アヴェスターにはこう書いている?
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将基面貴巳 『言論抑圧 矢内原事件の構図』(その2)

 ノーベル経済学賞を受賞した心理学者で行動経済学者のダニエル・カーネマンは、ふたつの相矛盾する命題(そしてそのいずれも真ではない)を被験者に提示してどちらが真かと問う心理的実験を行う際に、片方の命題を太字で表記し、もう一方を細字で表示するなら、太字表記の命題を真だと答える被験者が多い傾向があると述べている。つまり、印刷された文章がどのような視覚イメージを持つかということと、その文章の説得力とは相関関係があるのである。だとすれば、極端に傍点が多い蓑田の文体は、おそらく無意識のうちに、視覚的に読者を説得しようとした意欲を反映したものなのであろう。(p.84-85)


興味深い。



 このような「反国体性」の強調、「侮日的」「抗日的」というレッテル貼りに関連して指摘しておくべきは、蓑田本人にとって矢内原に批判を浴びせることは矢内原に対する攻撃を意味したわけではなかったという点である。むしろ、主観的には事態は正反対であって、矢内原が蓑田の信じる「日本」に攻撃を仕掛けてきたのに対抗して「日本」を防衛していたと思われる。(p.97)


極右国粋主義者のメンタリティを的確に捉えており参考になる。

一つ前のエントリーで引用したように、矢内原の「愛国心」は、理想のあるべき日本を愛し、現実の日本社会(政府)がそこから遠ざかっている場合には、それを理想の方向との違いに照らしながら批判するという形で発露される。これに対し、蓑田のような極右国粋主義者の「愛国心」は、「現実の日本」と「日本の国体」を十分切り離さずに愛し、そこに一体化しようとするため、矢内原のような日本の現状に対する批判を、自分(蓑田)自身をそこに一体化しようとしている「日本」に対する攻撃(侮蔑や反抗)として感じることとなり、「日本」を守るために反撃していると主観的には思うことになる、といったところか。

論理とは別に心理という面から見ると、政治というものは、すべてが自分の思い通りには行かないのが常態であるが、自分の思い通りに行っていないことがあるとき、それに抵抗する人々のせいであると感じ、その人々からの被害を受けていると感じているのではないか。このような被害者意識ないし被害妄想は極右国粋主義者の心理において特徴的であるように思われる。



 しかし、その一方で家永が、矢内原追放劇において長与が演じた役割の大きさを強調し、次のように書いているのは傾聴に値する。
「総長と当該教授との間の闇取り引きで大学教授の追放が実現している(中略)ここでも大学総長の個人プレイで矢内原の自発的辞職が強要されている点に注目すべきであり、総長の独立権限が、大学自治の間接侵害のために最も有効な通路として利用されているのを看過してはならないであろう」(『大学の自由の歴史』塙書房、1962年)
 これは、教育評論家の伊ヶ崎暁生も指摘するように、注意を要する論点である。長与が、総長の方針に従わない土方にいらだち、経済学部の決定より総長の意思決定が優先するという原則を日記に記していることはこれまで見たとおりである。
 しかし、そのことは、逆に、総長を説き伏せさえすれば、文部省は容易に大学内部の事情に干渉することが可能となることを意味した。(p.152-153)


矢内原が「自発的に」辞職するよう追い込まれたのは、文部省の圧力に屈した大学の総長の意思によるものだったことを明らかにした上で、総長の権限が大きい制度となっていたことが大学の自治にとって持つ問題点を指摘している。

これは大学に限ったことではなく、昨今の日本では、組織のトップに権力を集中させることが善いことと考えられており、それによって強いリーダーシップが発揮され、責任を負ったリーダーが素早く決定を下し、その決定を強く実行して行くことで善い成果が上がると漠然と信じられている節がある。しかし、権力が集中することで、必ずしもその組織にとって善い結果がもたらされるとは限らない。決定の内容が不適切だった場合でも、十分なチェックが働かないまま進められてしまうというのが第一に挙げられる点だが、その決定の不適切さが、リーダーの単なる事実誤認や見込みについての錯誤ではなく、他からの干渉を受けて組織にとっての善とは別の利害から組織を利用してしまう場合でも、それを止める手段がないからである。

