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アヴェスターにはこう書いている?
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トマ・ピケティ 『21世紀の資本』(その1)

さらに、自分の所得を税務当局に申告するのが法律で義務化されるまでは、人々は自分の所得額など意識していないことも多かった。同じことが法人税や財産税についても言える。課税は全市民に対して公共支出や公共プロジェクトに貢献するよう義務づけたり、税負担をなるべく公平に振り分けたりするための手段にとどまらない。区分を確立して知識を促し、民主的な透明性を確立する手段としても役立つのだ。(p.14)


最初の一文については、確かに申告するかしないかで所得額への自覚は大きく左右されるように思われる。日本では、大抵の給与所得や公的年金の所得は確定申告をしなくても済む仕組みになっていることもあり、所得税が整備されていても所得額への意識はそれほど高くないが、もし所得税という制度がなかったら、現状よりも遥かに意識されないであろうことは想像に難くない。

例えば、日本では住民税や国保税(料)などは前年中の所得に対して課税されているが、前年の所得が多かったことを忘れて(?)、「どうしてこんなに高い税金がかかるのか?」などと思う人も相当数いるが、これも所得というものがあまり意識されていない証左だろう。

また、課税というものが単に所得再分配のような機能を持つだけでなく、民主的な透明性を確立する手段としての機能も持つという指摘は重要であり、ピケティがグローバルな資産課税を提唱する理由のひとつもそこにある。



 まとめると、国際レベルでも国内レベルでも、収斂の主要なメカニズムは歴史体験から見て、知識の普及だ。言い換えると、貧困国が富裕国に追いつくのは、それが同水準の技術ノウハウや技能や教育を実現するからであって、富裕国の持ち物になることで追いつくのではない。知識の普及は天から降ってくる恩恵とはちがう。それは国際的な開放性と貿易により加速される(自給自足は技術移転を後押ししない)。何よりも、知識の普及はその国が制度と資金繰りを動員し、人々の教育や訓練への大規模投資を奨励して、各種の経済アクターがあてにできるような、安定した法的枠組みを保証するようにできるかどうかにかかっている。だからこれは、正当性のある効率よい政府が実現できるかどうかと密接に関連しているのだ。簡単に言うと、これが世界の成長と国際的な格差について歴史が教えてくれる主要な教訓となる。(p.76)


第1章のまとめ部分。格差を拡大するメカニズムと収斂させるメカニズムの両方があるが、収斂させる主要なメカニズムは知識の普及にあるという。日本の60年代頃の高度経済成長について、しばしば「奇跡」などという形容がなされることがあるが、同じようなことはその後の韓国、台湾などでも起きたし、現在の中国でも起きている。このキャッチアップをする過程は、まさにいわゆる「先進国」が持つ技術ノウハウなどをより安い賃金によって活用して工業製品などを生産することによって実現されるものであり、このことを実現できる政治的及び財政的なインフラが整いさえすればそれほど困難なことではないという理解は重要である。高度成長は「奇跡」でも何でもない。

ピケティの議論では、こうした収斂の力は歴史的事実として格差拡大の力より弱く、人為的に手立てを講じない限り格差は社会の統合を維持できないところまで進んでいく可能性がある、という主張へと繋がるものである。これを解決する理想的な手段がグローバルな資本課税、というわけである。

なお、キャッチアップの過程で技術ノウハウが「新興国」には流入してくるが、それを受け入れるためには教育が重要となる。より高度な教育をより多くの人々が受けられるようにする必要が生じる。ここから教育にかかる費用(政府の財政と人々の生計の両方)の増大が生じ、このことが少子化への圧力となるため「先進国」では少子化が進むと理解して概ね誤りはないように思われる。



だが収斂という中心的な問題に加えて、今から私が強調したい論点は、21世紀には低成長時代が復活するかもしれないということだ。もっと厳密には、例外的な時期か、キャッチアップが行われているとき以外には、経済成長というのは常にかなり低かったのだということを、これから見ていこう。さらに、あらゆる兆候を見ると、経済成長――少なくともその人口による部分――は将来はもっと低くなるらしい。
 ここで問題になっているものと、それが収斂プロセスや格差の力学にどう関係するかを理解するためには、産出の成長を二つの部分に分解するのが重要だ。人口増加と、1人当たり産出の成長とに分けるのだ。言い換えると、経済成長には常に、純粋的に人口的な部分と、純粋に経済的な部分があり、生活水準の改善に寄与するのは後者だけなのだ。(p.77)


