アヴェスターにはこう書いている?
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ニクラス・ルーマン 『社会システム理論』(その2)

要素の自己準拠によって意味されているのは、要素が「自己同一性」と「自己相違性」の組み合わせをとおして要素それ自体を要素の内部で規定する能力のことなのである。要素の内部規定と外部規定が関連していることが明確に把握されなければ要素の自己準拠は解明されえない。要素の自己準拠がこのように捉えられると、ウェーバーが行為の「主観的に思念された意味」を取り上げたさいに、かれが念頭においたと考えられることがらを適切に再構成することが可能になる。(p.542)


ルーマンのシステム理論とウェーバーの行為理論との関係は確かに気になるところであり、今後、理解を深めたいと思う問題。

この点について、本書の訳者が解説で触れており、参考になるので引用しておく。

満員の電車の中で一人の紳士がある婦人に席をゆずろうとしたばあい、紳士は、自分が席を立てば相手がその席に座るだろうと見込み、そのことを前提として自分の行為に意味を付与している。しかし、そうした意味規定では紳士の行為の意味が尽くされてはいない。なぜなら、たとえば、婦人がその席に座らずにハンドバックをおくという事態などが考えられうるからである。そうしてみると、みずからの行為に対する他者の意味規定というものをもあわせて考えないと、みずからの行為に接続する他者の行為は予期できないのは明らかであろう。みずからでみずからの行為に託した意味、つまり、意味の内部的規定だけでは、相互作用状況における行為の意味のすべてが尽くされえないのであり、その行為に対する他者の意味規定ということをあわせて考慮に入れなければならない。……(中略)……。ルーマンは、ウェーバーが行為の「主観的に思念された意味」を取り上げたさいに、行為の意味に関する内部的規定にとどまり、外部的規定との連動の問題を捉えそこねているとみている(本書下巻542頁)。この点をやや大げさに言えば、ルーマンの社会システム理論は、理解社会学の展開と言っても差し支えないし、あるいはそれをふまえた歴史社会学を具体化している(例えば『情熱としての愛』(1982年)をみよ)とさえ言えるだろう。(p.968-969)





そればかりか、「オートポイエシス」もまた、有機体システムから社会システムに転用されるさいに、意味が変容している。つまり、オートポイエシスは、社会システムのばあいには、生命の連続をではなく、行為の接続能力を保証しているのである。(p.681)


マトゥラーナやヴァレラからルーマンはオートポイエーシスの概念を継承しているが、部分的に更新もしている。



道徳も、とりわけ、法も、コンフリクトを促進するように作用している。というのも、道徳や法によって、みずからの立場が正当な側にあり、相手の側が公的な拒絶にさらされたり、それどころか裁判をとおしてサンクションを相手側に突きつけたりすることができることが保証されるからである。科学による立証もまた、コンフリクトを鼓舞したり、それを支援したりすることがあるだろう。(p.715)


なるほど。一般的に漠然と思っている意見とは異なる見方であり、興味深い。二分法コードによって、正と不正、真と偽を分けるものであるということとこれは関わっていると思われる。



それと同時に、運動の目標は運動がうまくいかないことのアリバイとして、つまり運動が中断しえないことの証拠として、要するに運動それ自体のオートポイエシスのシンボルとして役立っている運動の目標を一つの目標に固定化してしまうと、運動を展開しても目標が達成できず、運動がラディカル化する傾向が生み出される。ラディカリズムは、運動の成立条件ではなく運動の維持条件なのである。(p.731-732)


なるほど。最初の文は、「永久革命論」を想起させる。

また、固定化された目標を掲げることによって、目標が達成できないことが明らかになり、ラディカル化するという指摘は、イスラーム主義の運動(アメリカのキリスト教原理主義やインドにおけるヒンドゥー・ナショナリズムも同じ)がラディカル化しやすい理由を説明してくれる。宗教的なイデオロギーを掲げる場合、そこに目標がすでに示されてしまっており、それを動かすことが難しいため、過激化へと導かれるというわけだ。



 自己準拠的システムの概念は、主体概念より使いやすいわけではないが、しかし主体概念よりも、間違った使用がされにくい。とりわけ自己準拠的システム概念は、一つの主体(あるいは少なくともなんらかの種類の諸主体)へのいかなる中心化も前提しないので、この概念は、今日の諸科学の非中心的な世界像によりよく適合している。(p.801)


非中心的な世界像と自己準拠的システムの概念の適合関係というのは、なるほどという感じがする。学問領域のなかでも特に非中心的な考え方が優勢である社会学の分野で自己準拠的システムの理論が大きなものとして登場したのも偶然ではないだろう。



