アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

ダン・アリエリー 『不合理だからうまくいく 行動経済学で「人を動かす」』

仕事から意味を奪うのは、驚くほど簡単なことなのだ。あなたが管理職で、なんとしても部下のやる気をなくしたいのなら、部下が見ている目の前で、かれらの労作を粉砕すればいい。もうちょっとさりげなくやるなら、部下を無視したり、がんばっている様子に気づかないふりをするだけでいい。逆に、同僚や部下のやる気を高めたいなら、かれらに気を配り、がんばりや骨折りの成果に関心を払うことだ。(p.111)


仕事の動機付けには、本人が仕事に意味を与えることができるかどうかが重要であり、そのためには周囲からの承認が大きな役割を果たしている。あまりにも当たり前の話ではあるが、標準的な経済学の「合理的経済人」モデルでは、こうしたことが完全に無視されている。労働経済学でも、こうした意味づけについて適切に理論化できているモデルは少なくとも私は見たことがない。その意味では、当たり前のことが経済学の世界ではまったく理解されていない(現実を全く捉えそこねている)というのが基本的な趨勢である。行動経済学はそうした面に対する批判としての意味を持っている。



こと労働に関して言えば、人間のモチベーションは複雑で、「金のために働く」といった、短絡的な関係に集約することはできないということだ。仕事の意味が労働におよぼす影響や、労働から意味を奪うことの影響が、わたしたちがふつう思っているよりも、ずっと強力だということを、理解しなくてはいけない。(p.112)


「給料が高いからやる気が出る」などという類の認識が基本的に誤っているということは、経営学の方面(高橋伸夫などの議論)や心理学の方面ではすでに指摘されてきたし、マイケル・サンデルなどもこうした点について考察をしていたものであるが、行動経済学の実験でもそれが示されている、ということ。



つまりPETスキャンによれば、他人を罰するという決定は、喜びの感情と関わっているように思われた。(p.179-180)


PETスキャンとは、ポジトロン断層法という方法で脳をスキャンする方法。この感覚は、個人的にはよくわかる気がする。悪(ある人が悪と認定したもの)を裁くことにはある種の爽快感というか、充実感が伴うように思われる。



 しかし、報復には、恨みを晴らすという以上の意味がある。じっさい報復と信頼は、表裏一体なのだ。信頼ゲームでわかったように、人はたいていの場合、進んでお互いを信頼しあう。だれだか知らず、二度と会うこともない相手に対してもそうだ(つまり、合理的な経済学の観点からすると、わたしたちは人がよすぎるということになる)。それに、信頼をもとにした社会的契約が踏みにじられたとき、わたしたちがとても憤慨するのは、信頼が人間の基本的な要素をなしているからこそだ。だからこういう状況では、時間やお金をつぎこみ、ときに肉体的な危険を冒してまで、無礼な相手に報復しようとする。信頼関係で成り立っている社会は、信頼なき世界に比べて、はかりしれないほどの利点がある。だからこそわたしたちは、社会で高い信頼関係を維持しようとする本能をもっているのだ。(p.181-182)


報復は信頼と表裏一体というのは、少なくとも私にとっては感覚的に非常に説得力がある。

ここ30年ほどの間の日本社会の動向を見ると、信頼関係で成り立っている社会から、信頼なき社会へと変わりつつあり、政府が率先してそのような信頼を破壊するような政策を打っている、ということは指摘しておきたい。



きっと、いやなことは中断せず一気にやった方が苦痛が少ないし、楽しいことは何度かに分けてやった方が、楽しめるはずだ。何かをしている最中に中断すれば、順応が妨げられる。ならば、いやなことを中断すればもっといやになるが、楽しいことは中断した方がもっと楽しくなるのではないかと考えたのだ。
 ……(中略)……。いらだたしい体験や退屈な体験は、中断した方がつらくないように思われるが、じつは中断のせいで、順応能力が低下してしまうから、もう一度その体験に戻ったとき、前にも増していやな気分になるのだ。家を掃除したり、確定申告の準備をしたりするときのコツは、腰を落ち着けて一気に片づけてしまうことだ。(p.252-254)


