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アヴェスターにはこう書いている?
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栖来ひかり 『時をかける台湾Y字路 記憶のワンダーランドへようこそ』

水路は地下にもぐりみえなくなってしまったけれど、歩いていると水路の名残りをあちらこちらにみつけることができ、過去から現在にかけて絶えず豊かに台北をうるおしつづけてきた水の存在を感じる。台北じゅうを血管のようにめぐっている水路について知るたびに、台北のまちとじぶんの身体が一体化していくような、親密な感覚をおぼえるのである。(p.45)


この感覚は、多くの町に共通に見出せそうに思う。水路がどこにあったかという観点をもって自分のフィールドとする街を見直してみたい。



 それでも、台湾のまちを歩いているときSさんに再会したような気持ちになることがある。たとえば、タイヤとサドルのない自転車が置き石がわりに家のまえに立てかけられているのをみたとき。突然歩道をさえぎるように出現するガジュマルの樹に遭遇したとき。あるいは、Y字路になった一般道(つまり公共の空間)の真ん中に、椅子とテーブルがオアシスみたいに置かれていたとき。こうした辺界は、かぎりなく優しくゆるやかだ。台湾の都市空間に親しみと好ましさを感じる日本人は少なくないと思うが、そのヒントはもしかしたら、台湾のまちの辺界に隠されているのかもしれない。(p.80-81)


なるほど。



 実際マンゴーかき氷で名高い台湾のかき氷だって、じつは台湾と日本のハイブリッドだ。もともと中華文化では、小豆や緑豆などいろんな豆を少し甘めに煮てぜんざいのように食べていた。一方、氷を細かく削って食べるのは日本では平安時代から記録があり、これが日本時代に台湾へと持ちこまれ、両者が合体して現在の「台湾風かき氷」ができあがった。さらにマンゴーなどのフルーツが載るようになったのはわりと最近のことである。
 台湾のグルメエッセイストとして知られる作家・焦桐(ジャオトン)によると、大きな鉄板で肉や野菜を炒めるモンゴル焼肉もモンゴルにはなく、福州麺も中国福州にはない。ほかにも鹹豆漿(シェントウジャン)(だしと塩気の効いた豆乳スープ)や牛肉麺(ニュウロウミェン)など、実はどれも戦後に台湾で発明されたものだが、いまや立派な台湾料理として数えらえる。(p.90)


ここで挙げられているもの一つ一つの由来について、もっと詳しく知りたくなる。特に気になるものとしては、牛肉麺は大陸でもよく見かけたが、台湾から入っていったということか?というあたりか。



 戦後になり日本時代の町名は全面的に改定される。
 命名のしかたは、台北を4つのエリアに分け、それぞれに中国大陸の地名を同じ位置関係のまま縮小して当てはめるという、上海からきた建築士・鄭定邦(ディンディンバン)の編み出した方法で、これは上海でも採用されている。台湾で生まれた子供たちが、中国大陸に帰っても迷うことのないように。共産党政権を倒して祖国に戻るという反攻大陸政策をとっていた当時の中華民国政府の、「いつかぜったいに帰る」という宿願がまちの名前にまで感じられ、興味ぶかい。(p.91)


中国大陸にある街の地名が付いているところは、この命名法でつけられた、ということか?注意して見てみよう。



Y字路発生のための三大要素である鉄道・水路・幹線のすべてを備えたこの周辺を歩けば、たくさんのY字路をみつけることができる。(p.127)


Y字路発生の三大要素は参考になった。街歩きをする時、これに留意しながら観察してみたい。



 日本人が台湾にきて感心することのひとつに、日本時代の建築をみごとに現代社会のなかで生かしていることがあるだろう。しかしながら「台湾の人は日本時代を懐かしんで、建築を守ってくれてありがたい」という日本人の声を聞くたびに、それは思い違いではないか、と口に出かかった言葉を飲み込む。台湾の複雑な歴史や人々の思いを知るほどに、彼らが守ろうとしているのは日本時代の建物ではなく、台湾という土地がこれまで歩んできた道のりであるのが理解できるからだ。原住民族が暮らしていたこの台湾に、スペイン人やオランダ人がきて、漢民族がきて、日本人がきて、多くのものを奪い、また、もたらした上で現在の台湾になっているという歴史の脈絡。戦後の国民党教育のなかで一方的に「中華民国」としての偏った歴史を教え込まれていた彼らにとって、日本時代の建築物を大切に残していくこともまた、台湾人としてのアイデンティティを獲得していくプロセスなのだ。みずからの在りかたを真摯に追い求める彼ら“文化テロリスト”のすがたには、いつも心揺さぶられつづけている。(p.134-135)