出来事を要素として用いている十分に時間化されたシステムでは、そのシステムの要素の水準において、いかなる因果的循環性もありえない。この要素の水準での因果的循環性に、決定的に重要な意義を認める諸理論、たとえばサイバネティクス・コントロールの理論は、こうした要素が時間的には「ごくささいな存在であること」を見逃しているのである。それぞれの出来事は、それが生成するや否やただちに消滅している。したがって、出来事は、もう次の瞬間にはいかなる作用をおこなうこともできない。因果的反作用というものは、それによってはじめて出来事がふたたび生起することのできる、かなりの高度の秩序の形式(または出来事と出来事との連関の形)を前提としている。出来事は、そうしたシステムでは、時間の不可逆性という性質を呈している。可逆性を達成するためには、構造が形成されなければならない。(p.819-820)


第一文が、「いかなる因果的関係も」ではなく、「いかなる因果的循環性も」となっているあたりには、周到に言葉を選んでいることが感じられる。

因果的な作用は時間化された(瞬時に消え去る)出来事の間でも生じるが、ある出来事が原因となって次の出来事が生じても、それが次に影響を与えようとするときには、すでに原因となって出来事は消滅しているため、次々と出来事が連鎖するとしても、因果的な循環が生じているわけではない。

ある程度安定的な構造が形成される場合には、ある要素群から別の要素群への因果的反作用がありうるということか。サイバネティクスや動的平衡系のようなシステムの説明が成り立つのはこの水準での話。



 政治という機能システムには、経済システムのばあいと精確な同形はみられないが、明確な機能的等価物が存している。なぜ機能的な同形がみられないのかといえば、権力というコミュニケーション・メディアは、貨幣のばあいと同一の精確さで使用しえないし、貨幣に比肩しうるだけの高度な統合力を保持していないからである。権力の行使は、まさにその事実によってすでに政治的現象であるというわけではない。そうであるがゆえに、政治という機能システムにおいては、このシステムの統一体がなんらかの自己描写をとおしてさらに補強されることによって、このシステムという統一体が、自己準拠的な情報処理のための準拠点として役立つことになる。こうした機能を果たしているのが、国家概念にほかならない。(p.843)


「国家」概念の曖昧さと不正確さゆえに、この「自己描写」は機能を果たしうるのだろう。



つまり、政治システムと政治システムの自己描写が区別されることにより、国家概念や政治概念についての不毛な概念論議から脱して、現実の国家や政治が取り上げられることになり、国家というものは、政治システムの自己描写にほかならないと述べることができることになる。(p.844)


妥当。



教育を専門的に扱っているメディアはない。なぜなら、教育は、成果のあるコミュニケーションをめざすにとどまらず、人格の変革をその課題としているからである。この点において、学習のはたらきは、典型的には学習することそれ自体を鍛えそれを向上させているがゆえに、あの循環的な自己準拠が成立している。(p.845)


経済の場合は貨幣があり、政治の場合は権力というメディアがあったが、教育にはそれらに該当するものがないというのは興味深い。オートポイエーシスは、単純な二分法コードでシステムと環境を区別するが、教育においては、それに相当するものもないのではないか?

ただ、それでも学習のはたらきにおいては自己準拠が成立しているというのも面白い。学習がうまくいっている時は、さらに興味が引きだされるという形や学習の方法を習得していくことで学習能力を高めるといった形で、学習が強化されていくように思われる。



「法治国家」ということが意味しているのは、この観点から考察すれば、権力所持者がみずからの権力を法律上有効な決定の遂行のためにだけ投入してよいが、その権力それ自体の維持や更新のためには投入してならない、ということなのである。(p.917)


この注を読んで真っ先に想起されたのが、現在の安倍政権であった。安倍政権による統治は「法治国家」ではない。安倍晋三が主に権力を用いるのは、自らの権力を維持・更新するためであり、NHKの乗っ取りや(自分の思惑と相容れない考えを提示する)各種マスメディアへの恫喝と個別対応(それぞれのメディアに個別にインタビューなどに応じていく手法や各種の情報リーク)による「情報=利益」供与によるマスメディア操作に、それは典型的に現れている。

もちろん、現実の政治では権力者は常に自らの権力をその権力の維持や更新のためにも使う。しかし、それは本来禁止されていることを理解し、法治国家の理念の枠内に留まれる程度の逸脱しかしないのが普通である。安倍政権はそうではない。法の恣意的な解釈(集団的自衛権に関する憲法解釈の一方的な変更)を平然と行うような姿勢にも、そうしたことが反映している。法よりも権力者個人の意思が優先されるのであれば、それは「人治国家」であり、私は日本の政治体制や社会が、中国の政治体制や社会(例えば、あの国ではマスメディアも報道機関ではなく党の宣伝機関に過ぎない)にどんどん近づいていると感じる。



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