アヴェスターにはこう書いている?
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片倉佳史 『古写真が語る台湾 日本統治時代の50年1895-1945』

椰子は南部に偏っていた。台北や台中でも見られるが、これは観賞用に改良されたもので実はならない。

レンブ 「蓮霧」と表記され、17世紀にオランダ人によってもたらされた。

水牛 台湾の水牛はオランダ人が持ち込んだものとされる。(p.11)



台湾の椰子の一部は人工的に改良されたものだとは驚いた。また、台湾を象徴する動物とされる水牛のほか、レンブなどもオランダ人が持ち込んだというのは興味深い。オランダ本国から持ち込んだのではなく、東南アジアの植民地などから持ち込んだということなのだろう。もう少し詳しく知りたいところ。



家並みについては1911(明治44)年8月に、台風による被害で在来家屋の大半が倒壊するという事態が起こり、これを契機に大がかりな整備が進んだ。(p.35)


台北についての記述。北海道の都市は明治期の大火によって街並みが形成されるが、台湾では台風が大きな役割を演じたことが多いのかもしれない。



 日本統治時代、台湾の四大産物と言えば、米、茶、砂糖、そして、石炭が挙げられたが、その中で石炭は炭鉱のほぼすべてが北部にあり、中でも宜蘭線と平渓線の沿線に集中していた。瑞芳はその中心となっていた町である。(p.105)


石炭が北部に集中していたのは、九州に炭鉱があることと関係しているものと推測する。台湾の地殻のプレートは北部と東部と南西部との3つに分かれているというのを先日テレビで見たが、これと関連しているのではないかと思う。残念ながら私は地学的な知見はほとんど持ち合わせていないので詳しくはわからないが。



 その後、清国統治時代に入ると、安平の地位は急速に低下した。清仏戦争には基隆や淡水、打狗(高雄)とともに開港したものの、土砂の堆積が進んで港湾機能が低下。船舶の停泊ができなくなった。1926(大正15)年には台南との間に運河が完成し、はしけを用いた物資の運搬が行なわれたが、これも高雄港が整備されたため、興隆に結びつくことはなかった。(p.192)


淡水や安平の土砂の堆積というのは、共通の原因によるものなのだろうか?そのあたりのメカニズムも少し興味が惹かれる。



日本統治時代の名は「花蓮港」だったが、築港が進められたのは昭和時代に入ってからである。……(中略)……。
 ……(中略)……。漢人は台南・高雄から南端を経由し、台東を経てやってきた。つまり、花蓮港は台湾で最後に漢人の移入を受けた土地である。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 ただし、日本統治時代初期の暮らしは厳しい自然環境に翻弄され、その労苦は語り尽くせないものとされていた。その状況は「花蓮港」にかけて、入りたくても「入れん港」、暮らしたくても「食われん港」、そして、一度来てしまったら「帰れん港」などと揶揄されたという。(p.226-227)


花蓮が「花蓮港」と呼ばれていたことは知っていたが、築港は昭和期になってからというのは面白い。台湾の日本語世代では今でも「花蓮港」と呼ぶ人もいるようである。

漢人が最後に移入した土地というのは、東部の街の全体的な傾向であるが、日本統治時代に日本人の割合が相対的に高かったことと関係している。これらの地域は原住民が住む土地であり、漢人が少ないだけでなく、人口も少なかった。そこに日本人が開拓にやってきたため、相対的に日本人の割合が高い地域となったということ。

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