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アヴェスターにはこう書いている?
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アンドリュー・ドルビー 『チーズの歴史 5000年の味わい豊かな物語』

 1948年頃、終戦後の「ヤミ市」全盛の国内経済は駐留米軍とその家族相手の業者を生み出し、また、米軍ルートからドロップアウトした「米軍放出物資」なるおのが大いにもてはやされた。
 米軍の携行食であり、栄養バランスの良いプロセスチーズ(クラフト・チーズ)は、食糧難の当時としては格好の商材であった。このアメリカ軍が持ち込んだプロセスチーズが、日本のチーズ文化のリード役になったのは当然のことであった。このことが、プロセスチーズを日本の直接消費チーズの主流にした理由である。
 一方、ナチュラルチーズを一般市民が口にできるようになったのは1951年になってからである。連合国側と日本との講和条約が正式調印され、外国との輸出入ができる「独立国」に生まれ変わったためである。(p.175)


以上は本文ではなく、村山重信氏による解説からの引用。ある意味、80年代頃までのチーズと言えば、プロセスチーズばかりで、味も金太郎飴的に同じようなものがほとんどだったように思うが、その基礎となった事情が少しばかり分かったように思う。


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胡口靖夫 『シルクロードのに暮らす サマルカンド随想録』

 私たち外国人教師は、大学との契約によって政治・経済・宗教に関する活動や発言を禁じられているから、それらについて論評できる立場にはない。学生たちの話や首都タシケントの日本大使館から送られてきたメール情報を記すので、それらからつとに知られているカリモフ大統領の後継者と目されている娘を巡る政治状況を推察していただきたい。(p.58)


ウズベキスタンが日本のメディアで紹介される際、「シルクロード」(歴史のロマン)とか「親日的だ」とか「ナボイ劇場は日本人が建てた」と言った話が取り上げられがちである。情報統制があり、実質的な専制的な支配が行われているという点は等閑に付されることが多い。中国やイランと大差ない、というか私見ではイランより専制的(民主化の程度が低い)なのではないかと思えるのだが、そういうイメージを持たれないような扱いになっている。

その点、本書はナボイ劇場にまつわる「神話」に対して批判的に論評したり、言論をめぐる状況についても問題があることを示唆するなど、ある程度既にウズベキスタンに興味を持っている人に対しては、マスメディアやガイドブックなどで流れてくる情報に対して批判的なスタンスを取ることを可能にする言説を展開している点が評価できるように思う。



しかし、ソ連崩壊による1991年の独立以後も依然として続いている国民の生活苦は想像に難くない。
 その解決策の一つが海外への出稼ぎや移住である。行き先で多いのは、言葉やビザの問題もありやはりロシアである。ついで韓国も多いと聞いている。日本はビザの取得が難しいので少ない。……(中略)……。
 ただ、この海外への出稼ぎや移住による送金が、ウズベク経済を見るキーワードらしいことに最近気づき始めた。確かに国民の生活苦は相当なものらしい。けれども、前に述べた盛大な結婚式の祝宴の「ナゾ」が、これで解けるかもしれないと考えている。
 ところで私には、もう一つ「ナゾ」と思えることがある。昨今、街中でステータス・シンボルと言われている「ネクシャ」などの新車が増加していると思われることである。……(中略)……。
 所得が低いにもかかわらず国内市場における好調な販売実績を合理的に説明するのは困難である。ジェトロ・タシケントのS氏のご教示によると、「統計には表れないヤミ経済が相当規模存在することなどの理由が考えらえる」という。ヤミ経済の実態の大部分が、出稼ぎや移住者からのヤミ送金ではないか、と私は考えている。「幸運」をつかみ余裕のある生活をしている富裕層と、そのような恩恵に浴さない貧困層との二極化が確実に進行していると予測される。(p.60-61)


出稼ぎや移住者からの送金が大きなウェイトを占めるヤミ経済という見方は、確証まではないが私にも確からしく思える。


石毛直道 『世界の食べもの 食の文化地理』(その2)

 箸と匙を使用して食事をする風習は、戦国時代ごろらおこなわれるようになった。古くは匙で副食ばかりではなく飯も食べていたものが、明代から飯、副食物を箸で食べ、匙はスープ類専用の道具として使用するようになった。箸をつかう習慣は、ヴェトナム、朝鮮半島、日本でも採用されたが、現在のヴェトナムは中国式に箸、匙をつかいわけ、朝鮮半島では中国の古い習慣を残して飯も匙で食べ、椀が汁物の容器として発達した日本は、箸だけで食事をする。
 箸を使用することから椀形の食器がよくもちいられるようになった。中国は陶磁器の生産技術が発達した国であるので、陶器、磁器の食器が世界のなかでいち早く普及した。
 昔は一人前ずつ食物を盛りわけ、膳状あるいはランチョンマットのような食卓に並べて、床のうえに座って食事をしたもののようである。その食事方法は朝鮮半島や日本にうけつがれた。宋代に椅子、テーブルの生活が普及することによって、飯とスープは個人専用の椀に盛るが、副食物はおおきな共用の食器にいれて、直箸でつつき合う配膳法に変化したものであろう。(p.66)


食べ物だけでなく食器や作法などの歴史もなかなか面白そうである。



 ミクロネシアでは、日本の統治時代に島民が米の味を覚え、現在ではタロイモやパンノキの実の主食よりも、金さえあれば輸入米を買って食べることのほうが上等であるとされている。また、オセアニアのどこでも街ではパンが売られている。(p.125)


植民地支配の影響は食生活という身近なところにもかなり強く残るものがあるようだ。



酢を利用して酸っぱい味つけをしたすし飯を材料にした食べ物すべてが、すしであるということになったのだ。古代の保存食品は、インスタント食品に変化したのである。
 すし屋は客の顔をみてからつくりはじめ、一分もしないうちにすしを供してくれる。このような即席のスナック食は、人びとが忙しく働く都市の生活様式にあうものとして歓迎された。19世紀初頭の江戸の街には、一町内に一軒以上のすし屋があったといわれる。(p.161)