全く同意見である。私としては、台湾という地を理解する上でこの点は非常に重要だ――最重要かも――と思っている。



わたしたちが今、台湾で目にできる総督府や博物館など日本時代の内地に負けないほどの壮麗な建築物が、日本によってアヘン漬けとなった植民地下の人々の命と引き換えられた財源でつくられたかもしれぬ暗い歴史を、「近代化に貢献した」という耳あたりのよい言葉で覆い隠してはならない。(p.182)


この点も重要な指摘。日本による台湾におけるアヘン政策の評価は難しい。漸禁政策を採ったことは、急激に変えるのと比べればヤミでの取引などを抑制する効果はあったように思われ、最終的にかなり減らすことが出来たという意味では間違っているとは言えなかったように思われるが、その意図の一つに政府の財源としようとしたという面があったことなどには、確かに違和感を禁じ得ない。とは言え、その財源の使い道が結果として台湾に住む人々の福利厚生に資したのであれば、必ずしも悪いとまでは言えないようにも思われる(ヴェーバーの責任倫理)が、果たしてその結果はどうだったのか。ただ、この点についてはっきりと評価するだけの根拠を私は持ち合わせていない。



大稲埕や萬華で成熟したカフェー文化は台湾青年知識人たちのサロンの土壌ともなり、社会運動家・蔣渭水らを生み、やがて台湾人のための権利・文化発展を模索する民族運動に連なっていった。(p.190)


現代では同じような機能をSNSなどが果たしつつある面があるが、SNSは民主主義的ではないツールであるということが制約となっている面もある。SNSという利用しやすい資源が、こうした制約を負っていることは、民主的な運動を進めていくに当たっては障害にさえなっている面があるのではないか。



水を大量に使う銭湯やクリーニング店は暗渠との親密な関係をもつ「暗渠サイン」である。(p.194)


言われてみれば、という感じがする。



はじめは師の画風の模写から油絵を学んだ日本人画家たちは、同じような風景の構図やタッチを用いながらも、モチーフを日本的なものに変えることで、西洋から換骨奪胎された「日本人」の油絵をめざすようになる。……(中略)……。
 こうして、西洋から輸入された筆法や構図のなかに日本的なモチーフをどのように入れ込んでいくか、そのモチーフと自己との距離が日本における近代絵画のなかの大きなテーマとなったが、それは「日本的とはなにか」を再規定するナショナルな試みでもあった。またそこには、西欧に求められているエキゾチックでオリエンタルな需要に応えたいという、健気なサービス精神もあったかもしれない。
 同じことは、戦前の台湾美術界でも起こった。(p.202-203)


当時の台湾の絵画を見た際に感じたことが、この周辺の叙述を読んで少し形になってきたように思う。ただ、そうした経験をしてから年月がかなり経ってしまったので、次の機会を待つことにしよう。



 50年もの長きにわたって台湾を統治し、「台展」といった大祭典をぶちあげながら、台湾総督府は台湾に美術館、そして美術学校はおろか研究所さえつくることはなかった。美術に対して意識を深める場所がないから、パトロンやマーケットの育ちようもない。台湾人の画家たちはせっかく東京で学んでも、内地ばかりか台湾においても教職としての勤め先はなかった。(p.206-208)


日本の台湾統治の性格がどのようなものだったかを浮き彫りにする指摘であり、参考になる。



じつは小南門、漳州人系の板橋林家と敵対する泉州人系の勢力が強い艋舺(バンカ)を避けて、直に台北城内へ入れるようにと、板橋林家みずから資金をだして建てた門である。(p.224)


