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アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド 『ファクトフルネス』(その2)

 急激な経済発展と社会的進歩を遂げた国のほとんどは、民主主義ではない。韓国は(産油国以外で)世界のどの国よりも急速にレベル1からレベル3に進歩したが、ずっと軍の独裁政治が続いていた。2012年から2016年のあいだに経済が急拡大した10ヵ国のうち、9ヵ国は民主主義のレベルがかなり低い国だ。
 民主主義でなければ経済は成長しないし国民の健康も向上しないという説は、現実とはかけ離れている。民主主義を目指すのは構わない。だが、ほかのさまざまな目標を達成するのに、民主主義が最もよい手段だとは言えない。(p.258)


この見解については、私も以前から同意見であった。ただ、経済の成長が社会の生活水準や公衆衛生の水準を上げるものであり重要だとしても、政治生活はより高度な精神生活の充実度と関係しているのではないか?という問いも提出しておきたい。

言論の自由も政治への参加の自由もない社会に住みたいとも思うだろうか?非民主的な体制の下にいる人々の経済が良くなっていること自体は良いことだと言えるだろう。しかし、それは非民主的な範囲内だからこそ改善していると言えるのであって、民主的な世界から非民主的な世界に移行したいと思う人がいないというのも、また事実だろう。この方向性をあまり軽視するのは問題があると言える。

さらに、非民主的な国々の所得が上がっていくことによって、国際政治的にもそれらの非民主的な国々が力を持つようになってくると、国際政治を国内政治と同じように力による支配で押し通そうとすることが増えることが懸念される(中国の南シナ海や東シナ海での行動が日本人にはわかりやすいだろう)。つまり、非民主的な国が経済発展を続けることは国際環境が悪化することに繋がるという懸念がある。よって、経済の発展だけでなく、政治的な民主化も同時に進めなければならない課題であり、片方が良くなっているのだからよくなっているというのは楽観論すぎるように思われる。



 わたしたちは犯人捜し本能のせいで、個人なり集団なりが実際より影響力があると勘違いしてしまう。誰かを責めたいという本能から、事実に基づいて本当の世界を見ることができなくなってしまう。誰かを責めることに気持ちが向くと、学びが止まる。一発食らわす相手が見つかったら、そのほかの理由を見つけようとしなくなるからだ。そうなると、問題解決から遠のいてしまったり、また同じ失敗をしでかしたりすることになる。誰かが悪いと責めることで、複雑な真実から目をそらし、正しいことに力を注げなくなってしまう。(p.264-265)


ネトウヨによる朝日バッシングなどは、この典型例だろう。



 犯人捜しには、その人の好みが表れる。人は自分の思い込みに合う悪者を探そうとする。では、世の中でいちばん悪者扱いされる人たちを見てみよう。悪どいビジネスマン、嘘つきジャーナリスト、そしてガイジンだ。(p.265-266)


これを押さえておくと、逆に3つの類型に当てはめられるような対象を叩いている人は、犯人捜し本能に囚われている疑いがあると見ることもできそうである。



 物事がうまく行かないときには、「犯人を捜すよりシステムを見直したほうがいい」と訴えてきた。では、物事がうまくいったときはどうだろう?そんなときには「社会基盤とテクノロジーという2種類のシステムのおかげだ」と思ったほうがいい。(p.278)


同意見。社会システム論的な見方が役立つ所以。



物事がうまくいったのは自分のおかげだと言う人がいたら、その人が何もしなくても、いずれ同じことになっていたかどうかを考えてみるといい。社会の仕組みを支える人たちの功績をもっと認めよう。(p.283)


妥当。



幅跳びの選手が自分で記録を測ることは許されない。それと同じで、現場で対策にあたる組織は、どのデータを公表するかを自分たちで決めてはいけない。現場の人たちは、資金欲しさにデータを捏造するかもしれないからだ。だから、データの信頼性を担保するには、進捗を測るのを現場だけに任せないほうがいい。
 エボラ危機がどれほど深刻かを教えてくれたのは、データだった。最初のデータでは、感染の疑いのある人の数が、3週間ごとに2倍になっていた。そして、エボラへの対策が効いていることを教えてくれたのもまた、データだった。確認された感染者数は減っていたのだ。データがすべての鍵だった。これからも、どこかで感染症が猛威をふるったときには、データが鍵になるはずだ。だからデータそのものの信頼性と、データを計測して発表する人たちの信頼性を守ることが、とても大切になる。わたしたちはデータを使って真実を語らなければならない。たとえ善意からだとしても、拙速に行動をよびかけてはいけない。(p.300)


数日前、安倍晋三が首相を辞することを発表したことにより、メディアでは安倍政権の功罪が語られる場面がある。私に言わせれば、功の部分はほぼない。アベノミクスなる経済政策があり、それが功を奏したなどと浅はかな見解が述べられることがある。しかし、異次元の金融緩和と日銀による事実上の国債の買い入れによって、株価が持ち直し、財政赤字を気にせず支出できるようになったということはあったかもしれない。が、株価の高止まりは年金の財源を回したことによる下支え効果なども大きく、それはほとんどすべての国民の老後の生活を後々になって破綻させる可能性を増大させるという破綻の先送りに過ぎない面があることや、財政についても財政破綻を先延ばしにしたものであり、これから10~20年ほどしてから問題が表面化してくるだろう、という類のものだと考えると、とても功があったと言える代物ではない。(GDPの統計にも操作が加えられたことも忘れるべきではない。)単に面倒を先送りして、自分の政権の間だけ一見良くなったかのように見せかけただけ、というものでしかない。