寿司は、古代のなれずし(飯は食べない)から始まり、漬ける時間が短い「生なれ」になって飯を食べるようになることでスナック食となった後、上記のような変化を遂げてきた。本書の最初の原稿が書かれたのは80年代頃であり、まだ回転寿司はなかった。回転寿司ではさらにインスタントというかスナック食というか、そうした性格が前面に出ているように思われる。



 激辛はその味が好きだということよりも、それほどまでに辛いものを食べたという話題を提供するために食べられているふしがある。つまり、食の本質にかかわる部分ではなく、食にまつわる情報として激辛がもてはやされるのであり、これも「食のファッション化」を象徴する現象としてとらえられる。(p.203)


80年代頃に流行した「エスニック料理」や「激辛ブーム」についての批評だが、現在でもこの傾向は大きく変わっていないように思われる。



 江戸=東京を起源地とする握りずしが全国制覇をしたのは、20世紀になってからのことである。とくに、外食での米の使用が認められなかった戦中・戦後の食糧難時代の統制経済のもとで、現在の握りずし全盛時代の基礎ができたのである。その頃、すし屋に米をもってゆき、加工賃を支払うと、握りずし五個と巻きずし五切れを一人前として交換するという政令が施行された。東京のすしを基準につくられたこの法律のために、全国のすし屋が握りずしをつくるようになったのである。(p.216)


現在からは想像も出来ないような経緯であり、興味深い。


石毛直道 『世界の食べもの 食の文化地理』(その1)

 搗き餅つくりは、西南中国の少数民族と、それに接するインドシナ半島山岳部、朝鮮半島、日本に分布するが、これらの地域は中国文明の辺境地帯にあたる。華北平野で本格的なコムギ栽培が導入されてのち、石臼とともに粉食文化がひろがり、餅つくりの方法が搗き餅から粢餅に変化したのではないかと考えられる。この仮説にしたがえば、中国の影響がつよかった沖縄をのぞく日本には、古い文化である搗き餅の伝統が残り、朝鮮半島は粢餅と搗き餅が共存する場所となった、ということになる。(p.34)


文化の周辺地帯で古い文化が残っていくというのは、他の様々なもので見られる現象であり、餅の作り方についても残っている地域などから見ても、妥当な仮説であると思える。



 日本の伝統的製麺技術には、ネンミョンのように押し出してつくる製麺法はなかった。いっぽう、朝鮮半島にはそうめんづくりの技術が欠如していた。練りあげた小麦粉を一本の長い紐にして、二本の竿のあいだにかけて引きのばすのが、そうめんづくりの原理である。そうめんは中国南部に発達した製麺法である。それぞれの民族の地理的位置が、中国に起源する麺づくり技術の導入のちがいとなったものだろう。(p.36)


日本に対する中国からの影響を見る時、地図で見ると一見遠く見える割には中国南部からの影響は意外と多いように思う。



 さきにのべたように、18世紀後半にトウガラシが普及することによって、現在のようなキムチができあがったのである。トウガラシの普及以前には、キムチに辛い味をつける材料としては、サンショウがもちいられていた。(p.43)


山椒で味付けされていたキムチというのがどんな味なのか気になる。四川省の本場の麻婆豆腐のような痺れる感じなのかな、と想像する。



 塩辛は中国の古代の文献にもあらわれ、明代あたりまではよく食べられていたようであるが、中国人の食習慣がしだいに生ものを食べなくなるにつれて衰退し、現在では地方的に限定された食品になってしまった。(p.43)


中国で生ものを食べなくなったのは何故なのかが気になる。



 日本では中世以来マニュファクチャーによる酒造が発展したが、朝鮮半島では酒は家庭でつくるのを基本としたので、産業としての酒造は発達しなかった。そこへ、日本の支配下における酒税法の制定などのできごとがかさなり、自家醸造が密造ということになると、伝統的な酒造りの衰退を経験せざるをえなかった。薬酒にとってかわって日本酒製造の技術でつくられる酒が進出し、単式蒸留法による焼酒が、連続式蒸留法による日本の甲類焼酎の製法に変化したり、ビールがつくられるようになるなどの変化が起こったのである。(p.46)


日本による植民地支配は朝鮮半島の酒造にも大きな影響を及ぼしたことがわかる。日本では中世からマニュファクチャーで酒造していたというが、自家醸造と工場での醸造は、世界の歴史の中ではどのような分布だったのだろう。例えば、イランなどでは現在も酒は公には飲むことができないが、多くの人が自家醸造で作っているというのを現地の人から聞いたことがあるが、こうしたことを多くの人がやっているのも自家醸造の伝統がある程度残っていたからこそできた話であると推測するが、この仮説の真偽を是非調べてみたいところである。



 中国では、唐代(618~907年)から北宋代(960~1127年)にかけて西方から椅子、テーブルの生活が導入され、ひとつの食卓を複数の人びとがかこむ食べ方に変化した。そして、飯と汁は個人別によそわれるが、おかずは共通の食器に箸をのばして食べることになった。また、「時系列型」の配膳法がなされるようになり、宴会などの食事では、時差をもってつぎつぎと料理が配膳されるのである。(p.54)


イスとテーブルの生活は西方のどこ起源なのだろうか。現代の西洋世界から伝わったものとはちょっと思えないところがある。この時代の西欧はかなり文化的には遅れた地域と言うことができ、経済力も技術力もユーラシアの他の地域より劣っていたはずだからである。当時の中東や中央アジアにそうした生活文化があったのだろうか?遊牧民ではなくオアシス都市の住民の生活様式?(現在の彼らの生活様式とは相違があるように思われるが。)



 日本でも奈良・平安時代の貴族の正式の食事には匙がもちいられたが、民衆には普及しなかった。木椀が食器として発達した日本では、椀を口につけて汁を飲むことが作法となったのである。現在の中国では、飯を食べるのに匙をもちいるのは、ポロポロした炒飯や粥を食べるときにかぎられる。しかし明代になるまでは、普通の飯も匙ですくって食べる風習があった。朝鮮半島の食べ方は、この中国の古い食事の方法を伝えるものである。(p.56)