例えば、安倍政権などでも現在進行形でこうした事態が進んでいると見ることができる。現在の安倍政権による強権的な政治手法を可能にしている制度的な前提としては、少ない票で多数の議席を獲れる小選挙区制のほかに、内閣官房に権力を集中させてきたことが挙げられる。安倍晋三は、盛んに「日本の国益」を擁護するかのような発言をするが、実際の行動は国民国家やその国民にとっての善を追求するのではなく、日本に由来するグローバル企業の経営者・資本家の利益を最優先するように動いている

例えば、派遣労働者の固定化を可能とする制度や残業代を払わなくてもよくするホワイトカラーエグゼンプション(この制度が一般化するのはまだ少しだけ先になるだろうが)などを考えると分かりやすいが、年金の運用資金を株式投資に回す割合を増やしたことも、十分に金を持っている投資家をさらに富ませるために庶民から集めた保険料を投入するものだったし(これには人為的に引き上げた株価によって内閣支持率を上げるという政治的な思惑もあったが…)、先日成立してしまった安保関連法には、(日本由来のグローバル企業の)経済的な利益を守るために軍事的行動をとれるようにする道を開くという意味合いもあることは想像に難くない。武器輸出三原則を防衛装備移転三原則に変えたことも同様の利害を背景としている。

グローバル企業からすると復古的国粋主義の情念に囚われ、民主主義や平和主義や人権よりも自らの権力感情を満たすためには(誰も納得させていない中での力づくの強行採決などの)暴力的な手段を用いることも厭わない安倍晋三は使いやすい駒であるという面があるという理解は重要である。



矢内原の辞職の報を聞いて真っ先に、岩波茂雄は矢内原を訪れ、金一封を置いていった。その際、当時創刊予定だった岩波新書の一冊としてリンカーンの伝記を書いてほしいと依頼したという。
 矢内原はリンカーン一人の伝記を書く気がせず、特に当時の日本の時局に対して必要な人とは預言者エレミヤであると考えていたので、リンカーンの他にエレミヤ、日蓮、新渡戸稲造を加えた四人の伝記的考察を著した。これは、『余の尊敬する人物』というタイトルで、1940年の5月に岩波新書の一冊として出版された。(p.164-165)


この辺を読んで岩波茂雄の心意気に少し感動した。また、『余の尊敬する人物』が書かれた経緯も興味深い。

エレミヤを当時の時局に必要な人であると考えていたというのは、同書を読むと確かに感じられる。エレミヤの国を憂うる気持ちやそれを発信することによって周囲から迫害を受けても信念を貫く姿勢を描いており、この辺りは自身と重ねているのだろうと想像されたからである。なお、『余の尊敬する人物』については、後日、このブログでも取り上げる予定である。



 ちなみに、『余の尊敬する人物』のエレミヤ論の末尾のところで、矢内原は密かに蓑田胸喜に対するささやかな反撃を試みている。
「卑怯なること虫の如く、頑固なること蛭のごとく、に悪意を抱き、人を陥れるをびとする汝らパシェル・ハナニヤ輩よ。汝らこそ真理を乱し、正義を破壊し、国に滅亡を招いたのである」(傍点引用者)(p.165)


なかなか面白い。当時の人であれば、分かる人は分かるという書き方なのだろうか?偽預言者ハナニヤと蓑田を重ねているあたりからしても、エレミヤを矢内原(の理想)と重ねていることがわかるだろう。



 そもそも、マイクロヒストリー的方法の一大特徴は、その歴史叙述に登場する人物たちの自由な主体性を強調する点にある。そうであればこそ、本書の叙述では、登場人物たちが、主観的に事態をどう理解していたのか、状況にどのような意図をもって関わろうとしたのかに、特に注目した。
 それは見方を変えれば、マクロの視点からは、たとえば、学問の自由や大学の自治への抑圧という大きなストーリーのなかに、矢内原事件を位置づけてしまうと、各登場人物の状況把握や態度決定における、微妙かつ複雑な相違を無視して、あたかもすべての関係者が共通に学問の自由と大学の自治について争っていたかのような歴史叙述になってしまう。マイクロヒストリー的手法によって、そのような過度の単純化を免れることができるのである。(p.194-195)


