アヴェスターにはこう書いている?
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トマ・ピケティ 『21世紀の資本』(その3)

 また、1990年以降の税データにある種の劣化があることにも気づかされる。その原因の一部はコンピュータ記録の登場だ。コンピュータが入るとしばしば、税務当局による詳細な統計データ公開が中断されてしまうのだ。そういった細かい統計値は、昔は税務当局自身が必要だったので集計公表されていたのだった。逆説的ではあるが、時として情報時代の到来が情報の劣化をもたらすこともあるのだ(同じことが富裕国でも起きている)。情報の劣化はなによりも、一部政府や国際組織が累進税に対してある種の不満を抱いていることから生じているようだ。その典型的な例がインドで、1922年以来中断することなく詳細な所得税データを公開し続けてきたのに、2000年代初頭にその発表をやめてしまった。その結果インドにおけるトップ所得の推移調査は、20世紀中よりも2000年以降のほうが困難になってしまった。(p.341)


日本でも2006年から高額納税者公示制度が廃止されたことが想起される。



もしも限界生産性が重役報酬を決定するなら、そのちがいは外部の動向とはほとんど無関係に、「非外部的」な差のみによって、あるいは主にそれによって決まると考えられるはずだ。でも実際に見られるのはその逆だ。役員報酬が最も急上昇するのは、売り上げと利潤が外部要因で増えたときなのだ。(p.348)



ダン・アリエリーの『ずる』が主張するように、曖昧で何とでも理由をでっち上げられるような状況で不正が行われやすいということが、この役員報酬の急上昇という現象にも妥当しているように思われる。これは一種の不正である。



最高限界所得税率の引き下げは、超高所得の激増を招き、その恩恵を受けた人々が税法を変えさせるための政治力を高めた。そうした人々は最高税率を低くおさえたり、もっと下げたりするのが利益にかなっていたし、その濡れ手に粟で得た大金を政党、圧力団体、シンクタンクに献金できるようになったのだ。(p.348-349)


所得・資産の格差は民主的な社会の妨げになる。貧困に着目する格差の分析からはこの点が抜け落ちてしまう。ピケティは超高所得者に注目するからこそこの点に敏感に反応できているように思われる。



 後知恵ながら今日パレートの著作を読むとさらに驚くのは、その安定理論を裏付ける証拠がまったく挙がってないことだ。パレートがこれらを書いたのは1900年あたりのことだ。かれは入手したスイスやイタリアの数都市、そしてプロイセンとザクセンのデータを基にした1880~1890年の税率表を使用している。この情報はずいぶん貧弱だし、最大でも10年しかカバーしていない。さらに、そのデータは格差のわずかな拡大傾向を示していたのに、パレートは意図的にそれを隠そうとした。いずれにしてもそんなデータでは、世界の格差の長期動向についてのどんな結論だろうと、何の根拠にもなっていないのは明らかだ。
 パレートの判断は明らかにかれの政治的偏見の影響を受けていた。かれは何にもまして、社会主義者とその再分配幻想と見なしていたものを警戒していた。この点においては、かれが私淑していたフランスの経済学者ピエール・ルロワ=ボリューら同時代の多くの同業者たちと何ら変わるところはなかった。パレートの例が興味深いのは、それが社会科学における数学の無批判な利用が招きがちな、永続的な安定への強力な幻想の好例となっているからだ。(p.382)


ピケティのパレートへの批判は本書で取り上げられている中ではかなり手厳しい部類に入る。数学の無批判的な利用が永続的な安定への幻想を招くというのは的確な指摘と思う。



これに関連した重要な点として、資本所得に対する課税の効力は、資産の総蓄積を減らすのではなく、長期的な富の分配構造を変えるということがある。理論モデルで考えても歴史データで見ても、資本所得に対する税率が0から30パーセントに上昇しても(つまり資本収益率が5から3.5パーセントに減少しても)総資本ストックは長期的に変化しなかったかもしれない。これはトップ百分位の富のシェアの減少が中流階級の台頭によって相殺されるという単純な理由によるものだ。20世紀にはまさにこれが起こった――今日ではその教訓は時々忘れられてはいるが。(p.389)


部分的な引用なので分かりにくいかも知れないが、資本所得に対する課税を行うと、最上位層の資産は減るが中流階級の資産が増える方向に分配構造が変わるということ。企業などのトップが収益を独占するうまみがなくなるため、従業員の給与などに還元するということか。



 この能力主義擁護の最も厄介な問題は、ジェイン・オースティンの必要性と尊厳に関する主張さえほとんど無意味に思えるような、最も裕福な社会においても同じような主張が見られることだ。ここ数年来米国では、スーパー経営者に対する天文学的報酬額(少なくとも平均所得の50~100倍)に対するこの種の正当化がよく聞かれるようになった。そのような高額報酬の支持者は、それがないと本物の富を獲得できるのは大資産の相続者だけになり、それは公正を欠くと主張する。スーパー経営者への何百万、何千万ドルという年俸は、結局はもっと大きな社会正義への貢献となるというのだ。この種の主張は、将来のもっとも大きく暴力的な格差の土台を築くことになりかねない。来るべき世界は、過去の最悪な二つの世界が合体したものになるかもしれない。それは、能力や生産性という観点から(すでに指摘したように、ほとんど何の事実に基づいた根拠もないまま)正当化されたすさまじい賃金格差と、相続財産の非常に大きな格差との両方が存在する世界だ。こうして極端な能力主義によって、スーパー経営者と不労所得生活者の競争が、どちらにも属さない人々を犠牲にして行われることになる。(p.433)


超高額報酬に対する能力主義的な正当化のもつ危険性についての指摘。同意見である。



レントとは市場の不完全さではない。むしろそれは、経済学者が理解しているところの「純粋で完全」な資本市場の結果なのだ。(p.440)


市場が不完全だからレントが生じるのではなく、むしろ完全に近いからレントが生じる。


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