それに比べて罪は数えきれない。内閣による数々の憲法違反と明白な権力の私物化、さらに、それらの明白な罪を認めないで終わったこと。それを明らかにさせるためのマスメディアに対する威圧(安倍政権はこの威圧から始まっていたことを想起されたい。政権開始当初、かなりマスメディアに対して圧力をかける言動が多かったことを覚えている人は少ないと思うので、このことをもっとクローズアップすべきだ。)や質問に対する回答拒否の数々(回答しないということは権力の正当性がないことを意味する)。そして、内閣人事局の設置(それによる官僚とグルになって有権者たちの目を欺こうとする姿勢の定着)を忘れてはならないだろう。

こうした罪の中の一つに、政府とその公文書に対する信頼の決定的な失墜を上げるべきであり、コロナ対応にもそのダメさ加減が表れている。なお、辞任は病気を理由としているが、困難に対して対応する能力がなく、権力の座にいる旨みがなくなったので、自分がダメージを受けないうちに逃げた、というのが妥当な評価であろうし、それを否定するような要因は出て来ないのではないかとも考えている。



レベル1の国では、民主主義によって、国は安全になるどころか不安定になることは、『民主主義がアフリカ経済を殺す――最底辺の10億人の国で起きている事実』(2010年、甘粕智子訳、日経BP社)に詳しく描かれている。(p.359)


他国から干渉しやすい体制であることが、その要因のひとつではないか。この本も読んでみたい。


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ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド 『ファクトフルネス』(その1)

 高層ビルの上から見下ろすと、低い建物の高さの違いがわかりにくい。どれも同じくらい低く見える。同じようにレベル4の人々には、世界が金持ち(あなたがいる高層ビル)と貧乏人(低い建物)に分れているように見える。下界を見下ろして「みんな貧しいんだね」と言うのはたやすい。車を持っている人、バイクを持っている人、自転車を持っている人、サンダルを持っている人、履くものすらない人の違いがわからなくなる。
 しかし「下界」に住む人にとって、レベル1とレベル2、レベル2とレベル3の違いは非常に大きい。(p.58)


上から見ると下は見えにくい(見えにくいから同じに見える)ということについて、非常に直観的に理解できる比喩。参考になる。



統計を読み解く際には、「数値の差が10%程度かそれ以下である場合、その差を基になんらかの結論を出すことには慎重になるべき」と覚えておこう。(p.64)


これも分かりやすい指針。こういうところも、いかにもベストセラーらしい。



 世界のいまを理解するには、「悪い」と「良くなっている」が両立することを忘れないようにしよう。(p.90)


本書の大きなメッセージの一つは、多くの人の想定に反して「世界は少しずつ良くなっている」ということである。世界の中には経済的な貧困がまだ残っており、状態として「悪い」生活環境に置かれている人はまだ多い。しかし、そのことと世界の人々の生活水準は基本的に良くなっているということは両立できるし、現にそうなっている、というわけだ。



 レベル1にいる、毎日1ドルで生活する人にとって、その1ドルの価値は大きい。毎日1ドル余分に稼げれば、新しいバケツを買うことができる。そうすれば、まったく違う暮らしができる。しあkし、レベル4にいる、毎日64ドルで生活する人にとっては、1ドル余分に稼いだところで何も変わらない。しかし、毎日64ドル余分に稼ぐことができれば、庭にプールをつくったり、別荘を買ったりすることができるかもしれない。そうすれば、ひとつ上の暮らしができる。
 世界はとても不公平だが、どんな暮らしをしている人も、所得が倍になると暮らしが変わる。だから、所得が増えるにつれ、レベルアップに必要なおカネは何倍にもなる。(p.125)


所得が2倍になれば明らかにレベルが上がるというのは、言われてみれば、という感じがする。もともとの生活レベルに応じて、次のレベルに行くための所得水準も違っており、上に行くほどより多くの所得が必要になるという仕組みが直観的によくわかる。この分かりやすさは確かに本書の凄いところの一つであると思う。



 わたしたちの先祖の命を救ってくれた恐怖本能は、いまやジャーナリストたちの雇用を支えている。かといって、「ジャーナリストが悪い」とか「ジャーナリストが行動を改めるべき」という指摘をするのは筋違いだ。メディアが「人々の恐怖本能を利用してやろう」と考える以前に、わたしたちの恐怖本能が、「どうぞ利用してください」と言っているようなものなのだから。
 わたしたちがやるべきことは、見出しの陰に隠れている事実に目を向けることだ。そうすれば、恐怖本能がいかにして、「世界は怖い」という印象を人々に植え付けるかがわかるだろう。(p.137)


「マスゴミ」というような言説が蔓延る中、本書では、人々が事実を知らないことについて、マスメディア(ジャーナリズム)に過度に責任を負わせないスタンスが特徴的である。これは不当なマスメディア批判と比べると相対的には妥当であるとは思う。

しかし、本書が言うように、個人が「見出しの陰に隠れている事実に目を向ける」という解決方法では、物事が解決することはないだろう。これは「強い個人の仮定」に立っているため、社会一般に広がることが期待できない。仮にレベル4の地域に住み、十分な期間の高等教育を受けている人々だけからなる社会だったとしても、日々の仕事や家事に追われた生活をしている人には、全く現実味のない解決策である。新聞を読んだりニュースを見る時間さえ十分に取れないという人が多い中で、「見出しの陰に隠れている事実」を見るためには、相当積極的な行動が要請されている。単にネットで検索して調べるというだけでは、真偽の不確かな情報に踊らされるリスクも高い。当然、適切な統計情報などにアクセスしなければならないが、リアルタイムで発生している情報については統計すらないことが基本だ。その上、適切な統計statisticsの多くは、基本的には国家stateが取るべきものの一つだが、政権の都合に合わせてく基準を変えたりする日本はもちろんのこと、中国など様々な国の政府が出す統計にはあまり信頼性がない。そこまでの情報を批判的に仕分けるだけの知的能力は、現在の大衆化した大学を卒業した程度の学び方ではほとんどの人には身につかないし、それだけの情報にアクセスする時間も労力も確保することは現実的ではない。

