アヴェスターにはこう書いている?
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天野郁夫 『大学の誕生(上) 帝国大学の時代』

 いずれにせよ、高等教育は国、中等教育は府県という、現在まで続く教育の責任体制の基本はこの時点で決まったのであり、わが国の高等教育システムは以後、国立(官立)と私立の二セクターを中心に発展していくことになる。(p.118)


「この時点」とは明治20年頃であり、随分早期に現在にまで続くパターンが決まってしまったものだな、と思う。この時期に、府県立の高等教育機関が次々と閉校へと追い込まれることで、公立学校の発展の可能性が著しく狭められた。



 いずれにせよ、「洋語大学校」か「邦語大学校」かが議論された明治10年代を経て、明治20年代に入ると、近代西洋の学問中心の諸学校に対して、日本の伝統的な学問を重視する「日本大学」の設立構想が、相次いで現われたことに注目すべきだろう。(p.146)


明治20年設立の哲学館(現・東洋大学)と明治23年創設の国学院(現・国学院大学)のような構想がとり上げられている。



 「私立大学」、といってもアメリカ的なリベラルアーツ型の「カレッジ」の設立は、維新後に布教のため日本にやってきた、プロテスタント系の宣教師たちによっても試みられた。
 彼らにとって最重要の課題は神学校の設立であったが、同時に重視されたのは「文明開化」とともに生じた英語熱に加え、布教をはかる手段としての学校設立である。在京の立教学院・明治学院・青山学院などのミッション系・学院系の学校がそれであり、やがて私立大学の主要な淵源のひとつになっていく。(p.160-161)


なるほど。東京以外の地方でも同じような動向はありそうだ。



ほぼ同時期に進展し始めた、同志社や立教などミッション系私学のカレッジ化の動きは、アメリカ・モデルを支持する一定の基盤が作られつつあったことを示唆している。官立中心の、国家による「上から」のシステム構築に対置される、「私立」中心の、民による「下から」の自生的なシステムの形成という、異なる選択肢の併存した時代が、短期間ではあるが存在したことを忘れてはならない。
 ドイツをモデルとした、国家の大学としての帝国大学の出現は、その点でも計り知れない大きな力を、わが国の私立高等教育の発展に及ぼすものであった(p.162-163)


日本の高等教育機関黎明期のドイツ・ヨーロッパモデルとアメリカモデルの対比は(本書では随所で登場するが)興味深い。



 ただしこの「規則」は一度も実施されぬまま東京大学は帝国大学になり、明治20年公布の「学位令」によって、学位の種類は博士と大博士の二つと定められた。このうち大博士は、実際には授与されたことがなかったから、以後、第二次大戦後の学制改革により修士学位の制度が設けられるまで、学位といえば博士号をさすことになった。学士は学位ではなくなり、大学卒業者に与えられる称号に過ぎないという時代が、ごく最近まで、一世紀余り続いたのである。学士が、正規の学位として認められるようになったのは、1991年になってのことである。(p.193)


修士の学位が大戦後に設けられたこと、学士が1991年という比較的最近まで学位ではない単なる称号だった時代が続いていたというのは意外に感じられた。



 私立専門学校のほとんどが東京に、しかも帝国大学の所在する本郷と霞ヶ関の官庁街とのほぼ中間に位置する、神田界隈に集中していたひとつの理由はそこに、つまり非常勤講師たちが出講可能な時間距離のなかにあったためといってよい。例外的に専任の教員を持った慶応義塾が三田、東京専門学校が早稲田と、都心を離れた場所にキャンパスをもtことが可能であったのも、京都の同志社が出発点で躓いたのも、そうした教育人材の供給源としての帝国大学や諸官庁との距離と、無関係ではないだろう。(p.226-227)


なるほど。説得力がある。もう少し後の時代になるが京都の立命館が京都帝大があったからできたというエピソードも付け加えてよいだろう。



「学問の府」としてのドイツの大学を範としたといいながら、帝国大学は、そこでは蔑視されていた「パンのための学問」を志向する、その若者たちを入学させ、この時期最も高い社会的地位を与えられていた、官僚の世界へと送り出す役割を果たしていた。立身出世のための大学――それがこの時代の、そしてその後も長く続く社会に支配的な、帝国大学観に他ならなかった。(p.236)


このあたりの構造も基本的には現在まで続いているといってよいだろう。



やがて帝国大学との関係で発揮されることになる高等商業学校の「野党」的な性格は、そうした「官立」にして「民」のための学校という、その制度上の特異な位置づけと無関係ではないだろう。(p.258-259)


一橋はなかなか独自の位置を占めている。



 いずれにせよ札幌農学校は農学という、官僚や学校教員以外には就職先に乏しい専門分野としての特性に加えて、北海道という立地の悪さも手伝って、明治30年代初めになっても卒業者数は年間わずかに10名前後、第一回の卒業生を出した明治13年から32年までの20年間の総数250名という、きわめて非効率な学校経営を続けていた。度重なる存廃の危機は、そのことと無縁ではなかったといってよい。(p.260-261)


ここまで卒業者が少なかったとは驚いた。存廃問題が何度も持ち上がる理由になっていたことは納得。



 第二に、法学系私学でも行政官僚になった卒業生が多いが、高等官は文官・武官あわせても139人(7%)に過ぎず、ほとんどが判任官、つまり普通官僚であったことが知られる。行政官は官学、司法官は私学という住み分けと同時に、高等文官は官学、普通文官は私学という階層的な構造が作られていたことがうかがわれる。(p.340)


これは明治30年までの話だが、このあたりも基本的には現代まで引き継がれているのではないか。



『半世紀の早稲田』によれば(125ページ)、当時同校の幹事だった高田早苗は、卒業生の送別会で「第一、成るべく官吏にならないやうにしろ」、「第二、成るべく地方に行け」、「第三、立身を急ぐな」と演説したという。……(中略)……。
 中央での立身出世を強く志向する官学出身者に対して、私学出身者の役割は地方に、民間にあるというのが、のちに早稲田大学総長になる高田の餞の言葉だったのである。(p.342)


早稲田というと文学や政治というイメージだが、地方というのもキーワードになるようだ。現在どうなっているかはわからないが。



日清戦争後の経済の活況に促されて、初等・中等教育の就学・卒業者数が急速に増加し、高等教育への進学希望者も激増して進学・受験競争が激しさを増しているにもかかわらず、政府は厳しい財政事情を理由に、官立セクターの規模拡大に消極的な政策を採り続けた。そして、それは私立専門学校への進学者数を増やし、たくまざる形でその経営基盤の強化を助け、さらなる発展を可能にし、私学対策をいっそう重要な政策課題へと押し上げる役割を果たしたのである。(p.349-350)


なるほど。官立の規模拡大ができなかったことが、私立の経営を助けたというのも面白い。



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