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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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木村光彦 『日本統治下の朝鮮 統計と実証研究は何を語るか』

 1919年の万歳騒擾事件は日本政府・朝鮮総督府に大きな衝撃を与えた。政府は、併合以来の強権的統治を見直し、朝鮮人に融和的な政策を採ることにより民心の安定を得ようとした。(p.32)


1919年というと大正8年にあたるが、一つの事件だけのインパクトというよりも、その前年の原敬内閣の成立のような大正デモクラシーの流れというものも考慮すべきであるように思われる。同じ1919年には台湾でも文民総督が置かれ、内地延長主義による統治へと移行した時代であったことが想起される。



朝鮮の一人当たり国民総生産は、内地の3-4割、台湾の6-7割にすぎなかったからだ。(p.42)


戦前の朝鮮が台湾より経済的に低い水準だったというのは、やや意外だった。当時の日本国内では、朝鮮総督の方が台湾総督よりも地位が高かったとされることなどからも、それは言える。



 以上の結果、補充金と公債金が朝鮮財政に欠かせなかった。言い換えれば、朝鮮財政は内地依存から脱却し得なかったのである。(p.43)


この点から見ても、植民地台湾と比較して植民地朝鮮は内地(日本帝国本国)にとって経済的には有用性が低かったことになる。上述の総督の地位のことなども考えると、それだけ政治的・軍事的な意味が大きかったということか。



 総督府は、武断政治の強化あるいは恐怖政治(強制収容所や広範・稠密な秘密警察網をともなう)ではなく、それとは逆の融和政策への転換を通じて、反日運動をコントロールし得たといえよう。(p.44)


融和政策は統治の目的に沿って言うと、それなりに有効に機能したらしい。



 要するに朝鮮の特徴は、貨幣経済の進展が換金作物の増産を促進しただけでなく、耕作法の変化を引き起こした点にある(日本統治下台湾も同様である)。この事実から、朝鮮の農民は東南アジアの農民に比べ、市場機会にいっそう積極的、革新的に反応したと言えよう。(p.51)


日本の統治下に入ることによって、ウォーラーステインの言う近代世界システム(資本主義世界経済)により深く組み込まれたと言えそうである。



 産米増殖計画は、帝国日本で最初の大規模な農業開発といわれる(東畑・大川『朝鮮米穀経済論』12頁)。それを立案、実施したのは朝鮮総督府であった。総督府はこの面からみても、たんなる行政機関ではなかった。同計画は総督府が、米作という産業の開発を推進する一大企業体でもあったことを示している。(p.53)


単なる統治機構というだけでなく、産業開発を推進する企業体的な側面があるというのは、北海道の開発からの共通点かも知れない。植民地統治機構のこの性格についてはもう少し掘り下げて調べてみても面白いかも知れない



 1910年代後半、朝鮮大豆の移出量は急増する(1914年、50万石、19年、130万石)。それは、第一次世界大戦の影響で大豆相場が急騰したからである。移出量は、以後も高い水準で推移し、1930年代、移出対生産比は2-3割にのぼった。(p.55)


この点も北海道と共通ではなかろうか。



 共産主義(マルキシズム)と反共的国家主義(ファシズム)はまったく相反する思想のようにみえる。しかし全体主義(totalitarianismあるいはcollectivism)という点では、そうではない。全体主義の核心は、個人の自由な政治・経済活動を禁じ、国家にすべての権力を集中することである。共産主義と反共的国家主義は、この特徴を共有する。
 ……(中略)……。
 帝国崩壊後の北朝鮮では、大きな混乱なしに政治体制の転換が進んだ。その要因のひとつがここにある。体制転換は、統治の理念あるいは精神の根本的変革を必要としなかったのである。
 戦前朝鮮には、内地以上に自由主義の精神が乏しかった。戦時期、それまでにかなりの発展をとげた市場経済・自由企業制度が破壊されると、全体主義が政治、社会、思想、そして経済を支配した。この上に、ソ連が共産主義を移植した。それゆえ、相対的に少数の異分子、すなわち自由主義的知識人、宗教信者とくにキリスト教徒、企業者を放逐すれば、北朝鮮内部に体制を揺るがすものは残らなかった。
 このように戦時・戦後北朝鮮は、全体主義イデオロギーの点で連続していた。
(p.178-179)