人間には、楽しいことをしていても続けていると順応によって次第にその楽しみは薄れてしまい、苦痛なことでも次第にその苦痛に慣れてしまうという性質がある。ここから、楽しいことや好きなことは中断しながらやり、苦しいことや嫌いなことは一気にやってしまうことで、より快適に生活することができる、ということが導かれる。この点は、私にとっては本書で一番面白かったところの一つである。



でももうわかっていると思うが、わたしたちが新しいものにあっという間に順応してしまうことを考えれば、少しずつものを買い足していく方が、じつは満足度が高いのだ。買い物をセーブして、次の買い物まで時間をおく。こうして順応プロセスのペースをゆるめれば、自分のお金の「満足購買力」を、めいっぱい引き出すことができる。
 ここでのコツは、楽しみのペースを落とすことだ。……(中略)……。
 順応を自分に役立てるもう一つの方法は、消費の上限を決めておくことだ。……(中略)……。トムに言わせると、一本50ドルもする高級ワインに手を出せば、その等級のワインに慣れてしまって、安いワインを楽しめなくなる。……(中略)……。そもそも50ドル以上もする高級ワインを飲んだことがなければ、自分の好きな価格帯のワインの質のちがいに、いちばん敏感でいられるから、満足度が高まるはずだ。……(中略)……。

 同じ理屈から、順応を活用して全体的な満足度を高めるために、いつも触れる身近なものよりも、もっと一時的ではかない商品やサービスにお金をかけるのも一つの手だ。たとえば一般的に言って、ステレオや家具はしょっちゅう触れるものだから、すぐ慣れてしまう。それにひきかえ、つかの間の体験(四日間の小旅行、スキューバダイビングのツアー、コンサートなど)は、すぐ終わってしまうから、そう簡単に順応できない。(p.262-265)


順応を考慮した満足度の高め方は、非常に興味深い。

消費のペースを落とすことは、無駄な買い物を防ぐことにも繋がるため、私自身もよく使う戦略である。

引用文での二つ目の消費の上限を決めておくことについては、多少の異論もある。というのは、高級なワインの満足感を知っているか知らないかということによって、知っている世界の広さが変わる場合があるからだ。

すなわち、ワインのような嗜好品であれば、それほど大した意味はないかもしれないが、例えば、本について、1,000円以下の文庫や新書しか買わないという選択をしている場合、数千円の学術書でなければ得られないような知的好奇心の充足を知らずに過ごすことになってしまう。そうして得た知見を持って文庫や新書を読む方が、さらにより深く物事を認識できるようになり、様々なことに対して味わいが深くなる、ということがあり得るからである。

第三の一時的なサービスへの出費というのは、よく「モノ」を買うことと「コト(体験)」を買うことの対比が語られるが、後者の方が満足度に寄与する度合いが高いことを意味していると思われる。私自身は前者より後者に重きを置く考え方をしてきたので、その妥当性をさらに強化する事実が示されたことになる。



 もしわたしたちが完璧な存在なら、自分が浅はかなふるまいを決定したときの感情を、いつまでも忘れずにいるだろう。だが現実には、自分が以前どんな気分でいたかなんて、すぐ忘れてしまう(こないだの水曜の午後3時30分にどんな気分だったか、覚えているだろうか?)それなのに、自分のとった行動のことだけは、覚えている。そんなわけで、同じ決定を(たとえもとは感情まかせの決定だったとしても)、何度も下し続けるのだ。要するに、いったん感情にまかせて行動することを選び、行きあたりばったりの決定を下すと、そのせいで長い間にわたって決定に影響がおよぶ場合があるということだ。(p.367)