メディアが共同して自主的に指針を策定し、自らに課すことは必要不可欠であろう。この辺りは、筆者が社会科学の徒ではないということから来ている認識不足ではないかと感じる。



 次に、「どんな証拠を見せられたら、わたしの考えが変わるだろう?」と自分に聞いてみよう。「どんな証拠を見せられても、ワクチンに対する考え方は変わらない」と思うだろうか?もしそうだとしたら、それは批判的思考とは言えない。(p.151)


その通りである。これは本来は自己点検のための問いかけだが、ある人の発言を聞いた時、「この人はどのような証拠を見せられたら考えを変えそうだろうか?」と考えてみることも、その人の発言の信頼性を吟味する上で役立つやり方になると思う。



 認識を切り替えるには、できるだけたくさん旅をすることだ。スウェーデンのカロリンスカ医科大学で公衆衛生を学ぶ学生を、わたしがレべル1からレベル3の国々に連れていくのはそのためだ。(p.195)


同意見。所得水準が違う地域に行くというのは特に重要。しかし、ここでもレベル4の国であるはずの日本であっても、外国への旅行を頻繁にできるのは全体の中では多数派とまでは行かないような解決方法である。ヨーロッパのようなバカンスが取れない日本では所得が足りていても仕事の都合で行けなかったり、生活が不安定化している中間層の多くの人びとにとっても現実味が薄くなりつつある方策であるように思われる。



 西洋の発展が当然このまま続くと思い込んでしまうのもまた、宿命本能のなせるわざだ。それに、いまの西洋の経済的な停滞が一時的なもので、またすぐに回復するだろうという思い込みもそうだ。(p.222)


「西洋」を「日本」に置き換えても成り立つ。アベノミクスなるものに期待していた人や2020年頃にGDP600兆円とか言った主張を信じた(信じたいと思った)人は、基本的に本書が言う「宿命本能」に負けた人だと言ってよいだろう。



 いまのイラン女性ひとりあたりの子供の数はアメリカやスウェーデンより少ない。そのことを、西洋の人はどれだけ知っているだろう?西洋人は言論の自由が好きすぎて、それを許さない体制の進歩が見えないのだろうか?自称「自由なメディア」が、世界で最も急激な文化的変化を報道していないことは、少なくとも確かなようだ。(p.225)


この問いは日本にも当てはまる。言論の自由や民主的な体制を重視する立場に立っていると、言論統制がされている非民主的な体制の社会に対して、社会の変化を見ようとしないという傾向があるという指摘は鋭いものがある。

もっとも、本書の言う発展とは経済発展が基本となって生じる生活や公衆衛生の水準、生活習慣の変化といったことが念頭に置かれていると思うが、技術さえマネしていればある程度のところまで行けるものであるから、政治体制とこうした意味での発展はほとんど関係がないと考えるべきだと思われる。

しかし、ある社会が「悪い」政治体制に置かれている中で、生活水準が「良くなっている」と語るのは、すでに本書が述べていた「悪い」と「良くなっている」は両立可能だという論点とも重なってくる。両立することは事実だが、「良くなっている」と言うべきではない場合があることを本書も認めている。その意味では、改めるべき政治体制がある中で、そのことに触れずに生活が改善していることだけを一面的に取り上げてしまうことにも問題があることになる。そうなると、ある程度の時間をかけたドキュメンタリー番組の放送などと言った形でなければ、日々のニュースや情報番組で取りあげるのはやりにくい話題ということになろう。特に、日本や西洋世界などで民主主義が侵食(権威主義等)または暴走(ポピュリズムの抬頭等)する方向にあり、言論の自由も次第に失われつつある情勢の中、これらのない社会のプラスを報道することには抵抗を感じて然るべきであろうと思われる。

また、さらに言うと、言論の自由がない社会についての情報は、その国内から発信される情報が信頼性が低いものであるという問題がまとわりついてくる。言論の自由がある社会よりも、より詳しく十分な取材をしなければ、その社会について真実を見極めにくいという事情もある。

以上、本書の言うことはもっともであり、正しいが、それは容易ではない面もある。必要なのは報道を変えることだけでなく、言論の自由がない体制を転換していく(言論の自由を拡大していく)ということも同時にやっていく必要がある、ということであると思われる。本書では、後者のようなマクロな方針についての関心が希薄な点には問題を感じる。


ポール・レイバーン 『父親の科学 見直される男親の子育て』

多くの家庭において「両親ともにわが子と良好な関係を保っているが、それでも子供は混乱状態にさらされており、しかもその原因はコペアレンティングの関係ということもよくある……二人がお互いを憎み、わが子の愛情と忠誠を独り占めしようとすることがあり得る」。子供に関わるこのような慢性的な争いが、その子供自身に悪影響を及ぼすことは自明の理と言えよう。離婚した家庭の多くはこのパターンが当てはまるが、離婚していない家庭でも、五件に一件の割合でこの争いは起きているとマクヘイルは言う。(p.102)


この場合、離婚するのと離婚せずにいるのとどちらが子供にとって有益なのだろうか?子どもと両親との関係だけでなく、それぞれの親に付属している親族その他のネットワーク、それぞれの経済力や育児方針のあり方とその実態、さらには子どもの年齢や性別など、ケースバイケースすぎて一般化できないようにも思うが、大量のデータで傾向だけでも出ていれば、そこから先に議論を進める手掛かりが得られそうにも思うのだが。