なるほど。共産主義とファシズムが全体主義という点では共通しているというのは、以前から同意見であるが、現在の北朝鮮は戦前の大日本帝国と地続きに形成されてきたという視点は参考になった。


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飯野謙次 『仕事が速いのにミスしない人は、何をしているのか?』

 ミスは、そのものによる物理的な損失やダメージもありますが、それ以上に「あなた=ミスをする人」というイメージが、何よりも恐ろしいのです。(p.26)


確かに。こうしたイメージが定着してしまった人には、重要な仕事を任される機会が少なくなり、結果として、やりごたえのある仕事をする機会が減るため、仕事の面白みが少ない生活をしなければならなくなる、というのが非常に大きなデメリットであると思われる。



 注意力を求められるとき、煩雑な作業が発生するときには、そうしなくていい方法を考える
 それが失敗を撲滅するための一番の近道なのです。(p.42)


これは確かにその通りなのだが、あまりに自動化しすぎると、人事異動に耐えられるシステムとして機能しにくくなることなどもあり、いろいろな要素が絡み合うところが難しいところであるように思う。



 ダブルチェックは、1回目のチェックと同じ動作を繰り返すのではなく、その方法や見方を変えて行なうことに意味があるのです。
 ……(中略)……。
 まず、最初の計算は実際に入力しながら紙に打ち出します。そして検算のときには、打ち出した紙に印刷された数字と、手元の数字を見比べるのです。(p.58)


こうしたやり方は、私がこれまで経験した職場ではやっているものとやっていないものがあるので、今後は基本的に違うやり方でダブルチェックするべきだという考え方をより貫徹することにしよう。



 でも、折れ線グラフにして視覚に訴えると、数字だけでは見えてこなかったデータの齟齬にいち早く気づくことができます。(p.61)


エクセルを使ったチェックの方法として参考になる。



 何か問題を抱えているおき、適切な方法が見つからなくて悩んでいるときには、自分が今、抱えている問題を、なるべくわかりやすく専門外の人に説明することを心がけてみてください。話すうちに、自分の中で解決法が見出せることも少なくありません。(p.175)


なるほど。


梶谷懐、高口康太 『幸福な監視国家・中国』

 話を戻すと、勘のよい読者であればおわかりのように、筆者らは人々のより幸福な状態を求める欲望が、結果として監視と管理を強める方向に働いているという点では、現代中国で生じている現象と先進国で生じている現象、さらには『すばらしい新世界』のようなSF作品が暗示する未来像の間に本質的な違いはないと考えています。(p.28)


ここで述べられているのは、本書に通底する一貫した考え方だが、現代中国をいわゆる「先進国」と異質な世界として捉えるのではなく、地続きの世界の中で同じ方向に向かいつつある社会として捉えるという見方は、日本から中国を見る際には重要な留意点であると思われる。(もちろん、異質な部分もないとは言えないが、異質なだけの社会として思い描くと大きな誤りを犯すことになる。)

その際、監視社会化の関連では、個人が自らの幸福(効用)を追求しようとするという功利主義的な考え方が、むしろ全体の厚生を下げる結果をもたらすという指摘がされており、これもまた重要な論点であると思われる。このように考えると、中国がなぜ他の社会よりも早く監視社会化が進んでいるのかということもクリアに理解できるように思われる。



官僚主義の代表的な弊害である縦割り行政を、制度改革ではなく電子化によって乗り越えようというのが「現代中国」らしいやり方です。(p.61)


