アヴェスターにはこう書いている?
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深見奈緒子 『イスラーム建築の世界史』(その2)

 マムルーク朝のエジプトの場合は、15世紀に土着の地方色が盛り返してきたのに対し、オスマン朝の場合は、ビザンティン建築からの影響、とりわけコンスタンティノープル攻略後に名建築ハギア・ソフィアをモスクに改修した経験によって、15世紀以降ペルシア様式から次第に脱却していく。(p.141)


15世紀頃のペルシア、エジプト、アナトリアにおけるイスラーム建築の様式の変化をペルシア様式を基準として図式化すると、ペルシアではペルシア様式が深化して完成へと向かい、エジプトではペルシア様式から土着的伝統へと回帰し、アナトリアではビザンティン建築の伝統を選択することでペルシア様式から脱却する、と図式化できる。

このあたりの整理は、私自身、エジプト(カイロ)、ペルシアから中央アジア(特にイスファハーン、シーラーズ、サマルカンド、ブハラなど)、そしてイスタンブールで、イスラーム建築に注目して旅をしたことがあるため、非常に説得力を感じ、実際に見聞したものが統一的に把握され直すという経験をひき起こしてくれた。



 インド全体として留意せねばならないのは、各地における墓建築の発展である。基本となるのは第二章のサーマーン廟(図2-25)のようなキャノピー墓ではあるが、インド特有の形態が生まれてくる。数本の柱の上にドームを載せる形態、あるいは墓室を周廊で取り囲む周廊墓である(図4-33)。12柱式プランや一回り大きい28柱プランにドームを載せた墓の周囲に多重の周廊を設けるようになる。特にデリーでは、岩のドーム以降類例の少ない八角形周廊墓が、14世紀末から次の時代のムガル朝に至るまで引き継がれた(図4-34)。ヒンドゥー教における祠堂の周囲を回る儀式、あるいは開放的な列柱建築である前殿(マンダパ)がこうした墓建築に影響を与えているのかもしれない。(p.148)


確かにデリーでこうした墓建築を多数みた(特にデリー南部は墓建築の宝庫であった)。



 なぜ、これほど各地でムカルナスが好まれたのだろう。一説に、イスラームの原子論的宇宙論、すなわち宇宙は微細な原子から成り立つという説を、建築的に表現したものであるとする。ムカルナスの醸し出す陶酔的雰囲気は、ファナー(神との合一)に至る空間演出として神秘主義の興隆とも深く関係したといわれる。
 また、この時代を特色付ける地方文化の再生・再興の流れにも関係があるかもしれない。地方色を前面に打ち出そうという意識の一方で、当該建築がイスラーム建築であるとの表象を何らかの形で残す必要性があり、その道具の一つがムカルナスであった可能性が考えられる。多くのミフラーブがムカルナスで飾られていることからも、これがイスラーム装飾において必ず使われるコーランの聖句を刻んだアラビア文字の碑銘、あるいは高度な幾何学文様や抽象的なアラベスク文様(様式化された植物文様)と比肩する重要な要素であったことが推察される。ムカルナスのもつ幾何学性、アーチ小曲面の使用、幻惑的な空間効果などが入り混じった特殊な造形が、イスラーム建築の共通言語としての効力を発揮したのではないだろうか。(p.153)


確かに「イスラーム建築」と言えばムカルナスが最初に思いつく要素の一つであるし、初めて見た時のインパクトの強さは強烈だった(恐らくそう感じる人は多いだろう)。

地方ごとに独自の特色を発揮していき、共通の様式がなくなっていく方向へ向かっているからこそ、むしろ、イスラーム建築というアイデンティティ――このような意識が当時の建築家や施主にあったかどうかにはやや私は懐疑的だが――を示す必要が高まり、そのための有力な要素の一つがムカルナスだった、というわけだ。なるほど。そうかもしれない。説得力を感じる。

