アヴェスターにはこう書いている?
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孤蓬万里 『台湾万葉集』

今でこそ台湾の都会でも火葬が主になってきたが、田舎ではやはり土葬が普通である。昔は仮葬6年ないし12年後に忌日あるいは占師に吉日を選んでもらい、骨を拾ってはじめて墓標を建てて納めるのがしきたりであった。(p.84)


本書は1993年に出たものなので、今から約20年ほど前のものだが、本書によるとその頃は田舎では土葬がまだ主流だったという。現在ではどうなのだろうか?



父の張錦さんは台南高等工業学校を出て、大正初期、満清の風俗である弁髪がまだ残っていた故郷に、ハイカラな散髪というニュースタイルで帰郷してみんなを驚かせた。昭和の初めにできた台北帝大にも工学部がなかったので、戦前台湾においては台南高工が工学方面の最高学府であった。(p.85)


日本統治が始ってから大正初期は既に20年ほど経っていた時期――20年と言っても台湾現地の人々の抵抗が強く統治が及んでいない時期があったことには留意が必要――だが、田舎では弁髪が残っていたというのは興味深い。清の統治は、それほど徹底したものではなかったとしても、生活面における大陸の文化の影響はそれなりに及んでいたということか。

なお、創立時の台北帝大に工学部がなかったのは、大正期頃の段階では台湾の主要な産業は工業ではなく農業であると日本政府が考えていたことを反映していると思われる。



 日本統治時代、台湾の女性は姓と名の間に氏という字をとくに入れて呼ばれた。例えば淑慎さんの名前は高氏淑慎である。ところが大連の女学校では「たかうじさん」と先生に呼ばれて面くらう。同級生には満州や朝鮮の人も数名ずついたが、三字名かあるいは日本式に改姓名していた。上級生に同じ台湾人が一人いたが、「林氏○○」の氏を省いて、「はやしさん」で通している。高さんは姓が「高氏」だと思われたわけだ。こういうエピソードも植民地政策のしからしむるところで笑えないナンセンスである。(p.146)


恐らく、統治者側である日本人の側から見ると、姓と名の区別がつきにくいことから便宜的に氏を入れることにされたのだろうが、男性には「氏」は入れられなかったのだろうか?そうだとすると、なぜ女性だけ氏を入れて呼ばれたのだろう?また、これはどのレベルで定められたものだったのか?法律ではなさそうな気がするが、学校での慣行だったのだろうか?



世界制覇を夢見る日本軍閥は、政府の要人を次々とたぶらかして戦線を拡大していった。ついには現役軍人だけでは不足となり、「お国のために学業を捨てて戦列に志願参加するように」と学生たちに呼びかける。
 いっぽう、今まで差別待遇をしつつ軽蔑していた植民地の民までも駆り立てた。すなわち、台湾にも「誉れの軍夫」なるものが出現、ついで「誉れの軍属」「誉れの軍医」「特志工員」「特志看護婦」とあくまでも特別配慮の有り難いおぼしめしという美名の下に、しかも志願という形をおしつけて参加させる。ついには「志願兵制度」を布き、最後には学徒動員から学徒兵のころには、一視同仁にならざるをえなくなった。(p.186)


日本による台湾の植民地支配は当時としては比較的まともに行われていた方だとは評価できるかもしれないが、それでも現地の人の側から見ると(全員が同じ認識というわけではもちろんないとしても)、基本的にこのような悪い印象をも持たせるものでもあったということは決して忘れてはならない。



 彰商三年のとき、教師引率の下に蕭さんたちは文部省推薦映画「阿片戦争」を鑑賞した。終幕近く阿片を焼く林則徐が、炎を背景にして拳を握り大手をかざして、
「五十年後あるいは百年後には、きっとイギリスの勢力を中国から追放してやるぞ!」
と叫んでいる場面が出てくる。自力で英米の勢力を駆逐できず半植民地状態に陥っている中国にかわり、日本がその侵略を食いとめる役割を果たしているのだと称する軍閥の言を信じ蕭さんはいたく感動した。これがのちの特幹志願の動機につながる。(p.187)


この軍閥の言葉は、大東亜共栄圏に通じる発想である。米英などの帝国主義からアジアを守り解放するという名目で日本が進出して植民地として支配しようというわけだ。



台湾人の入学はこの1922年2月、第八代総督田健治郎の発議で勅令制定となった「中等学校以上の学校教育を内台共学にする」という台湾教育令に基づいて、その四月から収容している。したがって、それ以前の教育はほとんど25万人の日本内地人のための教育であった。ちなみに当時の台湾の人口は約500万人である。終戦までの北一中の全卒業生(修了生を含む)は6,485人であるが、そのうち本島人はたったの178人で3パーセントに満たない(麗正会名簿による)。


台湾の教育の変遷は、大きなテーマである。

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