アヴェスターにはこう書いている?
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ダン・アリエリー 『ずる 嘘とごまかしの行動経済学』(その2)

定職に就いていない人たちの少なくとも一部は、病的虚言癖のせいで仕事に就けないのだろうと考えたわけだ(一時雇用者が全員そうだというわけではもちろんない)。
 研究チームは108人の求職者に、一連の心理テストをやってもらった。また本人のほか、同僚や家族と一対一の面接をおこなって、病的虚言症を明らかにする、話の大きな食い違いがみられないかどうかを調べた。結果、このグループには、自分の仕事や学校教育、犯罪歴、家庭環境などについて語った話に、広範にわたって食い違いが見られる人が12人いた。彼らは詐病を繰り返していた人たちでもあった。詐病というのは、疾病手当などの利益を得るために病気を装う行為のことだ。
 続いて研究チームは、12人の病的虚言者と、病的虚言者ではない21人の求職者(対照群)に脳スキャンを行なって、脳の構造を調べた。……(中略)……。その結果、病的虚言者は対照群に比べて、灰白質の量が14%少ないことがわかった。これは心理的疾患をもつ人たちの多くに見られる特徴だ。……(中略)……。ヤンらは病的虚言者の前頭前皮質内の白質が、対照群に比べて26%から22%多いことも発見した。病的虚言者は白質が多いので(もう一度言うが、白質は灰白質をつなぐ配線だ)、いろいろな記憶や考えを、より多くの方法でつなげることができる。この接続性の高さと、灰白質に蓄えられたさまざまな連想への自由なアクセスが、彼らを生まれながらの嘘つきにしている秘密の要素なのかもしれない。
 この研究成果をふつうの人たちにあてはめると、脳の接続性が高い人ほど、嘘をつきながら、自分を立派な人間だと考えやすくなると言えるかもしれない。というのも、脳の接続性が高い人ほど、疑わしい行動を解釈、説明するための手段をたくさんもっているからだ。そしてたぶんこれが、自分の不正行為を正当化するのに欠かせない要素の一つなのではないだろうか。(p.201-203)


創造性と結びつくような接続性の高さが、不正を助長するという説は非常に興味深い。

また、定職に就けない人の中に、ある程度の割合の病的虚言者がいるという見立てや実験によって9人に1人もの割合でそれが見られたという点も、個人的には興味を惹かれたところである。生活保護受給者(高齢世帯や障害世帯を除くいわゆる稼働年齢層)などにもこの傾向は明らかに見られると思われるからである。なお、これが器質的なものと連動しているという理解も対策を考える際に、重要性を持っていると思われる。



 不正が社会的感染をとおして人から人へと伝わるという考えは、不正を減らすにはいまとは違う手法が必要だということを示唆している。わたしたちはささいな違反行為を、文字どおりささいで無害なものと考えがちだ。しかし微罪は、それ自体はとるに足りなくても、一人の個人や大勢の人、また集団のなかに積み重なるうちに、もっと大きな不正をしても大丈夫だというシグナルを発するようになる。この観点から言うと、個々の逸脱行為がおよぼす影響が、一つの不正行為という枠を超え得ることを認識する必要がある。……(中略)……。
 割れ窓理論は立証や反証が難しいが、その考え方には一理ある。この理論は、小さな犯罪を容認、看過、容赦すべきでないと諭している。そうすることで事態がさらに悪化するからだ。(p.254-256)


不正の感染という発想は非常に重要と思う。

なお、割れ窓理論は、以前このブログでもマルコム・グラッドウェルの『急に売れ始めるにはワケがある』で紹介しており、個人的には非常にインスパイアされるところの多かった理論なのだが、その後、実証されていないということを聞いてがっかりしたことがある。しかし、著者が言うように、この考え方自体は傾聴に値するものがあることは間違いないと思っている。(本書の実験とも齟齬がない。)



 一般には、集団で仕事をすることは、結果に好ましい影響をおよぼし、意思決定の全体的な質を高めると考えられている(実際には、協働が意思決定の質を低めることを、多くの研究は示しているのだが、これについては、また別の機会に説明するとしよう)。(p.258-259)


確かに、少人数のグループワークなどで、非常に独創的なアイディアを提示したり、普通の人では見つけられないような問題を提起した場合、グループの人がその(優れた)意見に共感したり、理解を示すことができないということは、ありそうに思われる。俗論は共感を得やすいが、独創的な意見は必ずしもそうではない。そういう観点から見ると、集団での意思決定は必ずしも意思決定の質を高めるとは言えないし、むしろ低めることが多いように思う。