「イスラーム建築の共通言語」という用語も興味深い。他にどんな要素があるだろうか?と、考えると面白い。



 ティムール朝期の代表的ドームとして、ドラムに内側ドームを入れ込み、その上に支持板を介して外側ドームを構築する極端な二重殻ドームを挙げることができる。しかし、それへの変容は、現存実例から見ると、14世紀後半のわずかな期間に集中する。それ以前の二重殻ドームは、スルターニーヤのオルジェイトゥ廟(図4-8)の例に見るように、重量軽減の目的をもっていた。内側ドームと外側ドームの極端な乖離は、14世紀半ばのイスファハーンのスルタン・バフト・アガー廟(図4-41)、コニヤ・ウルゲンチのトゥラベク・ハーヌム廟(図4-42)が現存最古であり、サマルカンドのシャーヒ・ズィンダにある1385年のシーリーン・ビカー・アガー廟が中間的な存在で、1390年代のトルキスタンのアフマド・ヤザヴィー廟(図4-9)やサマルカンドのグーリ・アミール廟(図4-43)では鶴首形ともいえるような二重殻ドームが完成する。しかしカイロには、すでに1360年代にティムール朝の二重殻ドームのほぼ完成形を見せる例がある(図4-44)。ただしカイロでは後続例がなく、高いドームの内側が井戸底のような単殻ドームとなる。
 これら一連の事象は二重殻ドーム技法史を表し、その後の事例からもペルシアに二重殻ドーム技法の中心があると考えられる。それでは、ティムール朝の二重殻ドームの起源はどこにあろうのだろう。そして、前述のいくつかの事例はどう結びつくのだろう。
 ペルシアの北、カザフスタンからウクライナ一帯は、14世紀にはジョチ・ウルスの領土であったが、今ではその遺構は残らない。一方、カイロのマムルークたちは、中央アジアやカフカス出身のトルコ系の人々であった。
 木造のロシア正教会の教会堂には、風変わりな玉葱形ドームが多い(図4-45)。玉葱形ドームの最初の例は明らかではないが、すでに10世紀からギリシア十次式教会堂の中央屋根には、高いドラムの上にドームが載り(図2-53)ロシア正教会としては12世紀の例が残る。小型ながらバリエーションの多いロシア正教の木造ドームが、ジョチ・ウルスの建築に影響を与え、木造と組積造の両方で二重殻ドームの技法が試されていたと考えられないだろうか。とすれば、14世紀後半に、ペルシアとカイロに極端な二重殻ドームが同時の存在するという事象は、すでにジョチ・ウルスで試された形態がもたらされたからと考えられる。(p.157-159)


本書には数々の興味深い仮説が提示されているが、その中でも私にとって最も興味深かったものの一つがこれであった。

特にマムルークたちの出身地を考慮に入れることで、エジプト(カイロ)と中央アジアが結びつくというあたりは、仮説ではあるにせよ、なるほどと思わされた。

なお、この仮説に興味を惹かれた理由としては、ロシアのドームとイスラームのドームの関係について、以前、疑問に思ったことがあったことも理由のひとつだろう。玉葱形のドームはロシアの他、インドにもあるが、これらはどういう関係にあるのか?この問いについても、本書にはヒントがある。ロシアは玉葱形ドームの古い歴史があり、インドにはドームを扱う文化が比較的最近までなかった、ということである。伝播があるとすればロシアからインドであり、その逆ではなさそうだ、ということになる。



 キリスト教建築との関連による技法の進化は、アーチ・ネットにも現れる。アーチ・ネット自体は、144頁で述べたようにマグリブの起源ながら、13世紀後半のターザのモスク以降、西方世界からは姿を消す。一方、12世紀前半にペルシアに導入された時、アーチ・ネットは天井に多く使われていたが、次第に、移行部に使う、二重にする、井桁状にする(図4-47)、などさまざまな事例を発展させ、ティムール朝期には、移行部の技法の主流としての位置を占める。その影響は、ティムール朝の領域を超え、オスマン朝のチニリ・キョシュク(図4-46)や先述したインドのバフマン朝(図4-13)へも波及する。
 こうした中で、先述したティムール朝の室内と外観が極端な乖離を見せる二重殻ドームが成立すると、次第に天井が低くなる。その一方で、井筒状のアーチ・ネットを用いることによって、室内が広くなる(図4-47)。この井桁状のアーチ・ネットは、14世紀のアルメニア教会の前室(ガヴィット)に使われている。アルメニア建築は、アナトリアのイスラーム建築からムカルナスを取り入れる半面(図3-44)、井桁状のアーチ・ネットを中央アジアのティムール朝建築に与えたのであろう。このように、今までは建築史を宗教別に考えることで相互関係に十分な考察が加えられてこなかった技法もあり、宗教を超えた観点に立つことによって、さまざまな交流が浮き彫りになる。(p.159-160)