行政の手続きを利用する際に、かつては様々な役所を決まった順番で回らなければならず、日数や労力が必要だったが、スマホアプリだけで様々な手続きができるようになっていることなどについてのコメント。制度改革をせずに対応するという部分は確かに、権威主義的な国に相応しいように思う。



 ここには独裁政権ならではの逆説があります。独裁国家は民主主義国家ではありませんが、それでも民意を無視できるわけではありません。むしろ、選挙で正当性を担保されていない分、民主主義国以上に世論に敏感という側面があります。究極的には暴力的な弾圧を行う力と選択肢を持っていたとしても、民衆は独裁政権を支持しているという建て前を可能な限り守る必要があるのです。(p.126)


中国の政府(というより共産党)が情報統制や監視をしようとするのは、こうした敏感さの故である。実際には正当性がないからこそ、民衆を恐れなければならず、民衆を恐れるからこそ情報や言論を統制し、批判が起きないようにしなければならない。選挙で選ばれたとしても、やろうとしていることを正直に国民に伝えていないような政府(安倍政権がまさにそれである)も、同じことが当てはまるということは指摘しておきたい。



 そこで注意しなければならないのは、このような経済面での「平等化」と、トクヴィルの強調した政治的権利の「平等化」とでは、特に権力との関係において反対方向のベクトルが働くという点です。
 そのため端的に言えば、中国社会においては往々にして、前者の「政治的権利の平等」を要求する立場(リベラリズム)が、後者の「経済的平等化」を要求する声にかき消されるか、あるいは政権によってあからさまな弾圧が加えられる、という状況が生じてきました。
 経済面での「平等化」、すなわち再分配を行うには大きな国家権力による介入を必要とします。したがって、経済面における「平等化」の要求は、国家権力を制限するのではなく、むしろパターナリズムを容認し、強化させるように働きがちです。上述のように「群体性事件」と呼ばれる直接的なデモ行動や陳情行為が、しばしばより高い政治的地位にある「慈悲深い指導者へのお願い」の形をとるのはその象徴です。(p.164-165)


経済的平等化は国家権力によるパターナリズムを強化する傾向があるという指摘は確かにそうかもしれない。


吉田徹 『感情の政治学』(その3)

政治と信頼というテーマが大きな注目を浴びるようになったのは1990年代、アメリカの社会学者ジェームズ・コールマンや政治学者ロバート・パットナムが「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」が民主主義の質にとって非常に大きな影響を与えている、と唱えるようになってからだ。(p.230)


確かにソーシャル・キャピタルに信頼は不可欠であり、ソーシャル・キャピタルに注目が集まるなかで信頼ということがテーマとなっていくという流れはある意味で自然なものだったと思われる。



自分のかいた汗が見知らぬ他人に正当に評価され、他人もまた自分のために汗をかいてくれるにちがいないという信頼があるからこそ、共同体は円滑に機能する、というのが社会関係資本論のエッセンスだった。信頼なくして民主主義はなく、民主主義が機能するには信頼がなければならない。(p.231)


分断が進む社会は、まさにこれとは真逆の方向に進んでいると言わざるを得ないが、現代日本でこのテーマに関連して見落とすことができない点の一つは、安倍政権という政権は全体として、極めて国民を信頼していない集団である、という点である。それはまず、マスメディアの統制を通じて事実を知らせないようにしたり、政権にとって都合の良い意見ばかりが流れるようにしている点に現れている。また、情報公開や国会での国民の代表からの質問にも、一切答えようとしない姿勢もこれと共通している。つまり、国民が事実を知ってしまえば、権力の座に居座ることができないと考えるからこそ、こうした誤魔化しをしなければならないのであって、その基本的なスタンスとしていかに国民を欺くかということに大いに気を遣っている。つまり、自らの権力を維持するために、政治の中枢から国民を遠ざけることに腐心している。