この経済成長の区分の持つ意味は、本書から得た収穫のひとつだった。この区別を念頭において経済に関する言説やデータを見ると、様々なものを非常にクリアに見ることができる。経済成長と言われるもののかなりの部分は人口増によるものが含まれていることと1人当たりの産出(生産性)は歴史的な事実から言ってそれほど劇的に大きくなることは期待できないし、過度に期待すべきではない。(経済に関するしばしばみられる楽観論は、これらの区別を明確にしないまま、1人当たり産出についての過度の期待に基づいていることが多い。)



たとえば、民間医療保険システムが公共システムより費用がかかるのに、本当に公共版より優れた質のサービスを提供していない場合(これは米国とヨーロッパを比較するとわかる)、民間保険に主に頼る国ではGDPは不自然に過大評価されることになる。(p.98)


GDPなどの指標は、あまり過信しない方が良い。



数字はむしろ、規模感を示すくらいのものとして解釈すべきで、それ以上に重視すべきではない。(p.98)


この考え方は本書の随所で具体的に示されており、数字を紹介するときに「規模感を理解してもらうため」といったような紹介のされ方がされている。この考え方は非常に健全なものであると思われる。この考え方は、ピケティが経済学を批判する点のひとつである、数式を多用することへの批判とも結びついていると思われる。

思うに、データ(数字)は現実を大まかに捉えるための道具でしかないのに、多数の数式を用いることは、逆に、捉えるべき現実を見えなくしてしまうことに繋がる。数式にはそれ自体に多数の仮定が伏在しており、それを複数用いる場合、仮定のすべてを認識・意識することは不可能となり、数式が持つ仮定を、無意識のうちに社会の現実が持つべき規範として(すりかえて)しまう――主張している本人が気付かずに仮定している場合もあれば、人々にそのように錯覚させようという誤魔化しが見られる場合もあり、もちろん両方が同時に生じていることもある――ということが経済学(経済政策)の世界では頻繁に見られる。



重要な点は、世界の技術的な最前線にいる国で、1人当たり産出成長率が長期にわたり年率1.5パーセントを上回った国の歴史的事例はひとつもない、ということだ。過去数十年を見ると、最富裕国の成長率はもっと低くなっている。1990年から2012年にかけて、1人当たり産出は西欧では1.6パーセント、北米では1.4パーセント、日本では0.7パーセントの成長率だった。このさき議論を進めるにあたり、この現実をぜひとも念頭においてほしい。多くの人々は、成長というのは最低でも年3~4パーセントであるべきだと思っているからだ。すでに述べた通り、歴史的にも論理的にも、これは幻想にすぎない。(p.99)


この認識は本書の指摘のうち、非常に重要なものの一つだ。現在の日本政府もピケティが指摘する幻想を共有している(少なくとも願望として持っており、人々に幻想を現実であると信じさせることを望んでいる)。財政再建を増税ではなく経済成長によって賄うことを見込んでいることなどにも、この幻想にすがっている(あるいは人々が幻想をもっていることを利用している)ことを見て取れる。



 私が見るに、最も重要な点――具体的な成長率予測以上に重要(というのもすでに示した通り、長期の成長をひとつの数字に還元しようという試みはすべておおむね妄想じみているからだ)――は、1人当たり産出の成長率が年率1パーセントくらいというのが実はかなりの急成長であり、多くの人が思っているよりはるかに急速なのだという点だ。
 この問題について検討する正しい見方は、ここでも世代ごとに見ることだ。30年の単位で見ると、年率1パーセントの成長率は累積成長率として35パーセント以上になる。年率1.5パーセントの成長率は、累積成長率50パーセント超だ。実際には、これはライフスタイルと雇用にとっては大規模な変化を意味する。……(中略)……。1人当たり産出が30年で35~50パーセントも増えるということは、今日生産されているもののかなりの部分――4分の1から3分の1――は30年前には存在せず、したがって職業や仕事の4分の1から3分の1は当時は存在しなかったということだ。(p.101)