箸、匙、椀の関係はなかなか興味深い。



 食べ残すことは非礼ではない。むしろ、すべてを食べつくすのは「いやしい」とされる場合がある。家庭での伝統的な食事の場合、食べ残すのが礼儀とされていたのである。家長が食べたあと、残ったものに盛りたして男の子たちのグループの食事にまわしたり、家族が食べ残したものにたして使用人の食事にまわすといった、上位の者から下位の者への食べ物の「さげわたし」の風習があったからだ。つぎに食べる者のことを配慮しないで全部食べてしまうことは、貪欲とされたのである。(p.57)


このような作法の地域は世界に今も多いが、その理由が納得できた。


出口治明 『グローバル時代の必須教養 「都市」の世界史』(その2)

 このような伝統があるので、ウィリアム一世はイングランドを支配すると、全土の状態を把握するために、早速に土地台帳(ドゥームズデイ・ブック)をつくらせました(1085)。この土地台帳は興味ある事実を教えてくれます。この台帳には当時の有力者の実名が200名近く記録されているのですが、この中でアングロ・サクソン系の名前は10名前後、残りはすべてフランス系の名前だったのです。
 フランス人といってもフランク族につながる生粋のフランス人ではなく、ウィリアム一世がノルマンディー公国から引き連れてきた元ヴァイキング、ノルマン人の豪族たちです。彼らがイングランド貴族の大半になっていったのです。僕たちはイングランドを「アングロ・サクソンの国」と呼びますが、そう呼ばれる国は11世紀にはすでに伝説化していたのです。(p.274)


ノルマンディーから来た元ヴァイキングのノルマン人たちがイングランドの貴族の大半を占めるようになったというのは重要な指摘。ただ、「アングロ・サクソンの国」が伝説になっており、実情とは違うという類の指摘は、被支配層が誰だったのかということを考えると、そう簡単には言えないのではないかと思われる。その支配領域に実際に多く住んでいたのが誰だったのかという観点からみれば、「アングロ・サクソンの国」と呼ぶことはできるように思われるからである。

もし、上記引用文のような言い方が適当なのだとすれば、清朝は女真族の国であり漢民族の国ではないことになるし、一つ前のエントリーで指摘されていた隋や唐が鮮卑族から出たのだということから、隋や唐は鮮卑族の国ということになる。これらは確かに(前のエントリーでも唐の時代や国の特徴が支配層の志向と関係が深いと指摘されていたように)事実の一面を正しく捉えているとも言えるが、被支配層は支配者が変わっても日常の生活を送ってきたことを考えれば、支配層だけに注目して国を特徴づけるのも問題を含むと言えるだろう。



当時はコロンの新大陸到達後、スペインが新大陸の金や銀を独占し、イングランドの進出を許しませんでした。女王は対抗策として、金銀や新大陸の産物を積んでヨーロッパに帰ってくるスペイン船舶を襲撃する目的で、海賊行為を認めました。スペインの新大陸から帰ってくる船は、スペインの港を目指すのではなく、ネーデルランドのアムステルダムやロッテルダムに帰港しました。当時のネーデルランドはスペインの領土だったのです。大西洋側にはポルトガルもあり、スペイン本国に良好な港がなかったため、ネーデルランドの港に帰港していたのです。イングランドの海賊は、ネーデルランドの港に向かうスペイン船舶を襲ったわけです。
 この海賊行為は女王が公認したものでした。すなわち海軍としての行動だったのです。非道のようにも思えますが、新大陸に勝手に上陸して先住民を迫害して略奪したスペインと、そのスペインの船を襲うイングランドと、どちらを悪とするか、断言しきれない問題でもあります。海軍は同時に海賊でもあった時代で、別にイングランドに限られたことではありませんでした。(p.290-291)


新大陸と往来していたスペインの船がネーデルランドの港に帰港していたという点は、スペインからオランダへと世界システムの覇権が移っていったことの大きな要因のひとつだったのではないかと思われ、興味深い。

また、海軍と海賊の関係も、掘り下げて見ると面白そうなテーマであると気づかされた。

ただ、スペインとイングランドとどちらが悪かという問いはミスリーディングであろう。どちらも悪に決まっているからである。本書の叙述はイングランドの襲撃行為を正当化しようとする方向に流れているという点は指摘しておく必要があろう。



フランス革命のとき、王室が倒れたことで王急に召し抱えられていた宮廷料理人たちが失業し、パリ市内でレストランを開店したことが、パリを美食の都にしました。また王室や貴族の衣装をデザインしていた人たちもパリ市内にブティックを出さざるを得なくなり、ファッションの都パリが誕生する契機となります。このように共和政となったことで、パリの市民文化はいち早く豊かになりました
 そして多くの芸術家たちもパリに集まってきました。それはなぜかといえば、パリには、他の皇帝や君主がいる街にはない、市民だけの街の自由があったからです。(p.349-350)


パリの華やかさ(美食、ファッション、芸術)は、共和政となったこと(王がいなくなったこと)にその大きな要因があった。


出口治明 『グローバル時代の必須教養 「都市」の世界史』(その1)

 二世紀頃から地球は寒くなり始めました。そのためにユーラシア大陸の北方に広がる草原地帯では、多くの部族が南に移動し始めました。北の部族から順に南に移動してくるので、北から南へと部族移動の玉突き現象が始まり、膨大な部族の大移動が起こりました。
 この大移動は南下して天山山脈にぶつかります。ここで東西に分れて、東に向かった集団は中国において、五胡十六国と呼ばれる諸国家の興亡する時代をもたらします。西に向かった集団が、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」であると、教科書に出ていました。しかし今日では、ゲルマン民族と分類されていた集団の中で共通項が見出せないこともあって、「諸部族の大移動」と呼ぶ学者が増えています。(p.23)


