アヴェスターにはこう書いている?
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「現代思想 2014vol.42-17 1月臨時増刊号 総特集 ピケティ『21世紀の資本』を読む――格差と貧困の新理論」(その1)
トマ・ピケティ、ニック・ピアス、マーティン・オニール 「資本、労働、成長そして不平等」

 サマーズが正しい点は、そしてこれが彼の言いたかったことだと思うんですが、最近、米国、イギリス、そしてユーロ圏など、あらゆるところで、私たちは独創的な金融政策に多くを要求しすぎているという点です。結局のところ、公債や一部の短期、中期貸付の金利を低くしているわけですが、これは不動産や株式市場の一部など、他の資産でのバブルを引き起こしています。ですから、公債がゼロ金利になっているのと同時に、他の資産では莫大な収益があがっているのです。実際、これは収益率の大きな不均一性をさらに増幅しているといえるでしょう。(p.26)


なるほど。金融緩和への的を射た批判。r>gという式のr(資本収益率)は、様々な資産からの収益を平均したようなものだが、政府や中央銀行が金融緩和という政策をとることによって、公債の収益率が下がり、他の資産での収益率を上げることになり、資産家たちに収益を上げさせる結果になるというわけだ。なお、この政策への批判としては、社会全体にはリスクを負わせている点にも注目しておきたい。



さらに、富への累進課税は金融の透明性――資産と企業会計の透明性――の増大を伴います。これは非常に重要です。……(中略)……。

 ですから私は、課税とは課税以上のものだと思うのです。それは法的なカテゴリーを生み出す方法、財務の透明性と民主的な説明責任とを生み出す方法なのです。(p.28)


この点についての認識は、本書からの収穫の一つだった。富への課税は、資産と企業会計の計算を伴うため、それらの公的な資料の整備を伴うものであり、これは富の蓄積や分配についての民主的な説明責任を可能にするものであり、そのことを通して、富の蓄積や分配についての民主的な統制を可能にする道を開き得るものであるという認識。



エミリー・エイキン 「キャピタル・マン」

 r>g時代の注目すべき例外は、1945年から1970年までの時期、資本主義のいわゆる黄金時代である。「大幅な圧縮」とも呼ばれるこの時代には、西欧やアメリカの経済は拡大し、不平等は縮小した。ピケティが示唆したように、この時期に「自由市場がすべての人に恩恵をもたらす」という近代経済学の楽観的な信条が生まれたのは偶然ではない。この呪文(マントラ)は幻想に基づいていると彼は主張する。歴史を長い目で見れば、黄金時代が逸脱――陰鬱なr>gルールの一時的な例外――であったことは明らかである。(p.37-38)


経済思想史的な指摘として重要。



彼はこう書いている。「あまりにも長い間、経済学者たちは彼らが科学的と考える方法で自分たちの立場を定義しようとしてきた。この方法は、数学的モデルの節操のない利用に訴えているが、実際のところ、それが学問分野を占領していることや内容の欠如を誤魔化していることに対する言い訳以上のものであった験しはほとんどない。人々が説明しようとしている経済的事実や解決しようとしている社会的・政治的問題を解き明かすことなく、あまりにも多くの労力を純粋に理論的な思弁に無駄に費やしてきたし、未だに費やしている」。(p.38)


ピケティによる経済学への批判だが、まったく同意見である。経済学は、数学(統計や確率に関するものを除く)を多用すればするほど信用するに値しない。



「数学的モデルにはこうした不毛さがあります。数学的モデルは現実に基づいているのではなく、人々の行動がそうであるべきだと誰かが考えたことに基づいているのです。経済学は大問題に取り組むことに対する興味を失ってしまいました。私たちはちっぽけな問題にかかずらっています。その極端な例は、大相撲の力士の行動や、麻薬の売人はなぜ母親と同居するのかを論じた『ヤバい経済学(フリーエコノミクス)』でしょう。スペインでは失業率が25%にも達しているというのに、あなた方は相撲の話をしているんですよ!」(p.39-40)


ピケティの本への賛同者ブランコ・ミラノヴィッチの言葉。

数学的モデルの問題点を鋭く指摘している。上で私も数式を多用する経済学は信用できないと述べたが、それもこの点に関連している。現実に基づくのではなく、誰かがこうあるべきと考えたことに基づいている――そのように意図していなくても、いつの間にか数式の通りになるべきものだと受け取られていく――ものでありながら、そのようなものであることを隠蔽しながら――少なくともそのことを明示的に前面に出して述べることなく――経済学者(例えばネオリベ的政策を推進した竹中平蔵やリフレ派の金融緩和を推進している岩田規久男などを想起)は、その理論を政策に反映させようと運動するところに最大の問題がある。



ピケティがはっきり述べているように、『21世紀の資本』は、経済学という学問がどうあるべきかについての彼の考えを表したものである。それは、マクロ(成長)問題とミクロ(所得分配)問題を結びつけ、膨大な実証データに依拠し、社会学、歴史、文学への言及によって彩られ、数学に対しては禁欲的である。(p.40)


妥当な論評。私もここで指摘されているような経済学こそ、あるべき経済学のあり方ではないかと思う。特に実証データの重視と数学への禁欲的な対応は重要だろう。どちらも恣意的な予断の入る余地を小さくするものである。(データにはデータ化しやすいものだけが扱われるという別の偏りがあるが、現在の数学的な理論重視の経済学よりはマシであり、また、当面の間はこの偏りの方が、理論による恣意的な理想の設定よりも害が少ないと考える。)

また、成長というマクロの問題と分配というミクロの問題を結びつけるというのは、ピケティの大きな業績ではないかとも思う。



クズネッツ本人は、「クズネッツ曲線」の評価について、ほとんどの信奉者よりもずっと慎重だった。ピケティは彼の信奉者たちがクズネッツ曲線に熱中したのは冷戦の地政学のせいだったとしている。「ソビエトモデルと資本主義モデルの競争が非常に激しかったころには、西側の人々は市場経済が不平等を縮小することができる、所得分配と富のバランスをとることができると今よりもずっと信じたがりました」と彼は言う。(p.42)


1945-1970年は、所得格差の縮小が見られた時期だったという事実に加えて、この事実を解釈する際に、冷戦の地政学的な影響が加わっていたという指摘。鋭い指摘と思う。



最近、ピケティの議論は、国際通貨基金というほとんど過激さとは無縁の機関が二月に発表した、かなり話題になった研究から間接的に影響を受けてさらに勢いをました。所得不平等に関する多国間分析を行ったこの研究は、「再分配のための典型的な取り組み」――課税と控除――「は概して成長に悪影響を及ぼすということの証拠はほとんどない」だけでなく、不平等の縮小は一般的に成長を加速させるということを発見した。(p.44-45)


現在の日本のように需要不足型の経済ではなおさら不平等の縮小が成長を促進するだろう。

不平等化が一時的に進んだとしてもまずは全体のパイを成長させることが必要だ、などと不平等の是正に消極的な論者はしばしば主張するが、彼らの議論が論理的にも実証的にもきちんと説得力のあるものとして示されたことは一度もない。むしろ、ピケティの『21世紀の資本』では、こうして増やされた全体のパイのほとんどが富裕層の懐に入り、それが相続財産となってさらに所得格差を拡大させることがデータで示されている。



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