遊び方は変わっても、遊びが子供時代を通じて、父と子の交流の核となっているのだ。
 ロス・バークは、子供たちとの父親の「遊び方」が、子供たちが健康的に成長するカギになると考えている。父親が遊びを支配しようとするばかりで、子供たちの出すシグナルに応えないと、息子が同級生と良好な関係を築くのがより難しくなる、と言う。父親と同じく遊ぶことを楽しんで、しかも父親が「非指示的な」女の子たちは、一番の人気者であるという。また、このような父親をもつ子供たちは、小学校に入学してもスムーズに順応していくと言う。父親がアクティビティーの提案をする、あるいは子の提案に対し興味をもってくれると、子供は粗暴なところがなく優秀で、友人に好かれる。こうした父親は子供たちと活発に遊んでも、権威主義ではない、父親と子供がギブアンドテイクの関係にあるのだ。(p.176-177)


遊びが父と子の交流の核というのは、本書の主張のうち最も重要なポイントの一つだと思う。

それに続く叙述から推すと、子供にとって父親との遊びがどのような関係のもとで行われるかというのは、その子供と他の子供たちとの遊び方のロールモデルを提供しているのではないか。子供は父親が自分に対して示した態度を他の友達にもとろうとすると仮定すれば、それが友達との関係性の良しあしにに自然と繋がっていくことは容易に了解される。



父親という存在は、子供が幸福で健康な大人になれるよう手助けをするためにある。子供たちがこの世界でのびのびと暮らし、やがて成長して彼ら自身が母親や父親になる準備ができるようにすることが、父親の役割なのだ。(p.263)


こうした根本的な考えはなかなか日常的に意識することが難しい面があるが、かなり重要なことなのではないかと思う。子供が父親や母親になろうと思うかどうかは別として、社会や家庭の中で一人前に生きて行くことができるようにすることは親の務めであろう。(親自身が子供に必要とされることで快適に感じており、子供を自分に依存させようとする、という事例を知っているが、それはこうした目標とかけ離れた行為であることが、原理原則を踏まえていると明瞭になる。)


ポール・タフ 『私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み、格差に挑む』

「非認知能力は教えることのできるスキルである」と考えるよりも、「非認知能力は子供をとりまく環境の産物である」と考えたほうがより正確であり、有益でもある。……(中略)……。
 ……(中略)……。子供たちのやり抜く力やレジリエンスや自制心を高めたいと思うなら、最初に働きかけるべき場所は、子供自身ではない。環境なのである。(p.27)


私自身の考え方と近いが、環境の作用ということについて考えることさえない愚かな親というものがこの世にはいて、子どもにだけ焦点を当てて対応している事例というものがある。私の知るある事例では、そのような対応をしているのは、その親自身のための(満足感や空虚さを埋めたいといった類の)動機によって動いている事例があり、目には見えないし、子ども自身もそのことに気づきようがない状況の中、極めて有害な影響を及ぼしている。



 デシとライアンは教育に関する著述を、人間は生まれながらの学習者で、子供たちは生まれつき創造力と好奇心を持っており、「学習と発達を促進する行動を取るよう、内発的動機づけがなされている」という前提から出発した。しかしながら、このアイデアは「退屈さ」によって複雑になる何かを学ぼうと思ったら、それが絵を描くことであれ、プログラミングであれ、八年生の代数であれ、たくさんの反復練習を要する。反復練習はえてしてかなり退屈なものだ。デシとライアンは、教師が生徒に日々求めるタスクの大部分は、それ自体が楽しかったり満足できるものだったりするわけではない、と認めている。掛け算の九九を暗記することに強い内発的動機を持っている子供は稀なのだ。
 この瞬間、つまり内なる満足のためでなく、何かべつの結果のために行動しなければならなくなった瞬間に、「外発的動機づけ」が重要になる。デシとライアンによれば、こうした外発的動機づけを自分のうちに取りこむようにうまく仕向けられた子供は、モチベーションを徐々に強化していけるという。ここで心理学者は、人が求める三つの項目に立ち戻る。「自律性」「有能感」「関係性」である。この三つを促進する環境を教師がつくりだせれば、生徒のモチベーションはぐっと上がるというわけだ。
 では、どうやったらそういう環境をつくりだせるのか?デシとライアンの説明によれば、生徒たちが教室で「自律性」を実感するのは、教師が「生徒に自分で選んで、自分の意志でやっているのだという実感を最大限に持たせ」、管理、強制されていると感じさせないときである。また、生徒が「有能感」を持つのは、やり遂げることはできるが簡単すぎるわけではないタスク――生徒たちの現在の能力をほんの少し超える課題――を教師が与えるときである。さらに、生徒が「関係性」を感じるのは、教師に好感を持たれ、価値を認められ、尊重されていると感じるときである。(p.90-91)


反復練習のような場面では外発的動機づけが重要であり、これを自分のうちに取りこむことが重要というのは、自分自身の実感としてもよくわかる。私自身、中高生くらい頃の経験として、自分が何の苦もなく行っている反復練習を苦痛に感じる人というのが周囲に多くいるのをみて、なぜ彼らはこんなことが続けられないのだろう?とよく思った経験がある。そして、それをさせることがいかに難しいか、ということも実感がある。その意味で、ここで述べられている3つのポイントに着目するのは有益だと思われる。



ファリントンによれば、生徒たちが自分のポテンシャルについてのメッセージに――肯定的なものであれ、否定的なものであれ――最も敏感になるのは、失敗の瞬間であるという。(p.105)


こうしたタイミングにどのような声掛け(言葉以外も含めたメッセージ伝達)ができるか、ということは常々考えておく必要があるように思う。



野口雅弘 『マックス・ウェーバー 近代と格闘した思想家』

権力が一部の人に「偏重」し、開かれた言論によってそれが問い直される可能性が閉ざされているところでは、権力の中枢への近さがものをいう。こうした関係性においては、権力に対する卑屈な振る舞いがはびこることになる。(p.40)


ウェーバーの「ピエテート」概念が日本で注目されたということの関連の中でのコメントだが、これは明らかに現在の安倍政権への批判が意図された発言と思われる。少なくとも現状を捉えた発言ではある。