地球の気温の変化が様々な歴史現象の背後で構造的な要因として作用していたことが、本書ではしばしば言及される。これは比較的新しい歴史学の考え方だが、私もこうした考え方についてはもう少し勉強してみたいと思う。場合によっては、かなりの説得力を持つ説明がされることがあるし、バラバラのものと思われていた別々の現象(ここの例では諸部族の大移動と五胡十六国)が、実は同じ背景因が作用して生じたものだと理解できる点が面白い。



 地球は十世紀後半から暖かくなり始めました。そのため食糧が増産され、人口も増加しました。ドイツやフランスでは、子どもが増えた結果、土地が不足したり、人々が職にあぶれるようになりました。要するに、ユースバルジ(若年層の膨張)が生じたのです。(p.37)


このことが十字軍の派遣へと繋がっていく。11-12世紀頃からヨーロッパが力をつけ始めたことと関係が深そうであり、建築のロマネスク様式や十二世紀ルネサンスなどとも関係があると思われる。



 16世紀前半のヨーロッパでは、フランス王のフランソワ一世とドイツ・スペイン王ハプスブルク家のカール五世が、全面対決していました。ハプスブルク家の本貫の地はオーストリアです。したがってウィーンを狙っているスレイマン一世は、フランソワ一世からみれば敵の敵なので味方、ということになります。そこで両国は同盟を結びました。時に1536年。
 こうして両国は協力関係に入りましたが、当時の国力をみるとオスマン朝が圧倒的に上です。そこでスレイマン一世は、彼からみれば貧しい国に過ぎないフランスに、カピチュレーションと呼ばれる外交上の特権を与えました。帝国内であってもフランス人の裁判はフランス人にまかせる領事裁判権、帝国内での通商や居住の自由、そして関税もフランスに任せる通商特権などです。スレイマン一世が強国の君主として、小国に恩恵として与えた最恵国待遇でした。やがて、このことを聞き知ったイングランドやネーデルランドなども、この最恵国待遇を求めました。「貧しき我が国にもどうぞお恵みを」というわけです。
 オスマン朝は大国らしく、鷹揚にこの要求を認めました。そして、この条約にたいへん旨みがあることを知った西欧列強は、カピチュレーションの内容を世界に広げていきます。日本が幕末の頃に各国と結んだ不平等条約も、その一例でした。(p.42-44)


なるほど。欧米諸国は最初は弱者として恩恵を被る形でカピチュレーションを与えられていたが、時代の変遷とともに経済力や軍事力を高めていき、他国よりも強い経済力・軍事力を得た後には、形式的にはカピチュレーションと同じ権利を自分たちより弱い国々に押しつけていったということか。興味深い。



人が旅をするときは、東西に移動するほうが南北移動より楽です。気候の変化が少ないからです。東西に広がるユーラシアの大草原地帯が民族移動の大動脈(草原の道)になったのも、同様の理由からでした。(p.62)


東西移動の方が南北移動より楽だというのはその通り。札幌の雪まつりに台湾の友人が子連れで来たとき、衣服が濡れると体温を奪われるので、北国の人間は自然と雪で衣服が濡れないように気を遣うものだが、そうした「北国の生活の知恵」を十分に体得していない彼らの服装や防寒装備の貧弱さと、そのことにあまり気にせずにはしゃいで、びしょ濡れになっていたことが想起される。



 古い街を壊して新しい街をつくるのではなく、古い街の隣に新しい街をつくってきたカイロという都市は、時の流れに中断されることなく、歴史の遺産を見られる都市かもしれません。(p.145)


以前、カイロのイスラーム建築を見に行ってきたことがあるが、古代の街、中世の街、近代の街がそれぞれ隣り合うような形になっていた。この個所はその時の私の実感を要約してくれているように感じられた。



 なお東西の交易路と言えば、天山北路(天山山脈の北側のルート)や南路に代表されるシルクロードがわが国では有名ですが、東西交易の大半は往来が容易な海の道や草原の道を通じて行われており、シルクロードは商品ではなく、むしろ人(玄奘など)や情報が行き交う道であったようです。(p.149-150)


なるほど。確かに長距離の交易ということで言えば間違いなく海の道や草原の道がメインだっただろう。シルクロードは比較的短距離の交易路であった。非常に遠くのものが届いた場合でも、間に何か所もの都市が介在して届いたものが多い。逆に言えば、オアシス都市が点在していたこともあり、その間での人の往来はしやすかったと言えそうである。海の上や草原の上では人口密度が低いので日常的には情報は伝達されないが、いわゆるシルクロードは日常的な交易や人の往来があったと思われる。



ところで、隋と唐は同じ一族です。しかも漢に代表される漢民族ではなく、異民族です。「五胡十六国時代」に登場した遊牧民の中に鮮卑という部族がいました。この鮮卑の中に拓跋部という協力で優秀な一族がいました。この一族は、ちょうどローマ帝国に押し寄せた諸部族同士が相争う中でフランク族が勝ち抜いたように、五胡十六国時代を勝ち抜き、南北朝時代に北魏という強力な国家を建てました。北魏は、最終的には中国を支配するために拓跋部全体を中国の文化に同化させ、漢民族のように振る舞います。この北魏が分裂抗争するプロセスの中で、拓跋部の中の一族が隋を建国し、さらに唐を建国したという歴史があるのです。
 余談ですが、隋や唐の前身は遊牧民なので、遊牧民に対しては友好な関係を希求します。したがって、始皇帝が築き始めた万里の長城という、遊牧民の侵入を防ぐための大城壁の建設に、この二国は関わっていません長城を築いた王朝の代表は、漢民族の明でした。今日まで残っている長城の大半は明代のものです。(p.183-184)


