アヴェスターにはこう書いている?
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仲正昌樹 『マックス・ウェーバーを読む』(その2)

 私たちは日々様々な場面、テーマについて「価値判断」をしているが、それがどのような「価値規準」に基づいているのかはっきりと意識していないことの方が多い。事実についての認識と「価値判断」が漠然と一体になっていて、いつのまにか“判断”している。そのため、他者との意見の食い違いが、事実認識のズレによるのか、拠って立つ価値の違いかが判然としない。
 「価値規準」の違いではなく、事実誤認だと思うと、相手が愚かに見え、“教えさとし”たくなる。しかし、実際に、上から目線で相手を教えさとそうとすれば、相手の怒りを買い、余計に話が通じなくなる。事実の問題と、「価値規準」の問題を分けて考えることは、生産的な知的対話の大前提である。因みに、2010年に日本でもブームになった政治哲学者マイケル・サンデル(1953~)による「ハーバード白熱教室」は、中絶、徴兵、臓器売買など、具体的な問題に対する意見表明を通して、討論者に自らの拠って立つ「価値規準」を明示させ、それを政治哲学の既存の学説と関係付けることを特徴としていた――日本のサンデル・ファンにはその肝心な処を理解せず、彼の司会力にだけ魅了されてしまう人が多かった。
 そう考えると、事実の部分と、自らの「価値判断」を、はっきり分けて書くというのは、決着しようのない、不毛な“論争”を避けるための大前提である。大学入学時の基礎教育の中で学ぶべきことである。しかし、日本の“一般向け人文書”やジャーナリズムの文章には、そうなっていないものが極めて多い。(p.142-143)


文章を書くにあたり、事実と価値判断を分けて書くべきだということは、まさに私もウェーバーから学んだこと一つであり、後輩の学生たちにもかつて何度も指摘してきたことであった。

しかし、これも万能ではない。何をもって事実として認識するかは、その人の価値判断だけでなく背景にもっている広い意味での「理論」によって決められる部分があり、そうした広義の「理論」は、その人の原体験的な経験や深い感情的な起動力によってどのような「理論」を前提するかがかなりの程度制約されてくるからである。

現在国会で審議されている安保関連法案の議論などで言うと、どのような「脅威」が存在すると認識するかという事実認識は、未だ顕在化していないものを見ようとするが故に、こうした背景理論の相違が明確に現れることとなり、賛成派と反対派の議論がかみ合わない要因の一つとなっている。(もっとも、その最大の原因は政府側がまともに議論をするとボロが出るということをはっきり認識した上で、まともに議論をせず、単に別件を表の争点として出し、少数の得票で大量の議席を得たことに基づく力によって、論理や正義を欠いたまま「力による現状変更」(!)を試みようという暴挙に出ているということにある。)

事実が既に存在しており、容易に感覚により知覚できるものであれば、そうした「事実」による意見の相違も起こりにくいが、そもそも「事実」が認識する側の認識枠組みによって規定されてしまうような問題に関しては、単に事実と価値規準の峻別だけでは十分ではない。しかし、この峻別によって問題が整理しやすくなるのは確かであり、必要なことである。

筆者は事実と価値判断の峻別を大学入学時の基礎教育の中で学ぶべきだとするが、私もそれには同意見である。しかし、そうしたトレーニングを学部や教養課程的なところで十分に施されるような仕組みにはなっていないのが問題であり、実際には卒業論文(や修士論文)を書く時点くらいで、こうしたことの必要性が学生側に認識される「ことがある」という程度にすぎない。

政府は国立大学の文系学部を縮小しようとしているが、これはむしろこうした現状を大きく悪化させるものであると言わなければならない。



また近年は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を、社会科学共通の古典として強く推奨する大学教員は激減している。私は17年近く大学教員をしているが、ウェーバーを――部分的でもいいから――自分で読んだという学部生に出会ったことはない。「ウェーバー」は、ウェーバー専門家のための古典となりつつある。(p.241-242)


確かに指摘の通りであると思う。私も学部生で、自らウェーバーを曲がりなりにも読んだという学生には、私自身を除いて出会ったことがない。確かに「プロ倫」やウェーバーの宗教社会学が提示するような近代資本主義の成立にあたって宗教的な倫理が積極的な役割を果たし、それが地域ごとの違いの要因となっているという説はすでに廃れていると言ってよい。しかし、ウェーバーの議論の運び方などにはやはり非常に参考になる見方が散りばめられており、社会科学の古典として読み継がれるだけの価値はまだ残っている。これを「ウェーバー専門家のための古典」にとどめておくのはもったいないことであり、こうした初学者向きの入門書が出版されたことは望ましいことと考える。


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