え方があるかどうか、ということを考えなければならないように思う。必ずしもここに示された考え方が正しいとは言えないとしても、その場合であっても、これだけの熱意を持って他国を研究したり言語を習得したりしようとする人が多くいる場合とそうでない場合とでは、必然的に相手の国への見方というものが変わってくるだろうからである。



 林さんが台中第一高女に入学したのは1941年(昭和16)の春で、12月8日には米国と開戦、未曽有の大戦へと突入した。あこがれのセーラー服の生活は非常時体制のため徐々に灰色に塗りかえられていく。若い男の応召で数名の女と老人と代用の教師が残り、スカートはモンペに、帽子・シャツは国防色に、夏休みは返上、登下校は下駄、校内は裸足で……という耐乏生活になった。まもなく授業の大半は奉仕作業に変わり、防空壕堀り、担架運び、救急訓練、飛行場造りの石運びなど、つぎつぎと労働を課せられ、校舎すら軍に徴用される。米軍の空襲がしだいに激しくなり、沖縄上陸の次は台湾と、悲壮な覚悟をさせられた。楽しかるべき夢多き時代を戦争に終始し、うれしかるべき卒業式も一人の来賓すらなく、別れの歌を歌うこともなく、ひっそりと校内を去る。(p.422-423)


戦時中の台湾。

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