隋は統治期間が短いので別としても、唐がどのような王朝だったかを考えるにあたっては、この王朝が遊牧民出身であるということを考慮に入れると理解しやすいことが多いように思われる。領土が西に長くアッバース朝と接するまでであったこと、それと関連して長安などが非常に国際色豊かな都市だったとされること、唐三彩なども西方から伝わった技術とも言われていたり、ペルシア人の形をしたものなども多いこと(なお、個人的には唐三彩の質感は中東の陶器と似ているように感じている)など。



節度使のいた役所は幕府と呼ばれました。この幕府の呼称が、そのまま日本に入り鎌倉幕府や室町幕府という呼び名となり、日本では幕府の最高権力者のことを将軍と呼ぶようになりました。将軍とは征夷大将軍のことです。本来は陸奥の蝦夷を征討するのが、征夷大将軍の役割でした。ところで夷とは、もともと中国が東方の蛮族を呼んだ呼称です。従って節度使と征夷大将軍はよく似た役割を担っていたのです。(p.184-185)


なるほど。



「陛下、いっそ鄭和艦隊を潰してそのお金で万里の長城を増築しませんか」
……(中略)……。
 大国明にしては、愚かな発想でした。海賊がいなくなって安全となったインド洋に、ポルトガルから150トンほどの船3~5隻に150人ほどの乗組員を乗せてヴァスコ・ダ・ガマがやってきたのは、1498年でした。彼らは、その貧弱な船団で無事にインド西海岸のカリカットに上陸し、領土としました。もしも、鄭和艦隊がいたら、決してこの行動を許さなかったでしょう。このヴァスコ・ダ・ガマのインド到達が、東南アジア諸国、インドそして中国自体が植民地化されていく、大きな契機になったのです。
「万里の長城など造っても、受け身の防備のみで遊牧民の攻撃を避け切れるものではない。鄭和艦隊を潰すな」
 誰かそう進言する人間がいたら、ポルトガルやスペインなど西欧諸国の海上帝国は現出しなかったかも知れないのです。(p.212-213)


鄭和の艦隊が活動を続けていればポルトガルやスペインの進出を防ぎ得たのではないかという指摘は興味深い。インド洋を安全な海にした後、活動をやめたことで、西欧からの侵入がしやすくなった上に、彼らに侵略行為による拠点の獲得をも許してしまった、というわけだ。まぁ、いつまでも活動し続けられるとは考えられないが、それでも当面活動を続けていれば歴史はそれなりに変わっていただろうとは言えそうだ。



 ところで日本は、1937年の盧溝橋事件から1945年の敗戦までの八年間中国と戦争を行い、その間北京を占領していました。読者の皆さんのお父さんやお祖父さんの中には北京生まれの人がいるかもしれません。(p.217)


北京を占領していたということについては、あまりイメージがないかも知れない。大同の雲崗石窟なども日本が占領していたのだから、それより近い北京が占領されていてもおかしくはないのだが、あまり語られないように思う。



トマ・ピケティ 『不平等と再分配の経済学 格差縮小に向けた財政政策』

 言い換えるならば、学校教育を成功させるチャンスは、その教え方の質よりも、クラスの仲間の「質」にいっそう依存している。この点はとくに、初等・中等教育のレベルで示される。苦しい生活状況にある郊外に、大学教授資格(アグレガシオン)を持った教員を派遣することは、学校教育の成功をはっきりと改善させることにほとんどならない。他方で、生活困難な状況にある郊外の高校生をパリの高校に送り込むことは、かれらの成功する確率を著しく高めるチャンスを強く与える。(p.132)


教師よりもクラスの仲間の質が重要というのは、私の実感とも合致している。


リチャード・セイラー 『行動経済学の逆襲(下)』

どの管理職も、自分が責任を負うことになる結果については損失回避的になる。組織では、人間が生まれながらにして持っている損失回避性が、報酬と懲罰の体系によって悪化することがある。多くの企業では、大きな利益をあげても報酬は小さいが、それと同じ規模の損失を出せばクビが飛ぶ。このような条件だと、最初はリスク中立的で、平均的な利益を見込めるリスクならとりにいこうとする管理職でさえ、やがて非常にリスク回避的になっていく。こうした組織構造は、問題を解決するどころか、いっそうこじらせてしまうのである。(p.28)


個人の資質の問題というより組織の運用のされ方、その運用の蓄積が大きな意味を持ってくる。ここでは企業について述べられているが、行政組織にもこの考え方は当てはまる。

例えば、森友問題の時の佐川元理財局長などは、これが反対方向に作用していることがわかる。どのような不正行為(虚偽答弁)であっても、安倍にとって都合よく振舞えば政権からは利益を保障されるということであれば、リスクを取りに行く(虚偽答弁、誤魔化しの答弁を連発する)。セイラーはこうした損失回避性が強められてしまうことは、組織の問題だと指摘しているが、佐川元理財局長の振る舞いも、内閣がその時の内閣に都合の良いように官僚を処遇できるようになっている組織の問題が大きな背景要因となっていることを理解すべきであろう。まずは、内閣人事局を廃止することが必要だろう。

なお、これは2つ前のエントリー(『ウェーバーとその社会』)で19世紀末から20世紀初頭のドイツの大学に関して私講師法が成立したという話とも共通する問題である。ドイツの大学の教授たちだけでなく私講師にまで政府が人事介入できるようになったという問題だったが、日本の内閣人事局も人事を通じて時の政府に都合の良いものだけに権限や権威を与えていくことで社会を歪めて行こうとする点で全く同じである。



 リスク回避的な部長の例も、23件の投資プロジェクトを実行したくても3件しかできないCEOの話も、プリンシパル=エージェント問題の重要なポイントを雄弁に説明している。経済学の文献では、このような失敗はたいてい、企業の利益を最大化しない意思決定をして、自分の利益を優先させて行動したエージェントに“責任”があるかのように描かれている。組織の厚生ではなく自分の厚生を最大化しているために、まずい意思決定をしているというわけだ。この記述が正しいことも少なからずあるが、多くの場合、真犯人は上司であって、部下ではない
 管理職がリスクをとりにいくようにするには、事前に価値を最大化していた意思決定に報いる環境を整える必要がある。つまり、事後に損失を出すことになったとしても、管理職が意思決定した時点で入手可能な情報に基づいて評価するということだ。こうした政策を実行する障害になるのが、後知恵バイアスである。……(中略)……。この組織では適正なリスクをとることができないと社員が感じられる環境をつくれていないことこそが、問題なのである。(p.32)