資本主義と権威主義の間に、一定の相性のよさがあるようにもみえる。この結合を避けようとするならば、「流れに抗する」必要がある、とウェーバーは考えていた。(p.97)


資本主義も権威主義もその時点で政治的・経済的・社会的な権力を持っている側の人間にとって有利なものであり、それをさらに強化するためのシステムないし考え方であるという点で共通している。これらに親和性があるのは当然であると思われる。



 とはいえ、もう少し若ければ、志願して最前線で戦闘に参加しかねないほどのウェーバーのナショナリスティックな感情は、敗戦とドイツ革命のなかで問い直されていく。敵が明確で、戦い方がほぼ決まているような場合、ナショナリズムは比較的わかりやすい形をとる。
 しかし、「なにが愛国か」をめぐって争いが起こり、対立する立場がそれぞれ「愛国」を語るような局面になると、ナショナリズムという概念では問題が摑めなくなる。(p.99)


ナショナリズムというより愛国主義という観点から見ると、現在の世界には右派の愛国主義と左派の愛国主義があるように思われる。

右派の愛国主義は、現行の保守(反動)政権を支持することを目的として、その政策や言動に対して批判する者を非愛国者なり非国民のような存在として決めつけ、非難したり攻撃したりする。日本のネトウヨや中国共産党政権(香港に対する国家安全法の施行などを見れば分かりやすいだろう)は、これに当たる。これが愛しているのは、現行政権だけであり、それと同一化した自己だけ、というのが私の評価である。社会にとっての益は何もない。

左派の愛国主義は、現行の政権がどのような政治的な立場であっても関係なく、その政策や言動がその社会にとって利益にならなかったり、悪い副作用が生じることなどを批判し、改善を求めようとし、それこそが「国がよくなること」と考えている。香港で民主的な政治や政策を求めるものなどを考えれば分かりやすいが、民主派や左派の市民運動などの立場は概ねこうしたものだろう。(純粋な個人主義の立場も似たようなスタンスをとることは多いように思うが、個人主義から運動は出てきにくいので、行動を伴わない単なる観念的な賛同者であれば愛国主義ではなく個人主義者である可能性が高いだろう。)

ナショナリストや愛国者を名乗る人には、その人が言う「国」の定義を述べさせることにより、それが真正なものか、そうでないかが見えてくるように思われる。(大体、前者のタイプの議論ではまともな定義は出て来ない。その意味するところが明確に自他に自覚されてしまうと、議論を維持できなくなる。)



ウェーバーは基本的に「正義とはなにか」を主題化して問おうとはしない。正義について論じても、彼が関心を寄せるのは、正義をめぐるコンフリクトに対してである。形式合理性と実質合理性の対立は論じるが、それに対する一義的な解答を出すことはない。これに対してロールズの著作では、権力(power)が主題化されることはない。(p.109)


ウェーバーの権力や支配に関する議論の特徴をつかむのに的確な対比と思われる。



 集票マシーンについて論じるとき、ウェーバーがドイツ社会民主党とともに取り上げるのが、アメリカのタマニー協会だった。……(中略)……。毎年、大量に流入する移民の生活の面倒をみると同時に、タマニー協会はこうした移民を選挙人登録し、民主党への集票に結びつけた。……(中略)……。
 優れた政策を提案し、それが支持されて、選挙に当選する、という論理が崩壊する。優秀なマシーンさえもっていれば、どんなに製作が貧弱で、候補者がダメでも、票を積み上げ、当選者を増やし、政治的影響力をもつことができてしまう。(p.120)


これは現代日本の自民党や公明党について完全に当てはまっている。



日本語文献でエントツァベルンクは、「脱魔術化」と訳されることが多い。「魔術からの解放」や「呪力剥奪」と訳されることもある。ここでは「魔法が解ける」とする。
 訳語の選択において重要な論点は、エントツァベルンクがある行為主体による「作為」なのか、それともそれとは異なる意図せざるプロセスなのか、という違いである。「脱魔術化」という訳語は、囚われているものから主体的に脱する、という意味合いが強く、「魔法が解ける」という場合は、かつてあれほど強かった心理的呪縛が、まるで嘘のように解けていく、という意味である。(p.144)


Entzauberungの訳語については、今までもいろいろなものが出されてきた。どれもそれなりに考えられているとは思うが、個人的には「脱魔術化」や「魔術からの解放」という用語には、意図してそうするというニュアンスと意図しているわけではないがそうさせられるというニュアンスの両方を読み込めるように思っていた。本書の著者は受動的な側面を強調して理解しているようだが、このEntzauberungの語はウェーバーの厳密な術語ではなく、比喩的で曖昧な表現であり、主知主義的合理化が進んで行く様については主体的な契機もあることをも考え合わせると、両方の契機を含む訳語の方が良いのではないか、と思う。

また、ある意味ではEntzauberung der Weltというタームが、詩的に格好良く言おうとしている用語なのだとすれば、その訳語として「魔法が解ける」だとあまりに普通過ぎて「特別感」が出ないような気がする。ウェーバーの論文の多くは末尾の部分がやや詩的な格好をつけた文章になっていることを考えると、それに見合った訳語の方がよいように思う。



 ウェーバーのテクストは、「前近代」を批判しようとする研究者からすると「近代的」にみえ、近代に対して批判的に対峙しようとするポストモダニストからすると「ニーチェ的」に映る。山之内の問題提起は、ウェーバーの両義性を確認する結果になった。(p.244)


