アヴェスターにはこう書いている?
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「現代思想 2014vol.42-17 1月臨時増刊号 総特集 ピケティ『21世紀の資本』を読む――格差と貧困の新理論」(その3)
諸富徹 「ピケティの「グローバル富裕税」論」

 興味深いのは、グローバル富裕税が、それ自体として資産を再分配するための強力な政策手段になりうるだけでなく、資産保有の実態を民主的な形で精査することを可能にし、銀行制度と国際的な資本移動を有効に規制するための基礎的インフラとしても活用できるからこそ重要なのだ、と彼が強調している点である。……(中略)……。
 ……(中略)……。ピケティの指摘が鋭いのは、グローバル富裕税の実施のために必要となる、国境を超える課税インフラの構築が、すなわち国境を超える資金の流れを掴むためのインフラ構築を促すことにもつながっていくことを指摘している点にある。(p.116-117)


累進的資産課税は単に再分配のための手段ではなく、グローバルな資産状況の把握を前提とするものであり、そのような把握可能性の確保は、資産の相対的に民主的なコントロールを可能にする手段として利用すべき、ということか。



ピケティは、彼の同僚との共同研究で、先進国の経営幹部に関する報酬に関する情報を含むデータを利用して実証分析を行った結果、近年における経営層報酬の急速な上昇は、経営層が潜在的にもたらしうる生産性向上とはほとんど関係がないことを見出した。その結果、報酬の変化はその才能に対する報酬というよりは、むしろ「運」とより多く結びついていることが示唆されるとしている。そしてこの結論は、経営層に対する高い報酬は、彼らの卓越したパフォーマンスに対する報酬だという見方が、深刻な欠陥を孕んでいることを意味すると結論づけている。
 以上のことは、経営層の高額報酬に対して課税しても、経済パフォーマンスになんら影響しない、つまり経済成長率を低下させる弊害をもたらすことなく税収を調達し、なおかつ格差是正を実行できるメリットがあることを意味している。具体的な提案として彼は、アメリカならば年収50万ドル(約5900万円)、もしくは年収100万ドル(1億1800万円)以上の所得階層の所得に対して、80パーセントの最高限界税率を適用することが考えられると述べている。(p.120-121)


経営者たちの超高額報酬が1980年代頃からの(19世紀から20世紀末までと異なる)新たな傾向であり、これはその経営者の能力や成果であるとして正当化する議論がある。日本では90年代頃からこの手の議論の声が次第に大きくなってきたように思うが、90年代や00年代ではその正当化の主張に対する批判的な議論も散見されるようになっていた。その意味では、ピケティの議論は特に目新しいものではないが、超高額報酬がもたらすであろう将来的な富の分配(超高額報酬→超高額相続→超富裕層の富裕化とそれ以外の貧困化)と、それに伴う権力の分配(超富裕層の政治的影響力の増大とその他の人々の政治的影響力の低下)、さらには超格差社会が実現してしまうことの政治的不安定性までも見据えた上で、成果主義的な正当化が受け入れられてしまうことに危機感を表明しているところには独自性がある。



中山智香子 「悲観的クズネッツ主義者の挑戦」

「トリクルダウン」は理論や仮説として、しばしばまことしやかに語られるが、調べてみるとどうも出典も論拠もない単なる説得の技法である。にもかかわらず、あるいはだからこそ、反証されることなく語られ続け、人びとの間になんとなく浸透している。論拠がないと声高に叫んでも、もともとそうしたものなので、逆に有効に響かないままである。(p.132-133)


トリクルダウン論の性質の悪さを的確に指摘している。

「アベノミクス」などとして語られる現在の政府の経済政策を擁護する際に竹中平蔵が半年ほど前だったと思うがテレビの番組で、「分配をするにしてもまずは国全体のパイが大きくならなければできない(だから、分配を考えるのではなく経済成長を優先すべきだ)」といった主張をしていた。トリクルダウンという言葉を出さなくても、こういった類の主張は、トリクルダウン論の発想と同じであり、同様に根拠がないものであることを認識しておくことが肝要である。

そもそも、ゼロ成長だったとしても、富裕層から貧困層への再分配は可能であり(ピケティが主張するようにこれは経済に悪影響を及ぼすものでもない)、超高額報酬は成果への見返りなどではなく、むしろ偶然の産物という側面が多くあり、さらに相続した財産によって富裕層となるかどうかということもほとんど偶然の産物であることを考えると、そうした偶然によって富者と貧者が分けられるくらいであれば、偶然に恩恵を受けられる者の恩恵を恵まれない側に移したとしても何の問題もないはずである。金と権力を持つ人間がそれを望まないということだけが、その障害である。



堀茂樹 「メリトクラシー再考 ピケティ『21世紀の資本』を読んで」

エマニュエル・トッドに倣ってトマ・ピケティを正真正銘の歴史家と見なし、『21世紀の資本』をアナール学派の系譜に連なる傑作と評価することに躊躇は要らないだろう。(p.140)


確かに、長期の歴史を人口動態などを踏まえながら論じていく前半の議論などは、アナール派的である。



ずばり資本主義とは、金持ちに生まれた者が金持ちで死ぬ確率が、金持ちに生まれなかった者が金持ちで死ぬ確率よりも圧倒的に高いシステムだということである。つまり、資本主義の市場は実はメリトクラシーから相当に乖離した世界で、デモクラシーの力が主意主義的に市場に介入しない限り、金持ちがますます金持ちになり、貧乏人がますます貧乏になるシステムだということにほかならない。(p.141)


これは筆者(堀)の見解だが、概ね妥当である。ただ、ピケティは格差拡大(金持ちがますます金持ちになるプロセス)における相続の重要性を強調しており、上の記述だけではこの点についての認識がやや欠けることになる。



 人間はつねに、与えられるものと、自ら選びとるもの・創り出すものの狭間で生きている。与えられるものは資産だけではない。まず生物学的な与件があるし、歴史社会学的な与件もある。資産も物質的なものとは限らない。いわゆる文化資本も一種の資産ではないか。そして、優劣いちじるしい個人の才能・能力・資質もまた、自然の賜物である以上、与えられるものの範疇に入るはずだ。能力主義という意味の英語起源の「メリトクラシー」は、個人主義の装いにもかかわらず、実は与えられるもの、したがって自由でも平等でもないものの方に依拠してしまっている。これは再考を要するものではないか。さもないと、民主主義的な正義に叶うかに見えるメリトクラシーが、デモクラシーと支え合うどころか、デモクラシーを蝕むものになってしまいかねない。(p.148-149)


妥当。


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