後知恵バイアスに打ち勝って事前に入手し得た情報だけで評価するというのは、広く人々に求めていくのは、そのままでは難しいように思う。そのための具体的な仕組みを考える必要があるように思う。



 行動学的な分析が強く求められる重要なマクロ経済政策の1つが、経済を刺激するための減税措置である。……(中略)……。ケインズ型の減税の場合、政策当局は消費行動を最大限に刺激したいと考えるだろう。これについては、合理性の枠組みでは無関係とされているが、政策当局が考慮するべき点がある。減税額を一括して還付するか、1年間にわたって分散させるか、という問題だ。エビデンスに基づく消費者行動のモデルがなければ、この疑問に答えを出すことはできない(私としては、支出を刺激するために減税をするのであれば、減税額の還付を分散させることを勧めたい。還付金が一括して支払われると、貯蓄や借金の返済に回ってしまいやすい)。(p.279-280)


一度このような問題に目が開かれてくると、通常の理論的なマクロ経済学の記述の多くに不満を感じるようになる。例えば、私は本書を読んだ後に、ピケティの初期の本『不平等党再分配の経済学』を読んだのだが、データ重視の『21世紀の資本』と異なり、初期の本では理論的な説明が主体となっているため、この不満を多く感じることになった。経済学では、実際には同じではないものを同じであると勝手に仮定して述べることがいかに多いかを実感した。

(私の個人的な感じとしては、初めて経済学について勉強した際に感じた違和感の正体が、行動経済学を知ってからわかるようになったと思っている。恣意的な強い仮定をおいた杜撰な推論を重ね、数式やグラフを用いることで、その問題点が目立たないように糊塗している議論がいかに多いことか。教科書の記述でさえそうである。)



 減税の呼び名でさえ、意思決定に影響を与えると考えられる。エプリーらは「特別減税」と呼ばれる減税は「戻し減税」と呼ばれる場合よりも消費性向が高くなることを突き止めている(Epley et al.,2006)(p.281)


使われる呼び名が印象だけでなく行動まで大きく変える。

安倍政権がやたらと印象操作的な用語(安保法制ではなく平和安全法制、検察庁法改正ではなく国家公務員法改正など)を多用するのは、明らかにそれが効果的だ(費用対効果がある)からであることが分かる。

呼び名はそれが実態をどの程度反映しているのかをまず確認し、そこからの偏倚によってその呼び名の意図がどこにあるのかを良く考える必要がある。また、邪悪な意図(誤魔化しや虚偽)が疑われる場合、その用語法に(特にメディアは)乗らないようにすることも重要だ。


上山安敏 『ウェーバーとその社会』(その3)

そこでは責任倫理は「権力政治を正当化する論理になっている。果して、彼の『職業としての政治』のためのメモ用紙には、権力の倫理」(Ethik der Macht)が「責任の倫理」(Ethik der Verantwortung)と書き改められている。つまり「責任倫理」と「心情倫理」の対立はもとは「権力倫理」と「心情倫理」との対立だったわけである。ウェーバーが「権力」を「責任」にスウィッチしえたことからわれわれは逆に彼の「権力」(ウェーバーのいう「真の権力」)が何であるか見ることができよう。(p.219)


これは興味深い指摘。責任倫理は権力政治を正当化する論理というのは、確かにその通りであろう。それよりも広い意味を持ってはいるとも思うが。



 ウェーバー・クライスは、もともとウェーバーが設け、主宰したサークルなのではなく、ハイデルベルクの知的風土を背景にしてつくりだされたものであり、ウェーバーも途中から参加したが、次第にウェーバーの問題関心を中心に動くようになったものである。(p.258)


このことの詳細はこれに続く行論によって説明されていくが、非常に興味深いものである。当初は宗教史の問題が研究の中心だったサークルが、メンバーの世代交代によって社会学の問題へと関心がシフトしたとされ、その媒介となったのがウェーバーとトレルチだったという。ウェーバーが倫理論文などを書くことになったのも、そうしたサークルとして歴史的に共有されていた問題関心の影響があったと考えてよいだろう。



イェリネックは、人権論にしても、社会契約論にしてもその起源を大陸ではなく、スコットランド、イギリス、アメリカの運動に求めている。それは、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がイギリス、アメリカのピューリタニズムにその起源を求めた発想と共通する同時代の思想潮流であったといえよう。(p.294)


イギリスやアメリカに起源を求めることで、フランスからの影響という風にしなくて済むという点は当時のドイツのナショナリズムにとって意味があった(感覚として腑に落ちやすかった)のであろう。



テニエスの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』を前に、社会思想界を大きくリードしたものに、ギールケのゲノッセンシャフト論がある。ギールケは歴史法学派の掉尾をかざった法学者であるが、彼は一般的な団体理論に基づいて当時の社会運動を進化論的(エヴォルティオン)に解明しようとした。このゲノッセンシャフトは、従来の「国家と社会」の二元論のシェーマではなく、「支配と共同体」(Herrschaft und Genossenschaft)の図式を人々に提示した。(p.295)


ウェーバーのいわゆる『経済と社会』の中に、よくゲノッセンシャフトという概念が登場してくるが、ある意味、こうしたウェーバーの一つ上の世代(ギールケは1841年生)の議論を前提にしたものだったことを踏まえて読むことができれば、より深く読むことができるように思われる。



