アヴェスターにはこう書いている?
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ニクラス・ルーマン 『社会システム理論』(その1)

 さらに、複合的システムが分析の対象とされるようになると、選択Selektion)の概念が変わってくる。いまや選択は、なんらかの主体が引き起こすものとしてはもはや捉えられないのであり、つまり行為とのアナロジーにおいて捉えることはできない。選択は、主体を欠いた出来事なのであり、なんらかの差異の構築をとおして作動しているシステムのオペレーションにほかならない。(p.49)


ルーマンの社会システム理論には様々な概念が登場するが、「選択」の意味も、日常用語とは異なっており、本書を読む際にはこれらの概念を一つひとつ的確に捉えておく必要がある。

この場合の「選択」は、進化論の自然淘汰ないし自然選択と呼ばれる場合の選択の概念と近いものとして説明されうるのであり、そうしたイメージでとらえておけばそう誤った理解にはならないだろうと思われる。

この「選択」という概念は、別様でもあり得た中からある特定の状態へと進んだということ、に関する記述に使われると思われるが、私としてはあまりこの概念にこだわって説明することには意味を見いだせないところがある。(今のところの私の理解では、)この「選択」には偶然性の要素が常に付きまとっていることさえ理解されていれば、それ以上のことは本質的ではないように思われるからである。



 複合性の時間化は、すでに述べたとおり、システムの諸要素の時間化をとおして成立している。短い時間しか持続しえない不安定な諸要素から、しかもそのうえ、たとえば行為のばあいのように、そもそもそれ自体の持続時間がなく、生成するや否や再び消え去る諸要素から、そのシステムが形成されている。時間の順序の点で、いうまでもなくそれぞれの要素は一定の時点を必要としている。しかし、その要素がそれ以上に分解されえない統一体として取り扱われる時間の長さは、そのシステム自体によって規定されており、言い換えれば、その要素の時間の長さは、システムによって要素に付与されており、それ自体として存立しうる性格のものではない。そのことに相応して、不安定な諸要素から十分に安定しているシステムが成り立っている。言い換えれば、そうした十分に安定したシステムは、その諸要素に依拠するのではなく、そのシステムそれ自体によって支えられている。つまり、かかるシステムは、システムにとってはまったく「現存して」いない基盤の上で編成されており、まさしくこの意味でオートポイエーシス的なシステムなのである。(p.75)


ルーマンは「時間化」という分かりにくい概念を持ち出して説明を長々と続けるので、正直分かりにくいのだが、「時間化」の概念の重要なポイントは、(私の理解では)「出来事」が常に生成消滅して持続しない(持続時間がきわめて短い)ものであるということであって、それ以上に長々と説明する必要がよくわからないところがある。



出来事としての性格を有する要素の再生産をオペレーションOperation)と名づけることにしたい。(p.77)


オペレーションの概念はオートポイエーシスの理解にとっては、極めて重要なのだが、人に説明しようとするとなかなか難しかったりする部分だったりするので、分かりやすい説明の一例としてメモしておく。



社会的なものを特別のリアリティとして構成している基礎的過程は、コミュニケーション過程にほかならない。しかしながら、このコミュニケーション過程は、その過程自体を進展させうるためには、諸行為へと縮減され、諸行為に分解されなければならない。そんなわけで、人間の有機体的-心理的-体質に基づいて行為が生み出されており、しかも社会的なものとのかかわりなしにそれだけで行為が成り立つことのできるという見解で考えられているような、そうした行為から社会システムが作り上げられているのではない。社会システムは諸行為に分解されるのだが、そうした行為への縮減によって、社会システムは、コミュニケーションの次の過程への接続基盤を獲得しているのである。(p.217)


コミュニケーションはルーマンの社会システム理論では情報、伝達、理解の統一体として捉えられており、このコミュニケーションが連鎖することによって社会システムが形成されることになる。コミュニケーションはそれ自体では行為ではないため、これらの関係がいかなるものであるのか、ということは問題の一つとなる。そのことに本書でも一つの章を割いているのだが、最も簡潔に要約されている箇所の一つと思われたので抜粋してみた。

情報が伝達され、受け手によって理解されると、何らかの行為としてそれが表現されることで、理解した内容に基づく情報が他者に伝達され、理解されるという繋がりが生まれる、ということが想定されているように思われる。



逆に、ある種のテーマは多くの関与者にとってあまりにも新しくなじめないがゆえに、およそ有意義な寄与に駆り立てることができないかもしれない。(p.245)


たしかに、斬新すぎるテーマは人を動かすことができず、せっかくの卓見が生かされないということがある。



われわれは、こうした行為概念を提案することによって理論史的には、当然のことながら、行為の意図を理解することによって行為を説明しようとするマックス・ウェーバーのもくろみがはらんでいる問題点を払い除けようとしているのである。(p.428)


これは次のような行為概念の説明に関してつけられた注釈である。

行為が成立するのは、なんらかの根拠からか、なんらかのコンテキストにおいて、なんらかのゼマンティーク(「意図」「動機」「利害関心」)によって、選択がシステムに帰属されることによってなのである。この行為概念は、心理的なものを顧慮しえないがゆえに、行為についての十分な因果的説明をおこないえないことは明白である。(p.261)



選択がシステムの環境ではなく、システムに関係づけられているということは、コミュニケーション(情報・伝達・理解という3つの選択の統一体)の連鎖の中に、この選択が組み込まれているということか。情報をどのように切り出すか、伝達するためにどのように振る舞うかを決めるか、理解することに応じてどのように反応するか、というような選択として行われ、このことを媒介項としてコミュニケーションがさらに連鎖していく場合に、行為というものが構成される、ということか。

ウェーバーの行為理論では、行為者が抱く主観的な意図を観察者が理解することを通して、なぜその行為が行われたのかを説明することになるが、行為者が抱いた意図を観察者が同じように理解できるということは保証されないという難点がある。(ウェーバーは「平均的」という用語を使って、このあたりを何となく理解できるような気にさせるように論を進めてはいるが。)ルーマンはこのズレをはじめから考慮に入れてシステム(コミュニケーション概念)を考えており、そこに行為を位置づけなおしたものと思われる。

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