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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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都道府県研究会 『地図で楽しむ すごい北海道』

もともとは、神様を祀るのに建物は立てず、山や滝、岩、森、さらには大木など、神聖だと感じるものを信仰対象の御神体として直接拝んでいた。しかし、仏教が入ってきて寺が多数建ち始めると、それに対抗するように神社の築造も増えていった。神も仏も信仰の対象としては変わりなく、本州と同じように明治に「神仏分離令」が出される前までは、とくに区別する必要もなかったため、どちらも含めて扱われることが多かった。(p.40)


神社建築が仏教寺院建築に対抗すように増えていったという点は興味深い。本州でも同じような現象はあったのだろうか?



当時の函館の坂は道幅が狭く曲がっていて、また開拓期の家はほとんどが木造建築であったため、ひとたび火が上がると次々と延焼を招き大火事になっていた。
 そこで防火対策として幅が広く直線的な道につくり替えられたのだ。現在、この広くまっすぐな道には街灯が並びたち、民家やオフィスの照明器具が点灯する。この光が直線的な道を彩り、函館山からの夜景を美しく演出している。(p.46)


日本三大夜景の一つとされる函館の夜景が美しい理由の一つは、ここで述べられているような直線的で大きな道があるためだという。明治期の北海道では函館に限らず小樽や札幌でも大きな火事が起こっており、防火対策として広い道路を設けた点は共通。函館の場合は、これを丁度良い距離と位置から見下ろせる函館山があったことが幸運だったと言えるのではないか。そして、さらにこれに次の引用文のような幸運が付け加わる。



 また函館山の見晴らしのよさは人為的につくられたもの。じつは明治時代に戦争を予測した政府が、防衛のため函館山の要塞化に着手。その際に敵を発見しやすく、周りを一望できるよう、山頂や尾根を削ったのだ。実際にこの要塞が使われることはなかったのだが、要塞化の副産物として夜景の眺望に必要な見晴らしのよさが生まれたのだ。(p.47)


函館山には軍事的な意味があったため、動植物が保護されたというような話は今までいくつかの本で読んだことがあったが(例えば、このブログに記録しているものとしては『北海道歴史探訪ウォーキング』)、地形まで削っていたとは知らなかった。だから、街の全体を一挙に見渡せるようになっているのか。



明治政府はそれまで開拓総督であった鍋島直正を7月8日開拓長官に任命。ところが8月25日、今度は東久世通禧を2代目の開拓長官に任命した。……(中略)……。この2カ月足らずで、2代目の開拓長官が任命されたことには、重要な意味があったと考えられる。それは当時、外務卿であった沢宣嘉を開拓長官にしようとする動きへの対抗策だったようだ。……(中略)……。
 沢宣嘉を開拓長官にしようとするグループは、ロシアに対し極めて強硬な姿勢で臨むことを要求。いっぽう、東久世を開拓長官に推してきたグループは、対ロシアでは友好的な対応を求める考えだった。明治初期の日本とロシアには、樺太を巡り紛争が発生していた背景があり、ロシアに対して強硬姿勢で臨む沢宣嘉が開拓長官になると、北方問題を機にロシアとの対立がより深刻な状態になっていくことが懸念され、ロシアとの対立を避けたいと考える開拓時間の黒田清隆にとって、宥和政策的な考えをもつ東久世が開拓長官になるほうが都合がよかったのだ。とくに黒田は樺太の開拓に消極的で、それよりもまず北海道から開拓を進める必要性を何度も語ってきている。(p.82-83)


幕末から明治期の北海道を考えるに当たって、ロシアとの関係は極めて大きなファクターである。北海道の観光スポットでは、開拓使の長官などの名前や経歴などが書かれた資料を目にすることが多いが、政治的な対立は、あまり真正面から紹介されることがない。しかし、こうしたことを理解することは非常に重要な意味があると思う。簡単なガイドブック的なものや観光スポットの解説文なども、もう少し踏み込んで記載することが必要ではないか。



 当時最大の引き揚げ港といわれた函館には10万人以上が、樺太との交易が盛んだった小樽にも1万人以上が引き揚げ、住居や仕事を見つけるのに苦労しながら戦後の苦しい生活を迎えていた。引揚者の多くは収入を求めて露天商になり、それが闇市そして市場へ発展していった。現在も市場の多い函館や小樽。それは引揚者たちの再出発の証でもあったのだ。(p.91)


市場は次第に減っており、こうした証も次第に減っている現状ではある。買い物をする場所や機会も時代とともに変化していくのはやむを得ないとしても、ただ単になくなっていくというのはもったいないと感じる。


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池田貴夫 『なにこれ!? 北海道学』

言うなれば、関東や近畿といった日本列島の中心部ではなかなか落花生に変わっていかない。そして、その外側の北海道と東北、中部地方北部、九州などで、落花生が好んでまかれるようになったという現象が浮き彫りになる。(p.33)


節分の豆まきに大豆ではなく落花生をまくことについて、北海道では北海道特有の現象と見なされているのだが、その認識は誤りであることがわかる。興味深い。

なぜ関東や近畿では大豆なのか?それ以外の地域では落花生なのか?