 フランス啓蒙からの離脱現象が、大衆民主主義状況の中で、労働者をも包含できる近代人の主体を前提にした、新しい個人主義、市民的自由の確立を求める思想家群から起こっていることは、ドイツの思想界の変動の兆候である。フランス啓蒙家のルソーの社会契約論、モンテスキュウの三権分立論、さらにフランス人権宣言などのフランス革命の遺産から脱出する運動は、自由と民主主義の人類史の金字塔であるフランス革命の遺産を破壊したり、それとの断絶を意図するのでなく、その現代的意義の組替えを求めるために、それらの淵源を他に遡らす、いわゆる「起源論争」という形態をとったのである。(p.308)


2つ前の引用文と関係する箇所。大衆民主主義という政治状況とナショナリズムとは結びつきがあることを一言添えておきたい。



 かくて、現在ウェーバー像をめぐって、神々の闘争に似た多面的解釈を許しているのは、多少とも彼の思想を社会的脈絡の中で診断することの少なかったことが帰因していると思われる。(p.343)


本書は1978年に出た本だが、これから20年経過した90年代末(例えば、山之内靖)や40年経過した現在においても「新しいウェーバー像」が出されるが、ウェーバー像を示すには本書の言うように社会的脈絡を十分に捉えることが欠かせないように思われる。


上山安敏 『ウェーバーとその社会』(その2)

 ウェーバーの「価値自由」が価値からの離脱ではなく、逆に価値への接近の学問的表現であることがよくいわれる。ウェーバーほど政治への強烈な関心を持ち続けた人は稀である。だがこの政治的志向の高まりも同世代人の意識状況と関連している。それは簡単にいえば、シュモラーらの講談社会主義の段階が前の時代のリベラル=マンチェスター派の政治闘争に対して非政治的な経済政策で克服しようとしたのに対して、ウェーバーらの世代は大衆民主主義状況の中で再び政治的教授として登場したことである。
 ドイツの19世紀のアカデミズムと大学教授の政治行動には次のような潮流の変化がある。三月革命の挫折後の1860年代には、革命の余震もあって、1862年以来の憲法闘争に見られるように、大学教授は多く進歩党に所属してビスマルクの軍拡政策に抵抗した。その過程で「法治国家」論なり「人権」論なりを学問的成果として共通の財産にすることができた。したがって大学教授の有力者は殆んど議会に進出し、講壇と議事堂とを往復した。トライチュケ、テオドール・モムゼン、ルドルフ・フィルヒョーやグナイストといった人々は学者と議会人と同一人格において矛盾なく行動し得た。聴衆は学生と民衆の違いだけである。それは当然大学の講壇におけるデマゴギー(民衆扇動)を可能にした。ウェーバーが不快と魅力のコンプレックスの中に聴講したトライチュケはデマゴーグであった。
 ところがシュモラーらの講壇社会主義の時代になると、帝国創設期の政治状況の下で、学者層の政治志向がぐっと変ってくる。1860年代の自由主義政党の後退(進歩党の分裂と国民自由党の体制化)とそれに代る利益団体を基礎にした大衆政党の抬頭によって、ずっと名望家支配にのっかっていた教授達は、かつての政治的関心を失ない、大学人の政治への非参加が美徳とされたのである。(p.88)


ドイツが統一されたのは1871年であるが、それを控えた激動の時代には大学教授達も知識人として積極的に政治に参加する必要に迫られていたのに対し、体制がある程度安定してくると講談社会主義者のように政治的教授である必要はなくなった。しかし、講談社会主義者たちは政治家にはなっていないが、政治と無関係だったわけではなく、ウェーバーはその欺瞞に対して批判していくことになる(次の引用文参照)。このような感じだろうか。ドイツの学問と政治の状況を踏まえるとウェーバーの言動も一つ一つ時代を映し出す鏡となっていることがわかり、より興味深いものと感じられる。



イギリスの議会のように立法調査機能をもたなかったドイツでは、とくにウィルヘルム体制に入り、政府と社会政策学会との関係は、一種の政府の立法下請機関的要素をもっていたのである。そうした点でイギリスのフェビアン協会のように労働党という新党の結成への母胎になるような政治団体と対照的であったといわなければならない。こうしたシュモラー的客観性を装った社会政策学会がえせ中立的な官僚制と密着した体質をもっていることを、新しい政治意識をもった世代は嗅ぎとったのだ。(p.90)


社会政策学会の位置づけについて、ウェーバー関係の解説書などを見てもあまり的確に説明されることがなかったが、この叙述はそれらとは異なり非常に参考になった。ウェーバー自身が行った農業労働調査なども確かに立法調査的な志向と明らかに結びついている。



 とくにプットカーマー内相(1881~1888)は、保守的でない書記官の行政官庁への流入をすべて阻止した。リベラルな官僚層がプロイセンで急速に消失していったのはこの時期である。(p.132)


これはひどい。現代日本でも安倍政権によって内閣人事局が設置されて以降、官僚の上層部は同じような状況になっているのではないかというのが私の見立てであり、これがもたらす悪影響は計り知れないものであり、他人事ではない。こうした制度的なものであり、極端な動きが見えにくい部分は報道でもあまり注目されることがなく、一般の人びとにはあまり関心がもたれないが故に、その危険性はさらに高まる。



 私講師法の背景を分析していくと、それを実質的に推進させたのは、実は文部官僚よりも議会での自由保守党と国民自由党グループであることが分る。さらに財界が強力にその後押しをしていた。これがザールの大工業家シュトゥム男爵のグループなのである。ビスマルク時代、講壇社会主義は政府とともにその与党であった国民自由党、自由保守党両党に対して対立関係にはなかった。大学教授の多くはこの両党に所属していた。だがウィルヘルム体制に入り、社会主義者弾圧法が画餅に帰し、社会民主党が次第に帝国議会に進出し始めて(1890年に35議席、93年に44議席)から、資本家側は、「ドイツ工業家中央連合」を中心にして反社会主義の運動を自ら担い、皇帝カマリラとともに社会主義の抑圧に狂奔するに至った。彼らは、1894年にいわゆる「転覆法案」を用意し、その失敗後の1897年「小社会主義法」を、98年、99年には帝国議会でいわゆる「懲役法案」を強行しようと試みた。これらの反社会主義法案を契機にして、シュトゥム王国(1896~1901年)と、講壇社会主義との闘争が開始されることになる。(p.156)