そうだったのか。なぜ東西南北の門があるのに、さらにもう一つ門があったのか謎が解けた気がする。


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太田雄三 『クラークの一年 札幌農学校初代教頭の日本体験』(その2)

しかし、これらの文化施設にしろ、新宿試験場や下総牧羊場にしろ、この期間にクラーク達の見た多くのものは上からの近代化の一環として政府が採算を度外視してやっているもので、必ずしも日本全体の進歩の指標として使えるものでもなかったし、また見かけほどうまくいっているわけでもなかった。(p.73)


クラークたちが東京で様々な産業施設を見学し、クラークたちは日本が「進歩」していると感じたと推察されるが、彼らが感じたであろうほどうまくいっているわけではなかったという指摘。

短期的な採算は度外視しても、導入してみていろいろと試していくことによって学習していこうという中長期的な発想を当時の政府は持っていたのだろうか?この辺りは気になるところ。



私の健康は申し分なく、私の仕事はたくさんありますが、私の能力以上ではなく、私の雇用者は気前よく、かつ私を高く評価してくれている、そして私のこれまでになしとげた所は私自身にも満足がいくし、私の知るかぎりでは、〔日本〕政府をも満足させているという状態です。私は、きっと、売り買い、雇い人の雇用解雇、建築改修から、自分の公印を使って会計から金を引き出すことに至るまで、日本人の役人の監督を全然受けずに行なう全権を付して、貴重な財産の管理を一任された最初の外国人だろうと思います。(p.125)


クラークが日本での仕事に満足していることを表明する発言は多いが、当時のお雇い外国人で、ここまでの裁量を持たされた事例というのは例外的なものであったことは押さえておきたい。クラークが来日中に西南戦争が起こっているが、その前後で政府の財政事情も大きく違っていたことや北海道という中央からは遠い辺境の地であったために実験的な試みが行いやすかったことなど、様々な条件が重なってこのような例外的な状況が形成された。黒田が大きな権力を持ち、黒田とクラークは馬が合ったというのもよく言われるが、そうした個人的な条件だけではなかったことを押さえるのは重要と思われる。



私達の石狩川を上る旅行中に私は黒田長官と話して、彼が〔聖書を教えることに〕反対するのはキリスト教自体に敵意を持っているためでは全然なく、ただ、英国国教とか、フランスカトリック教、ロシア正教やギリシャ正教といった国家〔外国〕と結びついた宗教を恐れるためだと分りました。(p.134)


ある意味、江戸時代の初期にいわゆる「鎖国」が行われた頃から、日本の政府(幕府)のキリスト教に対する警戒の源泉は変わっていないのかも知れない。いずれにせよ、キリスト教宣教の政治的な意図を正しく捉えており、西洋列強からの干渉に対する警戒は、当時の国際情勢を踏まえれば必要な構えだったということまでは言えるように思う。



これを見ても、クラークの信仰についての正しい理解は非常に信仰に熱心な男が日本に行って伝道を行ったというより、ごく普通の、名目的なクリスチャンとたいして違わなかった平信徒が思いがけずに始めた日本での伝道活動の成功から信仰熱心になって本国に戻ってきたということであるようだ。(p.242)


クラークの信仰に関するこの見方はなるほどと思わされたところ。クラークは日本において学生たちに道徳的な模範を示そうと努力した一面があると私は見ており、そのことが自身の信仰の熱量を上げることに繋がったように思われる。多くの学生が入信して彼についてきたことに対して、自分たち西洋人の優越性を見せたかったというような思いもあったのかもしれない、と想像する。



この講演を通じて日本の農業に対する高い評価を知るとき、私達が疑問に思うことの一つはクラークが日本の伝統的農業をそのように高く評価しながら、札幌農学校での初期の農業教育が、

 例えば作物でも、日本には何等の関係のない外国のものなどは教わっても、日本に最も必要な米作などのことは少しも聞かされたことがなかった。(南鷹次郎先生伝記編纂委員会編『南鷹次郎』、1958年)