年率1パーセント程度だと日々の生活ではそれほど大きな変化に気付かないかもしれないが、一般に思われているよりはるかに急速な変化だという指摘はなるほどと思わされた。

また、世代単位で経過を見るという見方も非常に参考になる。藻谷浩介の『デフレの正体』などでは数字は変化率で見るのではなく、生数字のままで見た方がよいという指摘があり、学ぶところがあったと思っているが、本書では変化率には使い方がある、ということを学んだように思う。その一つが時間の経過を的確なスパンで見ることで役に立つことがあるということだろう。また、資本/所得比率βの使用などで見るように、インフレなど絶対値の変化が大きな場合でも長期の比較ができるという使い方も本書の手法から学べた点である。



 西欧が成長の黄金時代を実現したのは1950年から1970年にかけてだったが、その後の数十年では、成長率は半分から3分の1にすら下がってしまった。図2-3はその下落ぶりを過少に示していることには留意しよう。イギリスを西欧に含めているからだ(これはそうあるべきだ)。20世紀におけるイギリスの成長は、北米のほぼ安定というパターンにかなり近い動きを見せている。大陸ヨーロッパだけ見れば、平均の1人当たり産出の成長率は1950~1970年で5パーセントだ――過去2世紀で他の先進国が実現した水準をはるかに超えている。
 20世紀におけるこうしたまったくちがう集合的な成長体験を見ると、商業と金融のグローバル化、いや資本主義全般のグローバル化について、各国での世論がなぜこれほど大きくちがっているかがおおむね説明できる。大陸ヨーロッパ、特にフランスでは、人々はごく当然ながら戦後すぐの30年――経済に対する強い国家介入期――を急成長に恵まれた時期だと考える。そして、1980年あたりから始まった経済自由化こそはそのスピードダウンをもたらしたものだと考える。
 イギリスと米国では、戦後史についての解釈がかなりちがう。1950年から1980年にかけて、英語圏と敗戦国とのギャップは急激に縮まった。1970年代末になると、米国の雑誌はしばしば米国の衰退と日独産業の成功を嘆いた。イギリスでは、1人当たりGDPはドイツ、フランス、日本、さらにイタリアにすら追い越された。この脅かされているという感覚(あるいはイギリスの場合はすでに負けたという感覚)は「保守派革命」において重要な役割を果たした。イギリスのマーガレット・サッチャーと米国のロナルド・レーガンはアングロ・サクソンの実業家たちからアニマルスピリットを吸い取ってしまったとされた「福祉国家を元に戻す」と約束し、つまりは純粋な19世紀資本主義に戻ると述べた。そうすれば米英は再び優位に立てると主張したのだ。今日ですら、英米のどちらでも多くの人は保守派革命が驚異的な成功をおさめたと思っている。両国の成長率は再び大陸ヨーロッパや日本と並ぶ水準に戻ったからだ。
 実は、1980年あたりに始まった経済自由化も、1945年に始まった国家介入主義も、そんな賞賛も責めも受けるいわれはないのだ。フランス、ドイツ、日本は、どんな政策を採用していようとも、1913~1945年の崩壊の後で、イギリスと米国に追いついた可能性がきわめて高い(この一文に誇張はごくわずかしかない)。せいぜい言えるのは、国家介入によって何も被害は生じなかったということだ。同様に、ひとたびこうした国々が世界の技術最前線に躍り出たら、イギリスや米国に勝る成長率は実現できなくなったのも、図2-3が示す通りこうした富裕国の成長率がおおむね同じくらいになったのも、不思議でもなんでもない(この点についてはまた後で)。ざっと言うなら、米国とイギリスの経済自由化政策はこの単純な現実に対してほとんど影響がなかった。それにより成長は高くも低くもならなかったからだ。(p.104-105)


なるほど。

ただ、経済成長という点から見ると、国家介入主義も経済自由化政策も大差ないかもしれないが、社会の平等性や貧困のような権利侵害などのあり方などを考慮に入れると前者の方が適切だったとは言えるのではないか。経済自由化政策は富める者をより富ませることはできるが底辺や中間のものには恩恵がないからである。


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