ウェーバーのテクストの特性を的確に表現しているように思われ、かつ、ウェーバーの受容のあり方を考える上で参考になる捉え方。



 今日、大塚らの世代がしたような仕方で「ヨーロッパ近代」を主題化することは、ほとんどなくなった。むしろそれぞれの国や文化圏にはそれぞれの形の「複数の近代」があるという、イスラエルの社会学者・文明論者のS・N・アイゼンシュタット(1923~2010)が論じる「複数の近代」(multiple modernities)の方が受け入れられやすくなっている。
 しかし、それにともなって「近代」という概念がなにを意味するのかがますます摑みにくくなっている。そもそもその概念を使ってものを考える必要があるのかどうかも怪しくなってきている。マックス・ウェーバーのテクストとそれをめぐって日本でなされてきたウェーバーに関する研究が、近年、急速に色あせてきたことは、おそらく当然の帰結である。(p.244)


近代という概念が怪しくなってくることで、ウェーバーに関するかつての研究が色あせるというのは、その通りであるように思われる。90年代後半から00年前後くらいにウェーバーについて多少関心が高まった時期があったように思うが、結局、そこで従来の「近代」を巡る議論とは別のウェーバーの可能性を引きだすことができなかったことが、この道を決定づけたのではないか、という気がする。

なお、こうした衰退の状況があればこそ、羽入の「犯罪」のような議論が一定の支持(?)を得てしまったともいえるようにも思う。例えば、「学ばされる」側の学生から見て、ウェーバーの議論から得られるものがなく、容易に理解もできないという中で、あの議論は偽物だと言ってくれることはその学生にとっては解放となる。ウェーバーの議論から得られるものがあると感じていれば、読解に努力をしようという気にもなるだろうが、それが得にくい時代状況になってきたからこそ、あのような議論が受け入れられる余地が生じてしまったのではないか。



「なぜヨーロッパにおいてのみ」「普遍的な意義と妥当性をもつような発展傾向をとる文化的諸現象が姿を現すことになったのか」というウェーバーの問題設定には、私も疑問を抱く。「オリエンタリズム」の問題についても、すでに言及した通りである。ただし、なんらかの普遍的な規準を追求することを放棄して、「ありのまま」の自分を認めようとすれば、その「ありのまま」の自分が自明視しているものを問題化することができなくなる。
 日本のウェーバー研究はウェーバーのテクストの「ロスト・イン・トランスレーション」だったかもしれない。しかしそれでも、ウェーバーが描く「ヨーロッパ近代」のスケッチを何度もくりかえし、さまざまな仕方で読み解こうとすることで、日本社会のあり方を批判的に、つまりイマ・ココに閉じこもらない仕方で問い直すことには、大きな意味があった。(p.245-246)


ここは本書の中でも最も重要な部分かと思う。現代においてかつてのウェーバー研究が持っていたような意義を持ちうる研究はどのようなものになるのだろうか?この点についてもう少し掘り下げて描いてもらえると、より良かったのではないかと思う。(大部分の人にとっては、本書でなされた指摘だけで次につなげていくことは極めて困難と思う。)

なお、本書とはやや文脈が違うかも知れないが、現在、マルクス・ガブリエルが普遍性を復権しようとしていることは、本書で指摘されている問題とも通じるところがあるかも知れない。私としては、まだこの辺りについては明確に整理ができていないところであり、今後、もう少し考えを深めていきたいところである。


今野元 『マックス・ヴェーバー――主体的人間の悲喜劇』

 歴史学として見ると、このヴェーバーの「資本主義の精神」論には論理の飛躍がある。ここで指摘するのは以下の三点である。第一にヴェーバーは、経済活動の有様がそもそも宗教思想の違いに由来するとの前提で議論を始めているが、そんなことが言えるのかどうかは分からない。それはオッフェンバッハ―やゴートハインらの研究を基に彼が出した仮説でしかない。第二に、ヴェーバーは分析対象を、プロテスタント教会に属する商工業者の心理から禁欲的プロテスタント理論家の教説へとすり替えている。一応ヴェーバーは両者の違いに気付いており、だからこそR・バクスター(ピューリタニズム)、P・J・シュペー1920ナー(ドイツ敬虔主義)、R・バークレイ(クウェイカー派)のような生活実践に近い神学書を分析したのだが、本来は神学思想研究ではなく、商工業者の社会史研究を行うべきだった。第三に、「予定説」が生み出す救済への不安から商工業者が労働に邁進したという核心部分は、全くの想像でしかない。(p.79)


私の理解では、上記の三点の指摘については次のようになる。

第一の指摘に対しては、ヴェーバー自身も一応は押さえた上で議論をしている体裁をとっていると理解している。つまり、ヴェーバーはプロ倫全体を仮説として扱っている。もっとも、そのように扱いながらも実際には単なる仮説ではなく、実態を捉えているものと思っているであろうが。

第二の指摘についても、ヴェーバーは理解しており、だからこそ単なる神学思想の本ではなく、牧会に関する本を選んでいたものと理解している。つまり、一応は、牧会を通して信徒たちの行動が方向づけられたのではないかとの仮定の下でヴェーバーは論理を構成している。ただ、本来すべきであるのは社会史研究であったという点には完全に同意する。

第三の指摘も同意見である。

概ね三点とも批判としては妥当である。ただ、ヴェーバーは前2つの批判に対する予防線はある程度張っている(が、自説を守ることには成功していない)。



 のち1920年に刊行された改訂版「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で、ヴェーバーは大幅な改訂を行った。新旧両版を比較した安藤英治の分析を踏まえると、ヴェーバーが最も拡充したのはカトリシズムの分析である。旧版でヴェーバーはカトリシズムの理論や実例には踏み込まず、お決まりの先入観(「理念型」?)を繰り返していたが、カトリック系学者からは猛批判を浴びた。(p.80)


プロ倫に対する当時の反響については、なかなか日本では追うことが難しい。



「鋼鉄のように硬い殻」の説明がないと、彼が描いた近世の禁欲的プロテスタンティズムの世界と、近代の無宗教的な資本主義の世界とが架橋されないのである。ただこの架橋の試みもヴェーバーの想像の産物であって、論証されたわけではない。(p.83)