と二期生の南鷹次郎がいったような、日本の実情に合わない欧米一辺倒の、南の言葉で言えば、「妙な教育」にとどまったことである。エドウィン・ダンも彼の「日本における半世紀の回想」(高倉新一郎編『エドウィン・ダン――日本における半世紀の回想――』、札幌、エドウィン・ダン顕彰会、1962年、所収)の中でクラークがマサチューセッツ農学校でのやり方を「そのまま札幌に移すつもりで来て、その通り実行した」ことを批判して、「日本とアメリカでは農業のやり方は全く異なっているので、肥料の価値とその施用ということを唯一の例外として、その他のことは、アメリカの大学でやっていることをそのまま持ってきても何等の結果も期待できない。」(同書、90-91ページ)と言っている。(p.256-257)


日本の農業を評価していても、結局はアメリカが一番と思っていたということが大きいということではないか?つまり、クラークが日本の農業を評価したとしても、「思っていたよりすごい」という評価だったということではないか。

また、実際、数カ月しか教育期間がない中で、十分な知識を持っていない日本の農業のやり方を適切にアレンジして教えるというのはかなり難易度が高かったとも想像される。実際、本州の農業と北海道とでは気候もかなり違うので、本州で見たことがそのまま北海道では役に立たないという面もある。(ダンは長期にわたって北海道にいたので、その立場からクラークに対して上記の批判をするのは理解できるところであり、妥当な批判ではあるだろうが。)


太田雄三 『クラークの一年 札幌農学校初代教頭の日本体験』(その1)

クラークにしろホイーラーにしろ西洋文明こそ唯一の真の文明と信じていたと思われるから、その摂取に非常な熱意を見せている日本人に彼らが中国人に対する以上の好感を持ったのはある意味では自然であったと言えよう。(p.26)


本書では随所にクラークが日本人に対して好感を持ち、政府高官などとも関係が良好だったことが語られている。クラークが無批判的に日本びいきとなった点について本書はやや批判的であり、ホイーラーの方が日本の長所と短所を冷静に距離を取って評価できていたと考えられているのが特徴的だったりする。それはそれとして、クラークの日本観の形成に寄与した要因のひとつとして、この引用文のような日本人の欧米に学ぼうとする姿勢があったのは確かだろう。

本書でも言及されている通り、この後数年もすると、この流れは変わっていくし、幕末の頃にも攘夷思想などがもっと強かったため、クラークが来ていた時期は、ちょうどお雇い外国人にとって当時の日本の人々は受け入れる雰囲気が高まってた時期だったということは押さえておいて良いだろう。



ありがたいことに日本では新聞の編集者たちは彼らが印刷する記事について責任を負わされています。そして、彼らのうちのかなりの数がアメリカの新聞編集者たちの大多数がいるべきところ、つまり監獄、に入れられています。私は自由を愛しますし、出版の自由(一定の規制を受けた)の大切なことも信じていますが、多くの点でアメリカでは私達は極端に走りすぎたと思います。私は〔日本で〕公人や公的機関に対する誤解と中傷に基づいた記事に満ちていない日刊新聞を読むことが出来ることをとても愉快に感じています。(p.47)


クラークが言論統制を支持する見解を表明していることについては、私も最初は驚きを感じた。ただ、本書が解説するとおり、クラーク個人の経験に基づく背景がある。つまり、本書によれば、「政府による新聞の弾圧を肯定するような口吻をもらしたのはおそらくクラーク自身がアメリカにおいて新聞による直接間接の批判にさらされ、アメリカの新聞に対してかなり強い敵意を抱くようになっていたためであろう」(p.52)という。これはこれでクラークの発言がどこから発しているかが分かり的確な解説と思われる。

ただ、新聞がマサチューセッツ農科大学(本書ではマサチューセッツ農学校)の経営がうまくいっていないことを批判するのはジャーナリズムとしては当然のことであり、ましてや民主主義のシステムを採用している国で政府に対して監視をしない新聞などほとんど社会的意義がないと言ってよい。疑義を向けられたらそれに応答する(response)のが公的な側の責任(responsibility)であろう。当時のアメリカの報道がどのようなものだったのか、わずかしか知らないが、自らが批判を受けたからと言って言論統制を是認する発言をすることは、自らの立ち位置などを適切に把握できないとしか言えず、適切ではないだろう。(クラークにはこうした反省が十分でない点がしばしば見られるように思われる。)



