アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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ダン・アリエリー 『予想通りに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』(その1)

 無料!の何がこんなにも心をそそるのだろう。自分がほんとうに求めているものではなくても、無料!となると不合理にも飛びつきたくなるのはなぜなのか。
 わたしの考える答えはこうだ。たいていの商取引にはよい面と悪い面があるが、何かが無料!になると、わたしたちは悪い面を忘れさり、無料!であることに感動して、提供されているものを実際よりずっと価値あるものと思ってしまう。なぜだろう。それは、人間が失うことを本質的に恐れるからではないかと思う。無料!のほんとうの魅力は、恐れと結びついてる。無料!のものを選べば、目に見えて何かを失う心配はない(なにしろ無料なのだ)。ところが、無料でないものを選ぶと、まずい選択をしたかもしれないという危険性がどうしても残る。だから、どちらにするかと言われれば、無料のほうを選ぶ。(p.103-104)


本書の第3章では無料という価格の特別な力について説明されているが、人は何かを失うことを恐れるということが、その根本にあるという解釈は説得力がある。なるほどと思わされた。(明らかにこの恐れが強いと思われる人が、無料や割引などに弱いという事例を知っているので、その人のことが想起された。)

俗に「ただより高いものはない」と言われるが、それには深い理由があったのだなぁ、と改めて思った次第。



 決断をくだすとき罠に陥らないために、無料!の誘惑を見きわめて対抗するのは大事なことだが、無料!を味方にできる場合もある。たとえば、友人たちとレストランへ行くというありがちな事例を考えてみよう。食事の終わりに給仕係が請求書を置いていくと、みんなが清算のしかたを見さだめようと躍起になるのはよくあることだ。それぞれが自分で注文した分を支払う?割り勘にする?ジョンだけグラスワインとクレームブリュレを余計に頼んだのに?無料!は、この問題を解決するのにひと役買ってくれるうえ、ひいては友人との外食をもっと楽しいものにしてくれる。
 答えは意外にも、だれかひとりが全員の分を支払い、のちのち、そのほかの人たちもべつの機会に順繰りに払う、というものだ。説明しよう。わたしたちはお金を払うとき、金額に関係なく、なんらかの精神的な痛みを感じる。社会科学では「出費の痛み」と呼ばれ、苦労して手に入れた現金を、どんな状況であれ手放すときにつきものの不快さをいう。出費の痛みには興味深い特徴がふたつある。ひとつは火を見るよりあきらかなことで、何も支払わないとき(たとえば、だれかがおごってくれるとき)は、なんの出費の痛みもない。もうひとつの特徴はそれほどあきらかではないが、出費の痛みは支払う金額にわりあい鈍感なのだ。つまり、請求額が高いほど痛みも大きくなるが、一ドル加算されるごとに増える痛みの量は、小さくなっていく(これを「感応度の逓減性」という。空っぽのリュックに500グラム足せばずいぶん重くなったように感じるが、リュックにはじめからノートパソコンや本が何冊もはいっていれば、500グラム増えてもそれほど大きなちがいは感じられないのと同じだ)。出費の痛みに対する感応度の逓減とは、言ってみれば、最初に支払う一ドルからくる痛みがいちばん大きく、二ドルめの一ドルからくる痛みはそれより小さくなり、三ドルめ、四ドルめと痛みはもっと小さくなっていって、やがて47ドルめともなると、ちょっとずきんとする程度になる、ということだ。
 そのため、だれかと外食する場合、自分が何も支払わないとき(無料!)、もっとも幸福度が高い。何がしか支払わなければならないと、幸福度は低くなる。そして、しぶしぶ支払う金額が増えるにしたがって、追加の一ドルが与える痛みは小さくなっていく。論理にかなった結論は、だれかひとりが全額を支払うことだ。(p.116-117)


外国に行くとよくこういう誰かひとりが支払うという習慣がある場所がある。中国や台湾が即座に想起される。中国などに関しては、「メンツを重んじるから」このような――不合理な、という意味を若干含めている場合がある――慣習があるとよく言われる。しかし、そうしたメンツという問題だけでなく、こうすることで全員の満足度が相対的に高くなるということをその社会が経験的に知っているから、このような慣習が続けられているのではなかろうか?

大学などの体育会系の部活動などでも、先輩と後輩が一緒に食事やお酒を飲むとき、先輩が後輩に常におごってくれるという暗黙のルールがある場合がある。特定の人同士の関係で見ると、ある先輩はある後輩に一方的におごるだけだが、おごられた後輩はその後輩へと利益を返していくのであり、そのグループ全体として見た場合にはバランスがとれるということになる。このような慣習は、見かけよりもはるかに合理的だと言える。



人々がお金のためより信条のために熱心に働くことを示す例はたくさんある。たとえば、数年前、全米退職者協会は複数の弁護士に声をかけ、一時間あたり30ドル程度の低価格で、困窮している退職者の相談に乗ってくれないかと依頼した。弁護士たちは断った。しかし、その後、全米退職者協会のプログラム責任者はすばらしいアイデアを思いついた。困窮している退職者の相談に無報酬で乗ってくれないかと依頼したのだ。すると、圧倒的多数の弁護士が引きうけると答えた。
 どういうことだろう。0ドルのほうが30ドルより魅力的だなどということがありうるだろうか。実は、お金の話が出たとき、弁護士たちは市場規範を適用したため、市場での収入に比べてこの低次金額では足りないと考えた。ところが、お金の話抜きで頼まれると、社会規範を適用し、進んで自分の時間を割く気になった。30ドルもらってするボランティアと考えてもよかったはずなのに、なぜ30ドルでは承知しなかったのだろう。考えのなかにいったん市場規範がはいりこむと、社会規範が消えてしまうからだ。(p.126-127)


