アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

天野郁夫 『大学の誕生(下) 大学への挑戦』(その1)

 京都帝国大学の場合にはこのように、文部省が創設費用の大部分を負担する形で決着したが、その際に考えられた、既存の官・公立学校を移管・吸収するか、あるいは校地の寄付や建設費の負担など創設費用の大部分を、立地する府県や市などの寄付に求めるという新設費用の調達方法が、その後、帝国大学を含めて官立諸学校の設置にあたってごく一般的な方式になって行く。
 それは、本来ならば国が全面的に負担すべき費用を、地方政府や個人の寄付に依存することで、「民」の学校設立へのエネルギーを「官」の側に吸い上げていく、巧妙な方式であったと見るべきかも知れない。(p.21)


既存の学校の移管・吸収や地元の資産家や地方政府などが寄付することで官立(国立)の大学が創設された事例は即座に複数思い浮かぶ。これが一般的な方式だったというのも頷ける。



「専門学校」は「一つの事を学んで、それを実行して行ければ」それでよい。しかし「大学の卒業生は、即ち研究者でなければならぬ。新しいことが起つて来ても、或は又知らぬことが起つて来ても、それを研究する力がなければならぬ」。修養教育は、そのために必要だというのである。(p.134)


以上は文部大臣も務めた菊池大麓が大正期に入った頃の主張の一部だが、現代でも通じるものがある。

大学の卒業生に本来求められるものというのは、ここで述べられているような未知の事柄を研究する能力を身につけることが、問題の発見及び解決のための能力へと展開していくことによって、社会のリーダーとしての先見性や問題解決能力が養われていることが期待される、ということになるだろう。もっとも、大衆化した大学では、全ての大学の卒業生にこのようなことが期待されるわけではないだろうが、それでも幅広い教養を身につけることによって、こうした能力を少しでも養おうということは志向されているのではなかろうか。



 官立セクターの拡充が遅々として進まなかった最大の理由が、政府の財政的困難にあったことは、これまで見てきたとおりである。
 中学校卒業者の激増に象徴される全国的な高等教育進学熱の高まりは、政治家による高等教育機関の増設要求として、たびたび帝国議会にその姿を現わすようになったが、そのなかには高等工業・高等商業といった具体的な学校の設置を求める、地方自治体からの建議も含まれている。政府は、そうした建議を受けて官立学校の設置計画を立てたが、多くの場合その創設の費用について、少なくともその大きな部分を、学校の設置される地域の寄付金に期待していた。
 実際に設置の計画が公表されれば各地に学校の誘致運動が起こり、それが校地や校舎建築費の寄付競争の形で、創設費用の捻出を可能にする。依然として厳しいままの財政事情のもとで、多数の実業専門学校の新設が可能になったのは、そうした地方政府と地方資本家(時には住民)による資金負担のおかげであった。
 たとえば明治43年開設の小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)の場合、開港地とはいえ神戸や長崎と違って、新開地である小樽の地元商業資本家の力は弱く、「地元の積極的な熱意」と「有力者の政治力」だけが頼りであった。小樽区当局は必要とされた15万円の寄付金集めに「所得税額に比例して各町内に寄附を割りあてる案」を立てたが果たさず、結局「区債」の発行でまかなうなど「苦心惨憺」したことが知られている(『緑丘五十年史』6-7ページ)。
 新設の実業専門学校の多くは、官立とはいっても「民」の力を基盤に設立されたのである。(p.155-156)


このエントリーの冒頭で引用した内容と重なるが、具体例が興味深い。例えば、ここでは力が弱いと言われている地元商業資本家は、現地(小樽)の歴史を語る際には大変な金持ちであったという扱いで語られていることや、現地の歴史では当時の小樽区(現在は小樽市)が「区債」を発行したということはあまり強調されない傾向があるからである。いずれにせよ、明治後期(30~40年代)以降の官立学校の創設は、こうした手法で行われていたということ自体が興味深い。

これに関しては東北帝大や九州帝大も古河財閥からの寄付がなければ実現できなかったであろうことも想起される。



 繰り返し指摘してきたように、この時期の大多数の私学は官立諸学校に教員、それも非常勤講師の供給源を全面的に依存していたのであり、近距離に官立学校が立地していなければ、その設立や存続は事実上不可能であった。先にもふれたが、法学系私学が神田界隈に集中していたのは、ひとつにはそのためであり、裏返せば慶応義塾が三田、早稲田が高田馬場と、都心を離れた場所に立地しえたのは、創設時から専任の教授陣を擁していたためといってよい。
 明治期はもちろん、いまもなお続いている私立高等教育機関の圧倒的な東京一極集中も、このことと深くかかわっている。同志社や関西大学の不振は、京都や大阪に官立の、とくに法文系の学校が長く存在しなかったことと無関係ではない。京都帝国大学法科大学、さらには分科大学が創設されてはじめて、京都や大阪が、わが国第二の私立高等教育機関の集積地として発展を遂げる基盤が、用意されたのである。(p.183-184)


明治から大正の時期にかけての高等教育機関の教師の供給と学校の立地との関係。神田界隈など、この関係性が現在まで続いているところは興味深い。

この一極集中がこれだけ続いていることを考えると、恐らく1949年の学制改革で発足したものが多いと思われるが(旧帝大やそれに準ずるものとまではいかなくても)地方にその県を代表するような国立大学が少なくとも一つは置かれてきたこと(北は弘前大学や岩手大学から南は琉球大学まで)は、この状況を多少なりとも是正するものだったように思う。


スポンサーサイト

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/1018-1d056e89
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)