日本ではクラーク達の来日の前年の1875年(明治8年)6月に新聞条例が改正され、また同時に讒謗律が制定されて政府による言論・出版の取締りが強化された。(p.52)



讒謗律は「ざんぼうりつ」と読むそうだが、「事実の有無に関係なく、他人の名誉を損ねる行為を暴き、広く知らせることを讒毀」として、罪に問うものだったようである。個人的には、事実があっても名誉を損ねたら罪になるというのは、全く理解に苦しむところである。支配する側が勝手に言論を統制できるという体制は、現在の香港(中国が国家安全法を押しつけている)を見ても極めて問題が大きいことは明白。立憲主義と権力分立が重要である所以だろう。


西岡壱成 『「読む力」と「地頭力」がいっきに身につく 東大読書』

 本当に読解力を身につけ、本の内容を自分のものにするためには、「読者」ではなく「記者」にならなければダメなんです。(p.62)


本書の前半部分の内容は、この部分も含めて「いかに能動的に読むか」ということが一つのポイントとなっている。

他人と議論することを前提として本を読むような場合(例えば、大学のゼミやある種のレポートなどを書くために読む場合など)に自然とやっているような読み方に対して、やり方の具体的な形式を与えているという感じか。



 僕の経験則ですが、1テーマで10冊程度読めば、その分野についてある程度のことは理解できます(p.258-259)


私の経験則とも一致する。個人的には、あるテーマについて、3冊程度読めば概要が分かってきて、それを一定レベル以上の内容にまとめていくには10冊程度読む必要があるという感じがしている。


小林純 『続ヴェーバー講義 政治経済篇』

ポーランド人農村住民の生活水準の低さは見聞済みであったから、それだけに、ポーランド蔑視の時代精神にのっかった「人間よりも主観的な幸福感の大きいけだもの」発言の「毒」を見過ごすべきではなかった。肥前氏の批判の正しさを認めたい。ちなみにヴェーバーはその後、第一次ロシア革命勃発(1905年)を機にハイデルベルクでロシア知識人たちと交流し、スラヴ文化の理解を深めた。そして、こうした民族的偏見で差別を受けた側に立つロシア人とユダヤ人だけを受け入れる演習・研究会を開きたいと言っていた。偏見克服の一つの証左としたい。(p.62)


ヴェーバーがポーランド人に対して差別的な発言をしていたことは間違いのない事実である。以上の指摘によると後年、多少はそれが改善しているようではある。ただ、現代の差別に対する感度を持って見たときに、十分に治ったのかと言えば、そこまでは言えないようにも思われる。ただ、多少の改善はあったという一面は押さえておこうと思う。



このプロイセンとは、本書で見てきたプロイセン・ドイツ、つまりドイツ帝国へと導いたホーエンツォレルン家の国を指す。前史がある。神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世の後援のもとに1220年代に始められたドイツ騎士修道会のプロイセン進出(異教徒制圧)は「北の十字軍」と呼ばれ、二百年以上に渡ってプロイセン人を殺しつづけた。(p.73)


北の十字軍については、もう少し詳しく知っておいて良いかもしれない。



行政の活動がなぜ「支配」と思われてしまうのか。おそらく行政行為には裁量の余地があって、それが住民には一義的に理解可能ではなく、役人が勝手にコトを処理している、と見えてしまうのであろう。決定された意思内容を膨大な規則・決まりゴトに照らして施行するには、そういう局面が出てくるのかもしれない。カネの使い方にも制約が多い。不断にそうした業務に携わる役人は、行政内容については政治家よりはるかに熟知しているはず。彼らにはまず公務員試験をパスする頭脳が必要なのだ。行政の問題点を指摘する政治家は、関連する法や規則を変更することで解決策を模索することになる。だから政治家も役人に話を聞いたり、実情を詳しく調べて変更案を提起すればいい。ところが選挙では官僚批判で票稼ぎをたくらむ候補が後を絶たない。政治家の役人批判を聞くたび、筆者は、この政治家は自らの無能さを表明しているのだな、と思うことにしている。(p.133)


この見解は基本的に正しい。現在は00年代頃と比べると官僚批判というか公務員バッシングは酷くはないが、維新など一部にまだその時代の古い感覚を持っている連中は一定数いる。