私講師法とは、1898年に成立した法律で、それまで(教授とは異なり)国家の官吏ではなかった私講師を国家の官吏として位置づけることによって文部省が任免の権限などを持つようにしたものであり、それまでは大学の学部に属しており、学部の内部で後進の養成をしていたところに政府が介入できるようにしたものであった。このことの問題については、前のエントリーの2つ目の引用文についてのコメントでも触れた。

財界による反社会主義の運動については、もっと詳しく知っておいた方がよいように思う。ある意味では、今も財界の行動の傾向に変わりはないのだから。



 この講壇社会主義者シュモラーやウァーグナーらと、若い世代のウェーバー、テニエス、ゾンバルトらと、シュトゥム王国との間には三極構造がみられる。三者は相互に対敵関係にあった。しかしこの1896・7年段階では、まだ若い社会政策学会のグループと旧い講壇社会主義者とは一体性があり、対シュトゥム闘争において共同的立場にあった。しかし1900年以降、学者でなく、財界人であり、議会人であったシュトゥムの攻撃が終り、代ってドイツ工業家連合が彼らの利益代弁者の学者を大学に進出させ全面的に講壇社会主義に攻撃をし向けるに至って、この三極構造は微妙な変化を伴ってくる。社会政策学会の内部で価値判断論争が本格化したとき、資本家の代弁グループは、ウェーバーの唾棄し、酷評した「にせ価値自由」論者として、この世代間論争としての価値判断論争に積極的に介入したのである。この間に資本家の側の発言力が増大し、ブレンターノを含めて講壇社会主義が衰退していく中で、ウェーバーは両者に対して論争を挑んでいったのである。(p.159)


ウェーバーの価値自由の議論がどのような状況で出されたものだったのかが非常によくわかる。看過できないのは財界が代弁者を大学教授として大量に大学に送り込むことが出来ていたドイツの大学制度である。政府を仲介として財界が影響力を持てるようになっていたことがわかる。現代日本でも特に国立大学の法人化以後、大学の独立性や自治が急速に失われて行っているように見えるのが憂慮される



上山安敏 『ウェーバーとその社会』(その1)

 大学の拡大は大学の団体としての独立性に微妙な影響を与えた。学生聴講生の数の増大によって国家の負担する費用が増加すればするほど大学の物的施設が整備拡充され、それに伴って国家権力の大学に対する影響も財政・人事の国家による把握と管理権の強化となってあらわれる。しかも権力の側の大学の官僚制化への社会的基礎は前述のように十分にでき上っていた。そこに立ち現われたのは、ドイツの大学史上有名な「アルトホフ体制」であった。(p.22)


アルトホフ体制にもそこに至るまでの前史があったことがわかる。大学の数的な規模の拡大が、政府からの費用負担の必要性を高め、政府からの財源に依存すればするほど(もともと「組合」というような意味を持つ)大学の団体としての独立性が侵食されていったというプロセスがあり、その基礎の上だったからこそ、アルトホフ体制が可能となっていたわけだ。



その上アルトホフのやり方の最も特徴的なものは、特定の大学でなく、一般的大学目的の使用と結びついて政府が自由に処分しうる額を大量に用意したことである。その額は彼の在職中三倍になった。しかも重要なことは、その費用の中に優秀な私講師の招聘と保持並びに講義担当の委任という名目が入っていたのだ。(p.23)


私講師の招聘や保持、さらには担当する抗議まで政府が介入できるという体制には驚くほかない。戦前のドイツの大学の大きな問題点だと、私が思うのは、大学が事実上、政府の官僚組織の一部になってしまっており、大学の自治がなかった点にあると考える。どこの大学の教師を誰にするのかということまで政府の側に握られており、さらに次の世代の教授の卵である私講師までも政府が決められるというのであれば、政府に対して批判的な教師が大学で教える可能性は狭められる。批判の度合いが強ければ強いほど忌避されることとなり、結果的に政府の利益にとって都合の良い立場の人間たちが知識人としての重要な地位を独占していくことになる。ワイマール体制というものがありながら、容易にナチスの台頭を許したことの背景の一つとして、こうした大学制度に基づく、代表的知識人の右傾化・保守化傾向というものが当時のドイツの一般の言論空間に影響を与えていたことが遠因の一つになったのではないか、と思われる。

ある意味、当時の日本の「帝国大学」のシステムにも通じる部分があったのではないか。



 ウェーバーは大戦前にドイツの大学に少なからぬ点でアメリカ化が進行していることを認めるが、1900年以降大学は帝国主義段階に入って新たな再編成の時機を迎えていた。化学を筆頭にした自然科学、心理学を花形にした社会科学の研究分野では研究システムの革命が徐々に進行しており、それにともなって研究者集団の官僚制化と研究者の手段からの疎外状況が深刻な問題をはらんでいた。この研究体制は、産業化が飛躍的に進んだ段階において、財団方式=アメリカ化の問題につき当たらなければならなかったのだ。ドイツのように殆んど全面的に国家に財政を依存していた大学体制は、従来と異なって財界を含めた私的基金による財団大学と財団研究所の設立のラッシュでその様相を変えていった。財団による大学への寄金は、たんに大学の枠を超えて文部省の教育政策を匡正しかねない、深刻な政治問題に転化していったのだ。しかもこの研究体制の変化に、実はシュモラーらの講談社会主義者とウェーバーらの若い世代の間に体制原理の選択をめぐる対立があって、これが価値判断論争に流れ込んでいる。「価値自由」の草稿を生んだ価値判断討議の中に「一般的方法論的原則と大学教育の使命」がとりあげられたのもそうした意味をもっている。(p.62)


当時のドイツの「政府がコントロールできる大学」に対して、私的な資本が財団大学や財団研究所という形で「政府がコントロールできない研究機関」が設立され、競争関係に立つことになり、政府の側は懸念を強めたわけだ。