ここの意向の部分の論証が欠けている点は、プロ倫の論証の中でも最も不十分な点の一つであるように思われる。


丸山俊一、NHK「欲望の時代の哲学」制作班  『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学するⅡ』

したがって、他者の自由意志は、私たちが私たち自身であるために必要なものであると同時に、私たちが持つ自分自身のイメージを損ねる可能性があるがゆえに、私たちが恐れるものでもあるのです。
 これが、社会的な複雑性に対する一つの反応であり、ポピュリズムの先導のもとに、まさにいま、起こりつつあることです。自由民主主義への攻撃は、社会性そのものを破壊しようとする試みなのです。(p.34)


他者の自由意志を恐れるということが、排外主義やレイシズムなどの要因となり、それが多くの人が陥りやすいものであるが故にポピュリストたちによっては動員しやすい環境となっている。

この原理は、私からすると、なぜ専制や独裁などがほとんどの人にとって悪なのか、ということの原因でもあると思う。つまり、支配する側に常にいる人にとって、多くの人びとの自由意志は、支配者の自己イメージを損ねる可能性があるが故に、恐れるものでもある。そうだとすれば、支配者は人々の自由意志が自分に向けられないように情報を操作したり、(まさに香港における「国家安全法」がそうであるように)「不法を法とする」ことで統治しようとする。

第二次安倍政権は、就任以来ずっと情報操作することによって自身の支持を得てきた(正確に言えば、人々が不支持にならないように仕向けてきた)。それができてきたのは、安倍(やその周辺)に実力があるからではなく、そのための環境が整えられてしまっていたということが大きな要因である。90年代から00年代前半までの政治改革による内閣への権力集中がそれであり、安倍政権がそこに内閣人事局の設置によって、それを完成させたと言ってよいと思う。官僚がすべて首相の言いなりになり、不都合な情報を出さないようになる。あとは、マスメディアを「各個撃破」戦術によって黙らせてしまえば、誰も大っぴらに批判する者はいなくなる。よほど政治に関心がある人以外は、実際に行われていることを感知できないから、不支持は広がらない。それによって政権を維持する。コロナ発生後の対応のまずさは、政権の本来の実力を示しているものであり、最近、首相が国会にもメディアにも出て来ないことは、国民の関心が高い問題であるため、今までのような誤魔化しが通用しにくいことを分かっているためである。まともに対応する実力もないし、今までのように誤魔化すこともできない。これが現在の安倍政権の立ち位置である。

今の政府の対応や姿勢を見ると、今後、コロナの感染が国内で広がることは間違いない。数か月後にはアメリカやイタリアのようになってもおかしくない(市中感染が広がり、医療機関での対応も追いつかなくなる)と私は見ているが、そうなった場合の責任は内閣にあり、その際には(今まで安倍がやって来たような)「責任を痛感する」とか「責任は私にある」と【言うだけ】で済ますことを許すべきではない。有権者としては、そうなる前に政権を変えて対応を変えるのが望ましい。



 フェイスブックの本質、それはあなたが自己イメージを表現できるプラットフォームを提供することです。……(中略)……。
 「好き」/「嫌い」のようなパターン分けこそが、フェイスブックなのです。なぜなら、ひとたびあなたが何かを好きになると、あなたは自動的にその好きな何かを投稿します。実際、嫌いなことは投稿しません。自分自身の好みは投稿しますが、ただそうしているだけなので、あなたは意識していません。あなたは自分が何をしているかに、気がついてすらいないのです。プラットフォームはデータを登録するだけだからといって、中立であるわけではないのです。(p.35-37)


フェイスブックはこのデータによって我々の行為を予測することができ、それが売られることが問題ということだな。



こうした利害関心がすべて一体となって、私たちは現実には何も知ることができないという、ポストモダンな物語を生み出しています。現実を知る能力や自分自身の合理性に疑問を投げかけるアメリカの大衆科学小説、あるいは、私たちは合理的ではないと主張する行動経済学などがいい例です。(p.154)


ポストモダンの物語が生み出されているのはそうだとしても、行動経済学が人間を合理的ではないと主張しているかというと、そこは疑問というか誤解ではないか。従来の荒唐無稽な「合理的経済人」という現実と合わない仮定が現実に合っていないということを実際のデータから裏づけつつ、どのような規則性(従来の仮定と違うもの)があるかということを見いだそうとしているのだから、その点で行動経済学も合理的な志向を十分に持っている。また、行動経済学は現実を知る能力に疑いを持っているわけでもないだろう。



 科学的なものの見方のみが真実であるとする「自然主義」に対しての実に痛烈な批判。そして、彼を育んだドイツという国の歴史に向き合うとき、避けては通れないナチズム、すなわちファシズムに対する最大級の警戒。さらに、今回あらためて随所で言及された「ドイツ観念論」への強い信頼と、その学問的系譜に自らを位置づけることで思索を深めようとする覚悟。この三つの重い礎があってこそ、彼の思考は軽やかになり、どんなボールが来てもコースによって打ち分ける打者のように饒舌な語りとなって言葉へと結晶することを、まずは確認しておきたい。(p.200-201)


ガブリエルの思想の特徴を簡潔にまとめているように思われる。

上記の行動経済学に対する批判(?)もガブリエルの反自然主義の感覚から来ているように思われる。ただ、自然科学的な方法を使って物事を認識することと、それでなければ事実は認識できないとすることとは全く違うことである。それこそ自然科学的な方法によって物事を認識することも一つの「意味の場」における出来事であるとすれば、難なくガブリエルの思想の枠内に収まるのではないか。実際彼は他の学問はそのように扱っているように思われる。だとすれば、この一つメタなレベルにある「意味の場」の理論の枠内で考える限り、自然科学的な方法に基づく認識も批判されるべきものにはならないように思われる。