ただ、現在の政府(安倍政権)が官僚批判をしないのは、内閣人事局を設けたことによって自らの傀儡を幹部に次々と登用していくことができるようになっているためであり、「官僚批判をしている無能な政治家」よりも質が悪い。公務員バッシングや政治改革という90年代から00年代に作られてきた流れがもたらした負の遺産ができてしまっている現在はフェイズが変わっている、ということも押さえておく必要があると思われる。



 2月初め、バーデン公の発議により「正義の政治のためのハイデルベルク協会」がマックス・ヴェーバー宅で設立された。西欧諸国の真実ならぬ戦争責任論の宣伝に対抗することを目的とし、2月7日の声明で、戦争責任問題を客観的に解明するための非党派的・中立的な調査委員会の設置を要求した。協会は「ヨーロッパの戦争を行った大国すべてに共同の責任」があるとし、ドイツへの処罰を隠れ蓑に(自ら断念したはずの)「帝国主義的戦争目的」の実現をはかることに抗議した。協会の活動はヴェルサイユのドイツ講和代表団の基本線に一致していたので、外務省にも好意をもたれた。その結果、協会のヴェーバーら4人が「講和交渉委員会」の審議に招かれ、またこの委員たちはパリ講和代表団の随行員に任命された。(p.194)


ヴェルサイユ条約の講和にヴェーバーが参画していたことは当然知っていたが、その経緯がよくわかった。



松下貢 『統計分布を知れば世界が分かる 身長・体重から格差問題まで』

 本章では、複雑系に共通する特質として、系の要素が例外なくそれぞれの歴史を背負って現在の姿をとっていることに注目する。その結果として、対数正規分布が現れることを議論してみることにしよう。(p.78)


複雑系に共通する第一の特徴は歴史性であると本書は指摘する。確かに、複雑系が複雑である所以は、まさに異なる時点では系が全く違う形をとり、そこに単純な規則性が見出せないことだと言えよう。ここから対数正規分布が導き出される論理は、私としては、複雑ネットワーク研究とオートポイエーシスを繋ぐイメージを提供してもらったと感じており、極めて大きな収穫だった。つまり、どちらも時間の経過とともに分岐するシステムが作動することで形成されてくるものを扱っているという点で共通していることがはっきりした、ということ。この共通性に着目することで、より物事の本質的な部分をつかみやすくなったように思う。



 もし統計性を生み出す原因が乗算過程であれば、生じる結果はいろいろな要因の掛け算で表されるが、対数をとった後で見ると統計性を生み出すばらつきの原因は足し算となり、加算過程とみなされる。したがって、対数をとった後に正規分布が得られることになり、対数正規分布になるというわけである。
 こうして、複雑系の共通した特徴が歴史性にあり、歴史性が乗算過程的であるとすれば、複雑系ではその統計性を特徴づける最も自然な分布関数は対数正規分布だということができよう。このようなわけで、対数正規分布こそが複雑な系全体の統計性を見わたす際の基準としてふさわしいと考えられる。(p.83-84)


乗算過程とは、本書によると「前の段階が前提となってその段階があり、それがまた次の段階に影響しているという特徴がある」というような掛け算的な過程であるという(p.81)。

例えば、ある人の所得が決まるための過程は以下のように説明されている。

出生地→家庭環境→出身幼稚園・小中学校・高校・大学・学部・大学院→就職→所属部署→成果→役職→ある人の所得

これらのそれぞれの実現確率が掛け合わされて積み重なっていくことである人の所得が決定されていく。つまり、現在の状態が出現する確率を求めるとそれぞれの段階の出現確率の積となる。掛け算で積み重なっていくものは対数正規分布になる、というわけだ。

個人的には久しぶりに「目から鱗」という感じがした部分である。



図6-4の1965年や2015年に見られるような極端な二極分化は、先進国の中では日本だけの特徴である。(p.132)


都道府県別の人口が日本では対数正規分布にならず、2つの対数正規分布が組み合わさった形になっている。これは都道府県人口の二極分化が日本で起きていることを示すという。上の個所は、この特徴が先進国では日本だけに見られるとの指摘である。

