アヴェスターにはこう書いている?
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トマ・ピケティ 『21世紀の資本』(その6)

税金というのが常に、単なる税金以上のものだということを理解するのは重要だ。税金はまた、規範や分類を定めて、経済活動に対する法的枠組みを課す手段なのだ。(p.544-545)


この認識はこれまでも何度か引用したかもしれないが本書の重要なポイントのひとつであり、本書から私を含めた多くの人々が学ぶべき点でもある。



自由貿易と経済統合でお金持ちになった個人が、隣人たちを犠牲にして利潤をかき集めるなどというのは正当ではない。それは窃盗以外の何物でもない。(p.547)


まさに現在起っているのがこれだ。



 政府が支出をまかなう方法は主に二つ。税金と負債だ。一般に、公正と効率の観点からして、税金のほうが負債よりもはるかに望ましい。負債の問題は、通常は返済が必要だということだ。したがって負債による資金調達は、政府にお金を貸せる人々の利益になる。社会的な利益の観点からすると、金持ちに借りるより、金持ちに課税するほうが通常は望ましい。(p.567)


国債・公債に関する議論でいつも抜け落ちているのが、貸し手は誰なのか、ということだ。政府に金を貸せるだけの資金に余裕がある人が貸す。逆にこれらの金持ちに対して累進課税をすれば金を借りる必要などなく、利子を返す必要もない。この程度のことすら公けに議論されないということは問題だ。



新興経済は富裕国より所得でも資本でも貧しいが、公的債務はずっと低い(平均でGDPのほぼ30パーセント)。これは公的債務の問題が、絶対的な富の水準の問題ではなく、富の分配の問題だということを示している。特に公的アクターと民間アクターとの分配が問題だ。金持ち世界は金持ちだが、でも金持ち世界の政府は貧乏なのだ。(p.567)


公的債務の問題が分配の問題だというのは当然のことである。だが、このこともしばしば忘れられている。



大恐慌の開始時点で、工業国の中央銀行はきわめて保守的な政策を採用した。金本位制を廃止してまだ間がなかったので、トラブルに陥った銀行を助けるのに必要な流動性創造を拒否して、これが連鎖反応的な倒産を創り出し、これが危機を深刻に悪化させて、世界を奈落の縁にまで押しやった。この悲劇的な歴史体験がもたらしたトラウマはぜひとも理解しよう。それ以来、みんな中央銀行の主要な機能は金融システムの安定性を確保することだという点で合意するようになった。(p.576)


大恐慌があれほどの深刻な事態を引き起こしたのは、金融体制が変わってから十分に時間が経過していなかったため、適切な方法での対処をすることへの意見の一致がなかったことが要因のひとつであったとも言える。



税制競争は通常は消費税への依存に向かうことを認識するのは重要だ。これはつまり19世紀に存在したような税制であり、累進性がまったくつけられない。現実問題として、これは貯蓄できる者、居住国を変えられる者、その両方ができる者に有利に働く。(p.591)


消費税は品目ごとに累進性をつけることもある程度はできるが、制度としては複雑になるし、所得税や法人税ほど有効に累進課税の効果を発揮することもできないように思われる。



 最後に、債務や財政赤字の適切な水準を判断するには、国富に影響する他の無数の要素を考慮しないわけにはいかない。あらゆる手持ちのデータを見ると、何より驚かされるのが、ヨーロッパの国富が空前の高い水準にあるということだ。たしかに公的債務の大きさを見れば、純公共財産は実質ゼロなのだが、純民間財産があまりに高すぎて、両者の合計は1世紀前の高い水準になっている。だからこそ、私たちが恥ずかしい債務負担を子孫の代に遺そうとしているとか、ボロをまとい灰をかぶって許しを請うべきだなどという発想は、まるっきり筋が通らないのだ。ヨーロッパ諸国がこれほど豊かだったことはない。一方、恥ずべき真実は、この巨額の国富がきわめて不均等に分配されているということだ。民間の富は公的な貧困の上に成り立っているし、これがもたらす特に不幸な結果のひとつは、私たちが高等教育に行う投資よりも債務の利払いに費やすお金のほうが今でははるかに多いということだ。さらにこれはずいぶん昔から続いているのだ。1970年以来の成長はかなりゆっくりしていたので、歴史的に私たちは債務が公的財源にかなりの重圧をかける時代にいる。だからこそなるべくはやく債務を減らさねばならないのだし、その手法は民間資本に対する累進的な1回かぎりの課税か、それがだめならインフレによるものであるべきだ。いずれにしても、この決定は民主的な論争の後で独立した権限を持った議会により行われるべきものだ。(p.597)


ヨーロッパについて書かれているが日本もほぼ同じと言ってよい。中央政府と地方政府の債務が大きく、「日本はお金がない」などと言われるし、「債務を子孫の代に遺さないようにしよう」などと言われる。そして、増税ではなく歳出削減という方法でそれを実現しようなどと無謀な試みもなされてきた。第二次安倍政権の下では、この声は下火になり、アベノミクスの名の下で膨大な公共事業が再開され、債務は膨らみ続けている。これを解消するための方法として(政府の一部の人びとに)考えられているのは、インフレによる債務の実質的な削減ではないかと勘繰りたくなる。現在の金融政策を続けるとどこかで起こるであろうハイパーインフレによって債務を帳消しにしようというわけだ。(安倍政権ほどあらゆる面で悪意に満ちた政権は見たことがない。)

民間資本に対する1回かぎりの累進的課税は劇薬ではあるが、インフレよりはコントロール可能という点で優れているし、民主的な合意の下で行われるという点でも正当性がある。民間の富が公的債務の犠牲の上に成り立っているという事実を有権者たちの間で共有することができれば、この方法の正当性は明らかに担保されるだろう。



社会科学研究の目的は、各種の意見がすべて代表された、オープンな民主論争に取って代わるような数学的確実性を作り出すことではない。(p.601)


これは数学的な法則をひねり出して政策決定に影響を及ぼそうとする傾向のある最近の経済学への批判だろう。



今日の経済学者たちは、対照実験に基づく実証手法にえらく夢中だ。適度に使うなら、こうした手法は有益なこともあるし、一部の経済学者の目を具体的な問題と、その分野の直接的な知見に向けたという点(こうした展開はすでに遅すぎるくらいだ)では賞賛されるべきものだ。でもこうした新しいアプローチ自体も、ときにある種の科学性の幻想にしがみついてしまう。たとえば純粋かつ本物の因果関係の存在を証明するのに多大の手間暇をかけつつ、その問題自体がそれほど興味深いものではないことを忘れてしまうことだってあり得る。新手法はしばしば歴史の無視につながり、歴史的な経験こそが今でも主要な知識の源泉なのだという事実も見失わせてしまう。(p.605)


ピケティは数式を多用するような経済学に対して手厳しく批判しているが、この箇所は行動経済学への批判と思われる。ある意味、実証主義に対する歴史主義からの批判という点では、比較的古典的な議論が繰り返されているように思われ興味深い。



 逆に、他の分野にいる社会科学者たちは、経済的な事実の研究を経済学者たちに委ねたままではいけないし、数学が出てきただけで震え上がって逃げ出したり、あらゆる統計など社会的構築物でしかないなどと言うだけで満足したりするようではだめだ。もちろん社会構築物だというのは事実ではあるが、それでは不十分なのだ。逃げるのも社会構築物だと言うのも、根っこでは同じでしかない。それはその分野を他人に明け渡すということだからだ。(p.606)


経済という現象、分野を経済学者に明け渡してはいけない、という指摘は非常に重要。




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