「市場規範」なるものは、自分自身の利益だけを考える傾向を帯びているが、「社会規範」は自分以外の利益を考える傾向を帯びているため、方向性が全く逆を向いている。昨今の世界や日本の動向としては、次第に社会規範の領域に市場規範が過剰に進入してきている。一度社会規範が失われると、それを取り戻すのは容易ではないとされる。今、われわれはそうしたものを失いつつある。この問題については、優れた研究者などはかなり気づいていて、発言もしているのだろうが、もっと広く認識されるべきだと思う。



 プレゼントが社会規範と市場規範のあいだのどのあたりに落ちつくのか調べるため、わたしとジェームズは新しい実験をすることにした。今回は、コンピューター画面で円をドラッグしてもらってお金を払うかわりに、プレゼントをわたした。50セントの報酬をスニッカーズのチョコバー(約50セント相当)に、5ドルの報酬をゴディバのチョコレートひと箱(約5ドル相当)に差しかえた。
 実験協力者には、実験室に来てプレゼントを受けとったあと、思うように作業してもらった。その結果、三つの実験グループは、いずれも同じだけ熱心に課題に取りくんだことがわかった。小さいスニッカーズをもらったか(このグループがドラッグした円は平均162個)、ゴディバのチョコレートをもらったか(同じく平均169個)、何ももらわなかったか(同じく平均168個)は無関係だった。そこで結論。ちょっとしたプレゼントで気分を害する人はいない。たとえたいしたものでなくても、それによって社会的交流の世界にとどまることができ、市場規範に近づかなくてすむからだ。(p.128-129)


プレゼントは、社会規範と市場規範では、社会規範の側に入る。少なくとも市場規範には近づかずにすむもの。この知見は社会生活を営んでいく上で非常に有用と思う。活用していきたい。ただ、プレゼントといっても、商品券や金額がある程度分かるようなカタログギフトのようなものだと、それは(特に前者は)市場規範の範囲に入ってしまうだろう。あまりお金をかけずに手間暇を少しかけるようなものというのが一番良いのかもしれない。



 これまでの感触では、共通試験や能力給によって教育が社会規範から市場規範へ押しやられてしまう可能性が高いように思う。すでにアメリカは、生徒ひとりにつき、どの西洋社会より多くのお金を注ぎこんでいる。ここへきて金額をさらに増やすのは賢明だろうか。試験についても同じような検討が必要だ。すでに頻繁に試験をおこなっているのだから、これ以上増やしても教育の質が向上する見込みは少ない。
 わたしは、社会規範の領域に答えがあるのではないかと考えている。これまでの実験から学んだように、現金ではある程度のことしかできない。社会規範こそ長い目で見たときにちがいを生む力だ。教師や親や子どもの関心を試験の点数や給料や競争に向けさせるかわりに、教育の目的や任務や誇りの感覚を吹きこむほうがいいかもしれない。……(中略)……。向学心はお金では買えない。無理に買おうとすれば追い散らしてしまうかもしれない。
 ……(中略)……。
 結局のところ、人をやる気にさせる方法としては、お金に頼るのがたいていもっとも高くつく。社会規範は安あがりなだけでなく、より効果的な場合が多い。(p.144-146)


同意見である。



もちろん、全員が全員そうではないかもしれないが、多くの人にとって職場はたんなる収入源ではなく、意欲や自己定義の源でもあるのだと思う。
 このような感情は、職場と従業員の双方のためになる。こうした感情を喚起できる雇い主は、勤務時間が終わったあとも仕事がらみの問題を解決しようと考えるような、献身的でやる気のある従業員を得られる。また、仕事に誇りを持っている従業員は、幸福感や目的意識を抱いている。しかし、市場規範によって社会規範がむしばまれることがあるのと同じように、人々が職場で感じる誇りや意義も市場規範によって(たとえば、学校の先生に生徒の標準テストの成績に応じて支給するなどして)じわじわと損なわれる恐れがある。(p.152-153)


能力給や成果主義を広めることは、社会を市場規範で満たす方向に変えてしまい、これは社会規範や仕事のやりがいを奪うという帰結を伴う、自滅へと導く道である。



需要の理論はたしかなものである――ただし、値段ゼロを扱うときを除いて。やりとりに金銭が絡まないとなると、かならず社会規範がついてくる。社会規範は人々に他者の幸福を思いださせ、その結果、利用できる資源に負担をかけすぎない程度まで消費を抑えさせる。ひとことで言えば、値段がゼロで社会規範が問題になっているとき、人々は世界を共同体のものとしてとらえる。以上をひっくるめた重要な教訓?値段をもちださないことが社会規範をもたらし、社会規範があることでわたしたちは他者のことをもっと気にかけるようになる。(p.170-171)


無料には様々な力があるようだが、ここで述べられているような社会規範と結びつく側面は重要と思われる。



 キャップ・アンド・トレードがまちがいだというわけではないが、公共政策や環境問題が問われているいま、わたしたちの務めは、社会規範と市場規範のどちらがもっとも望ましい結果を生むか解明することだと思う。とくに政策立案者は、社会規範を弱体化させるおそれのある市場規範をいたずらに導入すべきではない。(p.176)


妥当。



非常に感情的になりやすい目的――ウェディングドレスを手に入れること――に身も心も集中しているとき、ほかの人の幸福を考慮するのはむずかしい。(p.177)


これは国家主義イデオロギーに囚われている者やイスラーム過激派などを含む極端な思想に囚われている者にも共通していると思われる。彼らは自分自身の信念やそれを強く共有する範囲の人々以外に対しては幸福を考慮しない。



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