片倉佳史 『台北・歴史建築探訪 日本が遺した建築遺産を歩く』
国立台湾博物館土銀展示館(旧日本勧業銀行台北支店)

この建物は1989年、老朽化を理由に、一度は建て替えが決まったが、熱心な保存運動が起こり、取り壊しを免れた。(p.46)


同様の保存運動がかなりの数の建築を守ってきたことが、本書の叙述だけからでも分かる。



撫臺街洋樓

 この建物が建てられる前年、台北は未曽有の暴風雨に見舞われ、家並みの大半が崩壊するという惨事となった。これを機に大がかりな都市計画が練られ、町並みは一新されたが、この建物もその際に立てられた1棟である。(p.56)


この建物は1910年(明治43年)竣工。これより古い建物は残るのが難しい状況。ある意味、台北に残っている建築のスタイルが割と共通している感じがするのも、こうした事情が反映している面もあるのかもしれない。



台湾師範教育館(旧尾辻國吉邸宅)

 三線道路は旧台北城の城壁跡地を用いたもので、約40メートルという道幅を誇った道路である。後藤は「パリのシャンゼリゼ通りのように」と指示したと伝えられ、実用性のみならず、都市景観を意識した道路となった。(p.99)


三線道路のエピソードとしてメモしておく。



野草居食屋(旧石井稔邸)

 こういった家屋は戦後、国民党政府によって外省人官吏などに分配されたが、老朽化が進んだため、所有権が台北市などに移されたケースが少なくない。そのため、こういった「再生空間」は業者が台北市から委託される形で運営していることが多い。(p.115)


最初のコメントで述べたような保存運動という市民側の熱量と、台北市に所有が移ったこと(台北市がそれを受け入れたことを含む)とが、00年代以降のリノベーションの増加という動きにつながっていることが、本書から読み取れたように思う。

市が所有し、運営を民間に委託するというやり方は、日本でやると多くが経営的に失敗しているように思うが、台北の場合はどうなのだろうか?この辺りは非常に気になる点である。



華山1914文化創意産業園区(旧台湾総督府専売局台北第一工場)

総督府が遺した文献によれば、1910年代に入り、台湾における酒類の消費量は急増したという。これを受け、1914(大正3)年に最初の酒造工場が設けられた。(p.178)


経済力がそれだけ向上してきたということだろうが、これは日本本土と概ね同じような経済的な動きであるように思われる。本書でこれの前に紹介されている高砂ビールが1919年に創立されたのも、こうした背景の下でのことだっただろう。



二條通・緑島小夜曲

日本統治時代初期、日本人は主に台北城内側の「城内」地区を居住地としていたが、1920年代後半から都市の規模が成長し、市街地が拡大していった。(p.215)


この都市の拡大は、一つ前のコメントで指摘した経済力の向上、市民の生活文化水準の向上と繋がった現象であろう。



士林公有市場(旧公設士林庄市場)

 士林夜市は慈誠宮という廟と深い結びつきを持つ。つまり、廟を訪れる参拝客を相手に出店が並び、それが公設市場と結びついて生まれたのが士林夜市なのである。(p.279)


古い市場と宗教施設との関係は世界中で見られるものであり、士林夜市もそうだったのか、という感じ。台湾の他の夜市はどのような由来なのだろう。同様のパターンは多いのだろうか?また、これとは違うパターンは見られるのだろうか?


辛永勝、楊朝景 『再訪 老屋顔 台湾名建築めぐり』

レンガと鉄格子の両方の機能を備え、鉄のように錆びてしまうこともないので、海風の強い沿海地域でよく見られる建材です。(p.172)


装飾ブロックについての説明。本書や前著『台湾レトロ建築案内』などでは、こうした建材などに着目するのが特徴的な見方だと思う。ざっくりと見ただけではあまり気づかないような細かいポイントについて掘り下げらてもらえるので参考になる。

今、書いていて思いついたのだが、レトロ建築について誰が設計したのか、誰(どのような組織)が設計の主体だったのかということばかりに着目すると、日本統治時代では、日本人にばかり注目が集まってしまうが、こうした細部、例えば建材に着目することは、当時の台湾の人々(職人)などの活動に目を向けることにつながる

ある意味、日本人による台湾の歴史に関する叙述は、どうしても、「日本人が」活躍した、貢献したというような、日本のナショナリズム感情の観点から見て都合がよいものばかりを見ようとする傾向が強くなる。台湾の人々が見る日本時代と、日本の人々が見る日本統治時代とは、同じ時代を見ていながら、必ずしも同じものを見ているわけではない、ということには自覚的である方がよい。そして、私としては台湾人側の見方をもっと内面化し、自然とその見方もできるようになっておきたいと思う。



鉄窓花の衰退の一つに手入れのしにくさがあると言います。当時の面格子の材料には、加工のしやすい鉄が用いられていましたが、錆びやすいため、定期的な手入れがとても面倒でした。そして30年ほど前に登場したステンレスやアルミ製の面格子は、鉄製のような複雑なパターンはありませんが、製作にも設置にも時間がかからず、しかも錆びにくい特性から、たちまち市場を席捲。鉄窓花はメンテナンスと費用面から需要が少なくなっていき、とうとう姿を消してしまいました。(p.189)


本書と前著では、鉄窓花という窓の外につけられる鉄製の面格子のデザインへの着目が特徴的な見方となっており、新たな着目点に気づかされたのだが、ステンレスの限られたパターンのものによって置き換えられたため姿を消したというのは、納得。市場の力によって淘汰された形なのだが、メンテナンスが難しくても職人や施主などの意向を反映した個性あるデザインが消えて行くのは寂しい感じがする。