アヴェスターにはこう書いている?
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深見奈緒子 『イスラーム建築の世界史』(その3)

 王の広場(図5-6)の南辺を占める王のモスクは、ティムール朝のビービー・ハーヌム・モスク(図4-5)を継承しながら、いくつかの改良を見せる。まず、入口から前室に入ると、突然軸線が135度振れる(図5-7)。キブラ方向と広場の方向の調整の工夫が、ダイナミックな空間演出と化す。加えて、聳える対のミナレットが、入口前と主礼拝室前に置かれ、設置面の角度がずれているため空間に躍動感を与える。主礼拝室は二重殻ドームを冠し、外殻ドームは風船のように空へ浮かび上がり、内殻ドームはびっしりとアラベスク文様で埋め尽くされる(図5-8)。外殻ドームのボリュームはティムール朝建築にはみられない膨らみだ。モスクの中庭からその奥両隅に挿入されたマドラサの中庭への連続性が、中庭空間をより広く感じさせる。
 すなわち、人間が歩みを進めることによる視点の変化に対応する建築となっている。(p.178-179)


この王のモスクはペルシア様式の集大成とも言える建築だが、イスラーム建築全体としても最高傑作の一つと言って間違いないと思う。このダイナミズムは確かに実際に行って体感した感覚と一致する。



 1750年を超えると、イスラーム建築が西洋建築をもっぱら取り入れると従来は説かれてきた。しかし、タイルや後述するドームという個別要素を見ると、ヨーロッパとイスラームの影響関係が17世紀に活性化し、イスラーム建築での蓄積を基礎にしヨーロッパの発展が顕著となっていったようにみえる。(p.199)


なるほど。建築史では未だにヨーロッパ(西洋)中心主義的な歴史観がまかり通っている感がある(少なくとも一般向けの書籍等では)ことを考えると、こうした指摘は重要である。



 さらに地中海世界の西、ヨーロッパではドームが中心的課題となり、新たな形を生んだ。ミケランジェロのサンピエトロ寺院のドームをはじめ、ルネサンス建築はドームに大きく傾倒した。ルネサンスは古典への回帰を目指したものではあるが、ギリシア建築に大ドームはない。ローマ建築でも円形平面に大ドームを載せたパンテオンは現存したが、浴場などのドームはすでに崩壊していた。ルネサンスのドームの直接の手本となったのは、オスマン朝のドームをはじめとするイスラーム建築において展開したドームだったのだろう。この時代、地中海世界を越えて、ペルシア世界からも二重殻ドームという技法を学び、続くバロック時代には楕円ドームなど世界に類のない新種を生む(図5-61)。この推進力を見れば、建築においても、西洋とイスラームの、活力における優位が交代する予兆を読み取れよう。(p.201-202)


なるほど。非常に興味深い仮説である。確かにいわゆる古典古代(ギリシア・ローマ)の遺構にはドームが(ほとんど)ない。オスマン朝などの影響を受けていることは十分考えられる。資料として何か根拠となるものはあるのだろうか?



 従来の囲郭都市ではなく、近代的な庭園都市の道を選び、しかも歴史的蓄積のある旧市街を共存させ、市民は両者を受容するという状況が創出されたのだ。イスファハーンは、バロック都市、近代のガーデン・シティー、現代の旧市街の保存を先取りする存在であったといえよう。(p.211)


確かに、イスファハーンの都市計画は独特なものがあり、それ以前のイスラームの都市とは構成が異なるとは思っていたが、言われてみれば、ここで言われているようなものとなっているように思われる。



 手法を意味するマニエリスム、歪んだ真珠を意味するバロック、庭園の岩組みに由来するロココとは、19世紀に生まれた呼称で、それぞれ、正統的な古典主義からの変容・離脱を意味する。変容の様態として、ドームに多様な幾何学性がみられること、さらに劇的な広場の演出や幾何学庭園への傾倒などが語られる。実は、これらは本章で詳述したイスラームの建築で培われた技法や様式と同様な傾向を示している。シナン設計の一連の大ドームモスク、庭園都市イスファハーンの王の広場とチャハール・バーグ大通り、ムガル朝皇帝たちの墓建築などを考えると、イスラーム建築からの影響によってこれらの変容が引き起こされたと考えてもよいのではないだろうか。(p.218-219)


なるほど。マニエリスム、バロック、ロココのいずれも同じ方向性で正統的古典主義からの変容・離脱を示しているというのは、確かにその通り。3大帝国のイスラーム建築と共通の傾向というのもなるほどと思わされる。ただ、影響関係については、何か根拠を提示してもらえるとよいのだが。



 19世紀になると、フランスやドイツによる古代ペルシアの遺跡の考古学研究が進み、20世紀パフラヴィ―朝の時代になると、サーサーン朝のイーワーンをモチーフとしたテヘラーンの国立博物館や(図6-20)、キュロス大王の墓をモチーフとしたフェルドーシー廟などが建設され、考古学の成果がナショナル・アイデンティティー構築に用いられた。(p.246)


テヘランの国立博物館とフェルドゥシー廟のいずれも行ったことがあるが、なるほどと思わされる。

特に国立博物館の巨大なイーワーンの圧倒的な迫力は、「国家」の威容を示そうとする意図が非常によく表現されていたと思う。フェルドゥシーもナショナル・アイデンティティーと結びつけられていえるとは聞いていたが、その廟がキュロス王の墓をモチーフとしていたとは知らなかった。また行ってみたいものだ。



 カイロのリファーイー・モスクは、先に述べたエジプト総督イスマーイール・パシャの母の発願によって、14世紀のマムルーク朝のスルタン・ハサン・モスクに向かい合う形で建設が始まる(図6-25)。総督の死による工事中断の後、スルタン・ハサン・モスクに比肩するマムルーク様式で完成されるが、それを成し遂げたのはハンガリー人建築家であった。彼は西洋で紹介されたマムルーク朝様式の研究に基づいて細部にまでこの様式を貫徹させた。20世紀のエジプトにおけるモスク建築にマムルーク様式が選ばれたのである。(p.249)


リファーイー・モスクとスルタン・ハサン・モスク(マドラサ複合体)が相並んで聳え立つ様は、イスラーム都市の中では稀な高層都市カイロの様相を象徴するかのようであるが、これをハンガリー人建築家が建てたとは知らなかった。ハンガリー人の手によるマムルーク朝様式の選択には、この時代のナショナル・アイデンティティの高まりとそれがイスラーム世界より先に高まりつつあったヨーロッパとの関係が表れているように思われ興味深い。


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