アヴェスターにはこう書いている?
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片倉佳史 『台湾鉄路と日本人 線路に刻まれた日本の軌跡』

しかし、この基隆~台北間の鉄道は台湾のみならず、清国を含めた地域においても、初の官営鉄道となった。
 ここで興味深いのは住民が反対した最大の理由である。それは線路が土地を貫くと風水が悪くなるというものだった。(p.20)


上海近郊に建設が予定されていた鉄道も同じ理由で反対が起こり、実現できなかったというが、風水を理由に鉄道敷設に反対するというのは、当時の清の領域内の人々の観念や教育の状況などが透けて見えるエピソードであると思われる。



 当初の台北駅は現在の場所ではなく、淡水河の河畔にあった。(p.21)


なるほど。淡水河と内陸を結ぶという位置づけであれば、適切な位置と言えると思われる。



 街は駅を中心に発達し、放射状に延びる道路の両脇にバロック風の装飾を施した家屋が整然と建ち並ぶ。その様子はこの町の自慢だった。(p.52)


台中に関する叙述だが、ロータリーの周囲にバロック風建築というパターンは大連を想起させる。台湾と中国東北(満州)との関係性が垣間見える。



 台東線が開通した当初から、将来的に鉄道輸送の重要性が高まることを想定し、隧道や橋梁、築堤、掘割などが一般の鉄道車両の規格に準じて造営されていたのである。(p.99)


台東線は当初は軽便鉄道規格であったが、戦後になってから改軌工事が行われたが、スムーズに工事が進んだのは当初の日本の技術者たちの先見の明によるものだという。

私が思うに、技術者たちの先見の明というのもあっただろうが、長期的に台湾を統治していこうという当時の日本政府の考え方も反映していると思われる。



 日本統治時代初期、総督府は「工業の日本」に対し、「農業の台湾」という構図を描いていた。そして、台湾中部の彰化を境に、北は米作、南はサトウキビ栽培という構図が存在した。(p.105)


当時の総督府の考え方は、現実を単純化した図式ではあるが、大まかな方向性としては理解できる考え方であると思われる。



1901年に操業を開始した橋仔頭糖業所が最初の鉄道敷設案を提出し、1907年に総督府から許可を得ている。そして、同年11月、台湾で最初の製糖鉄道が走り出した。
 この時、台湾製糖株式会社はアメリカの機関車メーカーであるポーター社から3両の蒸気機関車を購入している。ポーター社製の機関車は簡素な構造で扱いやすく、評価が高かったという。(p.109)


上に引用した「農業の台湾」という図式に合わせて、台湾製糖業の父とも言うべき新渡戸稲造をはじめとする札幌農学校の卒業生たちが台湾で製糖業や米作などの研究や事業に関わっていたが、北海道で最初で走ったのも同じポーター社製の機関車であった。このあたりに何か繋がりはあるのだろうか?非常に興味深いところである。ポーター社というのは当時それほど有名なメーカーではなかったとも聞いたことがあるので、なおさらこの附合は興味深い。



 この台車軌道が日本で登場するきっかけとなったのは、北海道の開拓に際してである。もともとは建設資材や生活物資を運搬するために敷設されたが、その後、徐々に旅客輸送をも行なうようになっていった。これらは「拓殖鉄道」と呼ばれたが、その発展期に台湾の領有が決まったこともあり、領台当初から各地で敷設が計画されることとなった。(p.115)


北海道と台湾の比較や関係に関心のある私にとって、特に興味を惹かれた箇所のひとつ。台湾各地に作られたトロッコもまた北海道開拓と連動していたとは!今まではあまり軽便鉄道やトロッコなどには関心を持っていなかったが、そういった部分まで掘り下げるとさらにいろいろと見えてくるものがありそうである。


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