「国土の均衡ある発展」というフレーズがかつてあったが、その時代からすでに「均衡なき発展」が続いているのが日本の特徴だったわけだ。この要因がどこにあるのか詳しく知りたい。

松下はこれに続く箇所で「安易に道州制に賛成すべきでない理由の一つがここにある」(p.134)と述べるが、妥当である。データなり現実なり事実といったものをある程度きちんと見れば、こうした結論に至らざるを得ない。20年近く前に議論され実行されてしまった「平成の市町村合併」も同じ過ちを繰り返したものと言えよう。



 このように、図6-7の右裾に見られる対数正規分布からの外れは明らかに“The rich get richer.”による結果であり、平等な競争によるものではない。したがって、このような所得により重く課税するのは当然のことである。ここに累進課税の正当性の根拠があるということができる。
 アメリカの有名な経済学者J.K.ガルブレイスの著書『ゆたかな社会 決定版』(鈴木哲太郎訳、岩波現代文庫)の361ページに、学校や病院などの公共施設への支出に関連して、「金持は富みすぎているかどうかという昔ながらの解決不能の問題」という件がある。しかし、本節の視点に立つと、対数正規分布からべき乗分布に移行する点が普通の人々と金持との境目とみなすことができ、「金持は富みすぎているかどうか」は解決可能な問題である。消費税は貧しい者により重くのしかかる、逆累進的な課税である。したがって、べき乗分布を示す高額所得者への累進課税を実行するのが先であって、消費税はずっと後回しにすべきである。
(p.135-136)


日本の個人所得の格差についての叙述。課税に関する見解については同意見である。

また、対数正規分布からべき乗分布に移行する点が普通の人々と金持との境目というのは、このエントリーの2つめの引用文で言われている「対数正規分布こそが複雑な系全体の統計性を見わたす際の基準としてふさわしい」ということが意味することであろう。確かに、ここに特異点があるのだから、ここが境目になるというのはかなりの説得力を持つ。別の観点を持ち出して反論することは可能かもしれないが、それでもデータが折れ曲がることの原因を別の根拠を示して批判しない限りは、本書の主張は基本的に維持されることになるだろう。

ちなみに、本書の図6-8でアメリカの個人所得のランキングプロットを見ると10の5乗すなわち、10万ドルあたりが境目のようである。



千葉芳夫 『ヴェーバーの迷宮 迷宮のヴェーバー』

 また、ヴェーバーの学問論を対話あるいは討議の理論として解釈できるかどうかも疑問である。むしろそれは、孤立した行為者に準拠するモノローグ的なものなのではないか。(p.45)


方法論的個人主義がヴェーバーの作品にはかなり貫徹していることを考えると、少なくともヴェーバーの作品はモノローグ的なものと捉えるのが妥当であろう。学問論についても、多くは方法論的な著作であることを考えれば、彼の方法論的個人主義を主張したり前提して議論が組み立てられていることから見ても同様であろう。

このモノローグ的な理論である点は、ヴェーバーの作品の最大の問題点の一つであると考える。

ヴェーバーの作品では、モノローグ的な論理構成を利用することによって、実証的なデータを十分に使わずに議論を組み立てることができている。これに対して、例えば、現代では行動経済学などでの知見が、ヴェーバー当時とは比較にならない水準で経済的な行為の理解を拡張している。行動経済学で示されてきた様々な規則に照らしながら読むと、ヴェーバーがプロ倫で描いた経済倫理に関する議論は十分な説得力を持たないように思われる。(具体的にこの視点からヴェーバー・テーゼを批判することは、少なくともヴェーバー研究としては何某かの新しさをもたらすものになるかも知れない。少なくとも本として出版されているものの中にはそのような視点で扱っているものを私は見たことはない。)



 彼の議論には奇妙とも思える対比が見られる。『政治論集』などに収められている時事的、政治的発言においては、彼は官僚や官僚制を激烈に批判している。しかし、「支配の社会学」や「支配の諸類型」では批判的な視点はあまり表面に現れてこない。(p.131)