感情自体はすぐに消えてしまうし、その感情のことなどはすぐに忘れてしまうが、行為は感情よりも遥かに記憶に残りやすく、このことから次に自分が起こす行動に基準を与える形で影響を与え続けることがある。この考え方は、オートポイエティックなシステムを想起させる。(コンティンジェントな)次の自分の行為が選択される際には、過去に自らが起こした行為が参照されているあたりがそうである。システムの構造形成の議論と筋道が非常に近いように思う。



何かの感情にとらわれている間は何もしなければ、短期的、長期的に害がおよぶことはない。ところが、感情にまかせて決定を下すと、その直接の結果に苦しめられるだけでなく、そのことで長期的な決定のパターンができあがってしまい、長い間にわたって、誤った方向に導かれるおそれがある。……(中略)……。

 感情の連鎖がもたらす危険の、いちばにわかりやすい例が、夫婦関係ではないだろうか(もちろん一般的な教訓は、どんな関係にもあてはまる)。夫婦が、お金や子ども、夕飯の献立といった、さまざまな問題に対処するために話し合う(どなり合う)とき、じつは目の前の問題について話し合っているだけではない。こういうことをとおして、「行動のレパートリー」を生み出し、このレパートリーが、その後長い間にわたって、二人の関わり方を方向づけるのだ。感情は――どれほど無関係なものでも――こういった話し合いの中に、いやおうなく忍びこみ、コミュニケーションのパターンを変えてしまうことがある。その感情にとらわれている、短い間だけでなく、長期にわたってだ。そして、もうわかるだろう。こういうパターンは、いったんできあがると、なかなか変えられないのだ。
 ……(中略)……。それなら、こんなふうに関係が悪化していくのを防ぐ方法はないのだろうか?わたしの簡単なアドバイスは、こういう悪循環が起こりにくい相手を選ぶことだ。でもどうやって?……(中略)……。
 要するに、こういうことだ。だれかと長い関係を誓う前に、二人がはっきりした社会的なきまりごとがないような環境に置かれたときどうなるかを、まず調べてみよう(たとえばカップルは結婚する前に、結婚式の計画を一緒に立てて、それでもお互いを好きでいられたら、そのままゴールインすればいいのではないだろうか)。それに、行動パターンが悪化していないか、つねに気を配ることも大切だ。初期の危険信号に気づいたら、まずい関わり方のパターンができあがってしまう前に、すばやく行動を起こして、望ましくない方向に行かないように軌道修正することだ。(p.383-387)


夫婦関係という例での説明は、なるほどと思わされる。

悪循環が起こりにくい相手を選ぶためには、明確なルールがない環境に置いてみる、というのは理に適っている。明確なルールがある環境では、とるべき行動パターンも規制されており、定型化されているため、問題は起こりにくい。明確なルールがない場合でも、不要な衝突をせずに協力関係を築いて行けるなら、その後も協力的な関係を構築していける可能性は高いと見てよいだろう。

「成田離婚」などという言葉が示す事柄も、海外旅行という非日常的な環境で、適切な関係を築けないことが明らかとなったために生じる現象だと言える。また、入籍する前に同居してみる(いわゆる同棲)、という方法もあり得るが、その決定自体がそれなりに重く、一度同居してしまうと、容易に別居できなくなる(住居を確保するなど多大な手間がかかる)というリスクや、懐胎により離別が妨げられるというリスクも高まる点で、ある程度の試行錯誤をした後の最後のステップとしてであればありなのかもしれない。(この場合、まず、入居するときの引越やそのための計画で協力関係が築けるかどうかは非常に重要なチェックポイントとなる。この段階で協力関係が築けないとすれば、長期間の同居はしない方が無難ということになるだろう。)

この引用文で指摘されている事柄は、仕事などの場合、ある程度のルールがあるので、そのまま適用できないところがあるかも知れないが、プライベートの関係については、応用範囲が広いように思われる。


スポンサーサイト

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://zarathustra.blog55.fc2.com/tb.php/1007-8f8fa288
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)