マクロの視点だけでなく、ミクロの視点も重要であり、それぞれに意味がある。

マクロの視点からは個々のアクターの詳細を知らなくても、あるいは知らないからこそ、事態を単純化して大きなストーリーの中に位置づけることになる。マクロの視点は、当事者たちの視点を離れて、全体として意図せざる結果であったとしても、生じたことの意味を見て取る際には重要なものであり得る。

しかし、ミクロの叙述によって個々のアクターの考え方や主観的な意図などを知ることで、大きなストーリーの中で事実に反して描かれてしまう虚像を是正し、全体の意味や位置づけを吟味し直すことも必要である。



 しかし、愛国心をめぐる議論は、愛国心を持つべきか、持たざるべきか、という二者択一の問題でなければならない必然性はない。そもそも、愛国心とは何か、それはどうあるべきか、が問われる必要があろう。その意味で、矢内原忠雄が提示した愛国心のあり方は、第三の視点として注目に値しよう。
 ……(中略)……。しかし、矢内原が国の理想に照らして国の現実を批判することが愛国心の真のあり方であると論じたのと同じく、朝河は国際関係における日本のあり方を客観的かつ冷静に判断する「国民的反省力」として、愛国心を涵養する必要性を説いている。共に、愛国心を国のありように対する批判的精神として理解しているのである。
 矢内原の愛国心論にせよ、朝河のそれにせよ、現代の我が国における愛国心をめぐる議論では顧みられることが相対的に少なく、その意味で彼らが構想した愛国心のあり方は、近代日本の知的伝統においては傍流に属する。しかし、ここに発掘を試みた「もうひとつの」愛国心について考えてみることは、愛国心をめぐる今日の議論を豊かにするうえで有益ではなかろうか。(p.201-203)


 前のエントリーでも書いたが、本書を読んで最も参考になった考え方の一つが、この矢内原らの愛国心の考え方であった。



 畑中繁雄『覚書 昭和出版弾圧小史』(図書新聞社、1965年)によれば、この内閣情報局が打ち出した新機軸は、出版社の編集企画内容への干渉であった。「雑誌、出版懇談会」という名称のもと、月一、二回、出版社の編集責任者らを招集し、既刊行物において「好ましくない」内容のものに関して批評し、今後の差し止め事項や編集内容への注文を情報局が通達する会合が持たれたという。(p.211)


メディアと政治の関係が次第にこうした時代のあり方に回帰しつつある。安倍政権のメディア対策は非常に危険であり、民主的な統制に反するものである。



 自らはメディアを通じて発言することのない一般国民の目で見たとき、言論界の大局的な動向を見定めるうえで重要な姿勢とは、どのような言論人が何を言っているか、を常に満遍なく押さえることではないだろう。むしろ重要なのは、どのような言論人が表舞台から消えていったか、どのような見解をメディアで目にすることがなくなったかについて、把握することではないだろうか。
 ……(中略)……。このように、ある一定傾向の政治的見解を持つ言論人が、一人、また一人と、オピニオン雑誌や新聞など、影響力の大きい媒体から、いつの間にか姿を消す時こそが問題である。
 しかし、消えていった人の声は聞くことができない。沈黙させられている人は、沈黙させられているという事実についても発言することができない。まさしくそこに、言論抑圧という現象が、大半の人々には認知されにくい、ひとつの大きな理由があるように思われる。(p.216-217)


メディアで何が語られているかをよく把握しなければ、何が語られなくなったかに気付くことはできない。このため、日頃から報道や言論の内容については注意深く把握しておくことが必要である。

安倍政権の狡猾なメディア戦略により、既にここで指摘されているような問題(政権への厳しい批判報道がない等)は生じており、この問題は全く他人事ではない!
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