北海道に移住してきた人は、時期によって異なるが北陸や東北の人が多かったことを考えれば、これらの地方との結びつきが強い北海道で落花生がまかれるのは、明治期からであれ、それ以後からであれ、不思議ではない、とは言えそうである。この問題は、各地域がいつから落花生をまくようになったのかを知るところから探っていくのが良いように思われる。



 私の知る範囲では、この韓国東海岸から日本列島の日本海沿岸、そして北海道に至る地域に、イカにもち米などを詰めて調理した家庭料理が分布してきた。
 ……(中略)……。
 このように、イカにものを詰める調理法は、主にスルメイカの回遊路である日本海の沿岸地域で育まれてきた。また、この分布域は、出稼ぎやイカ釣りの伝習に伴う人の移動によって広まった佐渡式イカ釣具の分布域とおおむね一致する。(p.49-50)


函館の「いかめし」も韓国東海岸を含む日本海沿岸地域に広く分布する調理法の一種ということか。韓国東海岸までの広がりというのは私にとっては意外であり、一つの地域だけでなく様々な地域の事例と比較するというのはやはり必要なことだと思わされる。



多くの神社は林で囲まれている。……(中略)……。
 では、なぜ林で囲まれているのか。防風林などとしての機能はもちろんだが、民俗学的な視点からは、それ以外の理由を見いだすことができる。
 神社は、その集落や地区を見守る神様が鎮座される神聖な空間である。一方で、人々が生業や暮らしを営む空間は俗なる場所である。「聖」と「俗」との境界が、この神社を取り囲む林なのである。(p.74)


なるほど。


中西聡 『近世・近代日本の市場構造 「松前鯡」肥料取引の研究』

 つまり鯡魚肥生産が開始された近世中期には、両浜組商人―荷所船―敦賀問屋―大津納屋のルートで鯡魚肥は輸送され、近江・畿内で鯡魚肥は主に使用された。日本海から下関を経由して直接海路大坂へ輸送する西廻り航路は、寛文12年(1672)に河村瑞賢によりすでに整備されていたが、鯡魚肥は依然として敦賀から陸送されるルートで輸送された。その背景には敦賀問屋・大津納屋衆と近江商人の強固な結合があり、そのため西廻り航路の整備によって直ちに北海道から大坂までを直接結ぶ海運網が形成されたわけではなく、日本海航路では依然として船の活動範囲が地域的に限定されていた。(p.69-70)


この辺りのことについて、簡単な説明を聞くと、西廻り航路ができるとすぐにそこを通って運ばれたかのような印象を受けてしまうことが一般的だと思う。実際にはすぐに西廻り航路が鰊魚肥の流通路になったわけではなかったというのは、やや意外だった。



日本海海運は遠隔地間「交通」の典型的な例であり、菱垣・樽廻船における江戸・大坂間の価格差に比して、北海道・大坂間の価格差ははるかに大きかった。とすれば日本海海運においては、価格差を利用して大きな利を得られる自分荷物積の方が船主にとって有利であり、実際19世紀には北海道産商品は長崎俵物など一部の御用荷物を除き、ほとんどが自分荷物積で運ばれた。(p.73)


北前船の商売のやり方も、その背景には北海道と大坂との物価の価格差が大きかったという条件があったということを理解しておくことは重要。明治になり交通や通信の技術が発達し、普及してくると、こうした環境はなくなってしまった。



このように三井物産と近世来の諸勢力が正面から競争した函館・大阪市場では、近世来の諸勢力の団結が明確にみられ、三井物産に対してグループとして対抗し、資金力や価格支配力に現れる三井物産の取引上の優位性を押さえ込んだ。逆の見方をすれば、三井物産の進出が結果的には近世来の諸勢力間の競争を制限させ、近世来の諸勢力同士の協調を促し、明治20年代の鯡魚肥市場をより競争制限=安定的な方向へ進めた。(p.323)


三井物産に対抗するために近世来の諸勢力が結束して対抗したため、三井物産は鯡魚肥の市場から撤退させた。次に引用するように、この後、国内の市場を十分に確保できなかった三井物産は外地や外国への進出を強めていった。この辺りは非常に参考になった。



 三井物産はそれに対し、樽前漁業組合と委託販売契約を結び(明治23年(1890))、北浜漁場産物も扱ったが、十分な利益を上げるに至らず、明治28年に栖原家より漁場を譲り受け、北海道漁業部を設置して鯡魚肥生産に乗り出した。しかし北海道漁業本部(北海道漁業部を明治31年に改称)も十分な利益を上げられず、明治30年代初頭に、逆に小樽出張所・函館支店を廃止し、鯡魚肥市場から徐々に撤退して肥料取扱の中心を「満洲=中国東北部」産の大豆粕へ移した。……(中略)……。
 ……(中略)……。この間米穀取引でも三井物産取扱高は、明治23~27年にかけて減少しており、こうした国内市場掌握の限界性が、明治30年代以降の三井物産の積極的な海外市場進出の背景にあったと考えられる。(p.337-339)


国内市場を把握しきれなかったがゆえに海外市場に目を向けざるを得なかったというのは、現在から見る三井のイメージとは乖離があり興味深い。