こちらも大変興味深い。アーチ・ネットひとつとっても、使用される場所や技法が様々に変化していくことや、二重殻ドームの成立と井桁状アーチ・ネットを移行部で使用することとの相関も非常に面白い。



 ルネサンス時代のイタリアが求めたのは、ロマネスク、ゴシックという段階的な発展からの方向転換だったのではないだろうか。そのアイディアの源泉として古代回帰が試みられたと考えると、イスラーム建築がモンゴル帝国崩壊後、それぞれの地でペルシア風からの脱却のために地方回帰の道筋をとったことと、類似性が浮かびあがる。それぞれの地の建築において、自己アイデンティティーを主張し、それまでの流れとは一線を画する風潮が導かれたのではないだろうか。(p.165)


イタリアにおけるルネサンスの動きと、モンゴル帝国後の各地域との動きの共通性についての指摘。13世紀世界システムが瓦解したことによって、各地域がそれぞれの伝統を発見・再創造していったという流れ自体は概ねそのとおりであるように思われる。ただ、イタリアの人々がゴシックをどの程度意識した上でルネッサンス様式を採用したか、という段になると、著者が言うほどの影響があったかどうかは疑問に思う。



 日本建築史で、屋根と天井が大きく乖離し、いわゆる本堂建築を高く覆う甍のような高い屋根が鎌倉時代に構築される。禅宗様式では深い軒を支える斗栱が構造体ではなくなり、細かく密になっていく。イスラーム建築史では、モンゴル帝国以後ムカルナスが躯体から乖離することによって装飾性を増し、14世紀後半には極端な二重殻ドームが成立する。イギリスやドイツの後期ゴシックでは、本来構造を担ったリブが細密化し複雑な意匠を見せる。従来、構造と装飾は一体であったのに、この時代、構造から生み出された造形が構造から切り離され、装飾へと純化していく。なぜ、遠く離れたところでこうした共時的事象が生じたのだろう。(p.165)


本書では構造美の時代から装飾美の時代へと転換があったとする。なかなか興味深い見方ではある。ただ、装飾美の時代とされる時代に構造美が軽んじられたり脇役となったとまで言えるような変化があったかどうか、検証してみたいのだが、現時点での私の力量と時間的余裕からしてすぐにはできそうにない。もし、構造美の追求が続いているのであれば、装飾美へと転換したのではなく、それは付け加わったものということになり、意味が変わってくるように思われる。



 モンゴル帝国が瓦解し、15世紀になると、イスラーム建築においてはペルシア風の流行から脱し、地方文化へ回帰する現象が見えてくることを述べた。各地の建築文化が地方様式を加味した定形化の時代に入り、効率性を担保する量産化、複合建築による壮大性などが主眼となっていく。こうした現象はイスラーム建築に限らず、中国の明時代の宮殿や寺院建築、インドのヒンドゥー建築、西洋のキリスト教会堂にも共通するように思われる。比較建築史的研究が期待される時代であろう。(p.166-167)


確かに、明の故宮や仏教寺院は複合建築による壮大性があるように思われるし、建物の配置などにパターンがあり、これは定形化と見ることもできそうである。インドと西洋の事例については、あまりすぐに浮かばない。ルネサンス建築の合理性は、効率性に繋がりそうにも思われるが、どうなのだろう?

各地の地方回帰は、定型化や効率化・量産化、複合による壮大化といった現象も伴うという指摘は、なるほどと思わされるだけの合理性がある。ただ、これだけ世界中の建築で時代も15世紀ころと限ってしまうと、私の関心が比較的薄い時代であることもあり、なかなか具体的なものが次々とは出てこない。もっと勉強したい。


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