著者のこの問題に対する知見はぜひ知りたいと思う。

ただ、この問題は民主主義の理念と抵触しうる問題性も孕んでおり、どの程度に人数の協働で言えることなのか?また、どのような種類の意思決定で言えることなのか?といったことはある程度注意深く確定していかないといけないところはあると思う。少人数の集団で言えることが数千万人規模の集団でも言えるという保証はないからである。

むしろ、先に指摘した「俗論は共感を得やすいが、独創的な意見は必ずしもそうではない」という見方は、独創的な意見が必ずしも善いものとは限らず、非常に悪い内容の意見でもあり得るとすれば、権力と暴力との関係を考慮に入れると、最適解を選ぶことができるかどうかよりも、最悪の解を避けることができるかどうかの方が重要になってくることを考えると、民主主義はやはり独裁や専制などよりは政治的な理念としては優れている(ましである)とは言えそうである。



ふたを開けてみれば、利他主義はたしかにごまかしをする強力な動機づけになることがわかった。ごまかしが純粋に利他的な理由から行われるとき、つまりごまかしをする人自身が、その行為から何も利益を得ない場合、水増しの度合いはさらに高まったのだ。
 なぜそうなるのだろう?思うに、自分の不正によって自分と他人が利益を得るときには、利己と利他の入り交じった動機から不正をすることになる。これに対して、利益を得るのが他人だけだと、自分の問題行動を純粋に利他的なものとして正当化しやすくなり、結果的に自分の道徳的束縛をいっそう緩めてしまうのだ。(p.276)


利他主義が不正の動機になるとは、普通に思われていることとは違うところが非常に面白い。不正と自己正当化とが深くかかわっていることを理解すれば、このあたりはよくわかるように思う。

ただ、「つじつま合わせ係数」の仮説は、本書の範囲内では、正直者という自己イメージと不正によって利益を得ることの葛藤が自己正当化によって架橋されると説明されている。その意味で、利他的な動機が不正の強力な動機づけになるという事実は仮説の定式化を若干変更する必要を迫っている可能性もある。

とは言え、利他的な動機から不正を行うことで、少なくとも、本書で示されている実験の範囲では、利益を与えた相手には自分が実験で課されるテストの成績が良かったと思わせることができるという点では、不正をする者にも利益がないわけではない、とは言える。金銭的利益だけでなく、名誉のような精神的な利益も含めた利益が追求されうるという理解によって定式化は維持可能であるように思われる。

なお、上記の部分に関連する注も興味深い指摘がなされているので、次に引用しておく。

 これらの結果を見る限り、政党や非営利団体といったイデオロギー的な組織ではたらく人たちは、大義のため、また人助けのためにやっているという意識から、道徳上のルールを曲げることに違和感を覚えにくいのではないかと思われる。(p.277)





 また重要なこととして、好ましくないものごとの終わりを定め、新しいスタートを設ける方法は、社会全体という、より大きな規模でも効果がある。南アフリカの真実和解委員会が、この種のプロセスの好例だ。この法廷に似た委員会のねらいは、それまで圧倒的多数の国民を何十年にもわたって抑圧していたアパルトヘイト政府から、新しいスタートへの、そして民主主義への移行を促すことにあった。好ましくない行動を阻止し、しばし時間をおいて、再出発を促すほかの手段と同様、委員会の目的は報復ではなく、和解にあった。委員会がアパルトヘイト時代のすべての記憶や名残を消し去ったとか、アパルトヘイトほど深い傷跡が忘れ去られるとか、完全に癒えるなどと言う人は、もちろんいないだろう。それでもこの委員会は、問題行動を認め、許しを請うことが、正しい方向に向かう大切な一歩になるという、重要な例であるのは間違いない。(p.301)


「どうにでもなれ」効果に対処するために、道徳的規範をリセットするための方法が有効である。

現在、「戦後70年の安倍談話」がどのようなものになるか、ということがニュースで注目されているが、第二次大戦時の侵略と植民地支配、そして戦地でのいわゆる「従軍慰安婦」の問題などにも、ここで示されたような考え方で臨むことは有効である。しかし、安倍晋三やその周辺の政治家と財界人の考え方はネトウヨ的なものであり、歴史修正主義(これを「自虐史観」に対する「自慰史観」と私は呼んでいる)に立って、過去の自国政府が行った過ちを自己正当化しようとするものであり、まさに本書で示されている不正が行われる仕組みそのものである。すなわち、正しい行いをする者という自己イメージを持ちたいという欲求と不正(事実と異なる嘘を撒き散らすこと)によって精神的利益を得たいという欲求とがあり、それを歴史修正主義(自慰史観)というイデオロギーによって正当化できると考えているため、不正を働いてしまっている、ということである。


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