確かにその通り。


飯島渉 『感染症の中国史 公衆衛生と東アジア』

 中華民国政府はさまざまな面で日本をモデルとした国づくりを進めようとしました。しかし、大総統に就任した袁世凱が急速な中央集権化政策を進めたため、各地でそれに反対する動きが起こりました。(p.102)


中華民国政府の政策と日本の政策との関係には興味がある。台湾での中華民国政府の政策も日本をモデルとした政策や制度は、国民皆保険制度などそれなりにあるように思う。戦前の中国に政権があった時の中華民国でも日本をモデルとした政策や制度の設計が行われていたというが、それらは中華民国政府の中でどのような位置づけにあったのかということを知りたい。



 コレラが国家や社会に与えた影響を考えるとき、最も重要なのがコレラ対策として進められた水道事業の整備です。これはヨーロッパ諸国から進められます。ロンドンでコレラが流行したのは1832年のことです。濾過機で給水した地域に患者が少ないことがわかると、各地で大規模な都市計画とともに水道が整備されていきますが、その目的のひとつはコレラ対策でした。
 水道事業の整備には莫大な資金が必要となります。この結果、衛生行政の役割がしだいに拡大し、政府が積極的に関与する体制になっていきます。これは「国家医療」(state medicine)と呼ばれます。感染症対策、とくにコレラ対策が政府の役割を肥大化させたことは、感染症が歴史に与えたインパクトとして見逃すことのできない事実です。(p.127)


感染症対策が政府の役割を肥大化させたというのは、本書を読むまで考えたことがなかった観点だった。統治と感染症対策とは意外なほど深い関係があるということに気づくことができたことは、本書から得た収穫だった。

コロナ対策が世界的に行われているが、コロナ対策以後の時代は権威主義的な政府が増える可能性がある。人権や個人の自由を制限できるような制度が創設されたり、使われる事例となることなど様々な経路を通ってそれが実現しうるからである。すぐに急速に進むかどうかということではなく、例えば、5年や10年後に権威主義的統治を志向する支配者が表れたときに、コロナ時に創られた人権や自由を制限できるような制度を活用してしまい、それに歯止めがかけられない事態などが想定される。



 台湾総督府のマラリア対策を回顧するなかで、堀内次郎(台湾総督府医学校教授・校長)や羽鳥重郎は、「欧米人が新領土を新しく統治していくには、先ず宗教家をやってそうしてその方から段々宣撫していくのが普通ですけれども、日本人にはそういう便宜がありませんので医者を中心として」と述べ、水利事業などの土地整理やインフラの整備もマラリア対策を理由として実施されたと指摘しています。
 マラリア対策は日本の台湾統治の根幹であり、台湾総督府が台湾社会、とくに原住民社会を含む農村社会との関係を築く重要な回路だったのです。
 台湾の医療・衛生事業は、植民地統治のプラスの部分とされることがあります。たしかに、マラリアがある程度抑制されるようになったことは事実ですが、他方、台湾総督府が血液検査という回路を通じて原住民を含む台湾社会への介入を強めたことも事実なのです。(p.159-160)


安易に植民地統治を称揚するのは慎むべきだということがこうした指摘からもわかる。



 その意味では、戦後の日本は、近代日本の植民地医学をほぼ継承しました。しかし、戦後の感染症や寄生虫の研究の基礎に植民地医学があったことは、封印されます。そして、中国も日本住吸血虫対策に日本の植民地医学が関係していたことはこれを封印したのでした。(p.187)


こうした隠された歴史を明るみに出すことは重要である。


ポール・キンステッド 『チーズと文明』

 18世紀にはロードアイランドやコネティカットでもアフリカ人の奴隷がたくさんのチーズを製造していた。こうしたチーズの多くが西インド諸島の奴隷の食糧として輸送され、モラセスと交換されると、ニューイングランドでラム酒製造に使用された。そして、ラム酒はアフリカで奴隷を購入し、西インド諸島へと送り、そこでモラセスと取引する……、というサイクルが続くのだ。ロードアイランドはこうした、いわゆる三角貿易のアメリカ植民地のリーダーだった。しかしマサチューセッツとコネティカットもある程度これに加わっていた。(p.272)


チーズも三角貿易に関係していたというのは、考えたこともなかった。ラム酒が果たした役割も調べてみると面白そうである。