アヴェスターにはこう書いている?
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佐藤圭樹 編著 『写真で辿る小樽 明治・大正・昭和』

小樽公園横の一帯には牧場があった。(p.7)


明治38年(1905年)の小樽港明細地図についての注釈より。牧場があったのは、現在の入船十字街から坂を少し登り、教育委員会の方向へ向かう道の少し山側あたりである。こんなところに牧場があったことに驚いたが、昭和初期に小樽公園の入り口あたり(公園通り沿い)に小樽保証牛乳という会社の事務所ができたこと(現在のミルクプラントというアイスクリーム屋)も関係があるのだろうか?という疑問も湧いてくる。



遠景の海上に延びているのが高架桟橋で、画面右下には旅客専用の手宮駅が写っている。無関係と思われる両施設のあいだには意外な繋がりがある。高架桟橋の完成によって石炭の積み出し量が急増した手宮では駅構内が手狭となったことから貨物扱いに特化し、それに伴って大正元(1912)年に場所を移して開業したのがこの旅客駅というわけだ。しかしその後の昭和18(1943)年、戦局の緊迫するなかで手宮線は複線だった線路の片側を供出。それを機に旅客輸送は休止となって旅客駅も廃止された。(p.18)


高架桟橋については小樽の歴史をふり返るときしばしば語られるが、手宮駅についてはそれほど語られることがない。手宮線も複線だったことは知らなかった。そしてそれが戦争の影響で単線化され、その結果として旅客の扱いがなくなったとは。



 明治13(1880)年、手宮~札幌方面への鉄道を敷設するにあたっては、石山の裾を切り拓いて鉄道用地を造り出すことをせず、既存の道路の上に線路を敷いてしまった。その結果、列車が家並みのすぐ前を、まるで路面電車のように通ることとなったというわけだ(→P64)。
 ……(中略)……。ようやく鉄道の専用軌道が完成し、鉄道が道路から切り離されるのは鉄道開通から四半世紀近くも後の明治37(1904)年。前年4月の手宮大火で一帯が焼け野原になったのを機に、新たな街づくりが行われた結果だ。(p.33)


手宮線は明治後期(38年頃)まで現在の路線とは少しずれたところを通っていたようだ。現在は旧日本郵船小樽支店の山側に線路が通っているが、この既存の道路の上にあった軌道はこの建物の前面の道路を通っていた。

東南アジアなどで店などが並ぶすぐ目の前を列車が通る風景をテレビなどで見たことがあるが、ある意味、明治中期の手宮線もそれと同じような状態だったということか。逆に言えば、東南アジアなどのそうした鉄道の状況も既存の道路の上に軌道を敷いた結果なのかもしれない



石山が開削されて裡町通りが稲穂町まで開通するのは大正8(1919)年。小樽港の埋め立て工事――このときに小樽運河が生まれる――のため石山から土砂が運び出され、道路開削と埋め立て地の造成と一挙両得の結果となった。(p.35)


現在の手宮行きのバスが通る道はこの時に開通したということらしい。この叙述を読んで明確に理解できたのは、この道が稲穂町側から軽い登りになっており、比較的短い距離ですぐに手宮側に向けて下りになる地形は、もともとあった石山を削った土地だからだなのだろう、ということだった。この道からは削られて残った山の部分であると思われる部分も見ることができる。



 北大との体育会対抗試合に先だって行われる両校応援団の対面式は大正時代に始まったとされ、毎年初夏の恒例行事として広く知られている。……(中略)……。
 団長はぼろぼろの羽織袴、高下駄に長髪、髭面というバンカラ丸出しの出で立ちだ。もっともこのスタイルは昭和30年頃に“復古調”として採り入れられたらしく、戦前は学生服のすっきりした出で立ちだったというのが意外だ。(p.111)


北海道大学と小樽商科大学の体育会の定期戦での応援団同士の対面式の風景は北海道では非常に有名だが、あの応援団たちの格好が昭和30年頃に復古調として採用されたものだったとは驚いた。



まずは貨物用の倉庫を建てるための埋め立て地が必要であり、それに付随して設けられた荷運びのための水路が「運河」となった、というわけだ。(p.112)


運河の工事は主たる目的は倉庫用地であり、運河は付随的な位置づけだったというのは興味深い。ただ、運河の建設は、埠頭方式とどちらが良いかが議論された結果、ある意味では旧式の方式が採用されることとなり、その結果、竣工してまもなく埠頭建設が必要になった、というほどのものだったから、運河よりも倉庫というのは想像できることではある。



その石柱には向かって右に廣海二三郎、左に大家七平と、ともに加賀瀬越村の北前船主である寄進者の名が刻まれている。二三郎は大家家から養子に入っており、鳥居に名を刻まれた2人は、姓は違うが実の兄弟である。(p.122)


住吉神社の大鳥居について。旧広海倉庫と旧右近倉庫は現在の北運河の端、一番手宮側のあたりに並んで建っている。それもこうした両家の関係を反映しているようで興味深い。



 高島の街の高台に建つ<高島稲荷神社>は元禄3(1690)年創建と伝えられる古い歴史を持つ。寛文7(1667)年には近江商人の西川家が漁場経営に携わっており、神社の起こりはその時代のことのようだ。(p.124)


高島の神社の創建がここまで古いとは知らなかった。西川家の進出と関係しているというのはありそうな話だ。



大正年間に築造された小樽運河を、竣工当初から時代遅れとする見方が多いなか、近代的な埠頭建設には大きな期待が寄せられ、起工式はひときわ盛大に行われた(第一埠頭の竣工は昭和15年)。(p.154)


小樽運河は生れるときから時代遅れとされ、完成して20年後には埠頭に主役を奪われ、昭和中期には打ち捨てられ、昭和後半には埋め立てが決められるという歴史を通ってきたが、その意味では昭和の運河論争を経た後の現状は、この運河の歴史にとっては比較的輝かしい時代なのかもしれない。



一般に「小樽は戦後になってそれまでの勢いを失った」といわれることが多いが、戦争は、小樽の発展を阻害した直接的な要因ではない。小樽の経済的繁栄の象徴と見られる大手銀行の支店にしても、戦後になって住友と三和(共に昭和22年)、日本勧業(25年)の3行が新たに進出していることは注目に値する。
 小樽にとっての逆風は、終戦直後の混乱期がひと段落した昭和30年前後に始まる社会・経済環境の変化によるものが大きい。(p.155)


興味深い指摘。樺太を失ったことなども戦争に関連して語られるが、樺太にとって小樽の存在は大きかったが、小樽の流通全体から見た樺太は大きくはなかった(5%程度だったか)。なお、ここで語られる社会・経済環境の変化とは、太平洋航路(苫小牧港)の位置づけの高まり、石炭から石油へのエネルギー転換、札幌への経済機能の一極集中といったことが挙げられている。


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