確かに、事実を知ってしまえば、国民の多くは安倍政権など支持しないだろう。その意味では政権は国民の意識をある程度正しく捉えている。しかし、国民からの負託を受けた権力を恣意的かつ利己的に使い続けるために、国民の目を欺き続け、国民の手に政治を取り戻させないというのは、あたかもその方が悪い政治であるかのように考えている点で国民に対する信頼がないというべきだろう。こうして国民を信頼しない集団が権力を手中にすることによって、民主主義とは異なる政治が実施されていく。この関係性は中国共産党と中国人民との関係と非常に似ているということを指摘すべきだろう。



つまり、日本の社会には社会関係資本があっても、それを使いこなし、駆動させる一定程度の人びとがおらず、このため人びとは「シニカルな市民」に留まり、「賢い市民」とはなり得ていないのである。(p.248)


デモや市民運動などが力を持てていないことと関係があるように思われる。



しかも社会学者の数土直紀は、アメリカでは有意に認められる教育水準と社会関係資本の相関関係が日本ではない、という。教育水準が高ければ、他人への信頼度が高く、逆に教育水準が低ければ信頼度も低いというのが一般的なパターンだからだ。しかし日本では、こうしたパターンが成り立たない。その理由として数土は、先の猪口の指摘と同じように、日本では信頼関係が既存の関係の上にしか構築されない「権威主義的な信頼関係」の方が支配的だからだ、と推論している(数土 2013)。(p.252)


この理由については是非知りたいところだ。



 ここで、先に紹介したロトシュタインがかかえた問題、すなわち信頼と税、とりわけ社会保障の関係をふたたび取り上げてみよう。ここでもやはり水平的な信頼関係が大きな影響を及ぼしていることがわかる。というのも、他人との信頼関係の高低と福祉規模は相関関係にあるというパターンが一般的に指摘できるからだ。
 フランスの経済学者のアルガンとカユックは、その国の社会の「民度」の高さと、公共部門の効率性や福祉の水準との間に密接な相関関係があることを証明した(Algan & Cahuc 2007)。例えば、その国での相互不信の度合いと腐敗度(汚職や規範意識の低さ)は明らかに相関しており、そうした国では公共心が薄いゆえ、公的な制度への信頼が低いという関係が成り立つという。反対に他人への信頼や公共心が高く、公的制度に対する信頼が厚い国の人びとほど、福祉国家への支持が強いという関係が成り立つ。(p.252-253)


新自由主義は、この観点から言うと、社会の信頼を壊すことで、公的な制度への信頼も低くし、福祉の水準を下げ、汚職を増やし、規範意識を低くするものだ、ということができる。いかに碌でもないものかということがよくわかる。



 しかし、人びとの間に信頼があって、そこから人びとが信頼を寄せる制度が作られるのではなく、人びとの信頼はまず公平無私な制度があって生まれるのだという立場をとらない限り、社会のなかで信頼を増やしていくのは難しい。これは、実証上の問題ではなく、優れて倫理的かつ論理的な課題である。社会の全員にとって公平な普遍主義的な政策があり、それが人びとの間の信頼を高める作用を持つという因果関係を仮定しなければ、問題は解決されない。税制の例でいえば、すべての納税者を受益者とすることが政策への信頼を高めるためにまず必要であり、増税はこうしてはじめて可能になる。反対に、増税が何らかの特定の目的のためであることが強調されると、その社会での信頼がないと、増税は難しくなる。少なくとも、信頼が生成されるためには、増税の目的と対象は普遍的なものでなければならない。すなわち、特定の誰かのための政策ではないという「無私性」がなければ、個人間の信頼は生まれようがないのである。
 こうした論理は、社会心理学でも証明されている(中谷内 2008)。実験で観察されたのは、人は一般的に、他人が自分の問題を解決する能力をどれだけ持っていても、それだけの理由でその他人は信頼されないということだった。人は他人の持つ客観的な能力ではなく、その人の価値観、その人が信頼に値する人間であるかどうかの方が、信頼の条件とするのである。
 こう考えると、信頼のない社会で最初に必要とされるのは、「善意の政治権力」である。(p.259)


現代の日本社会を良くするために必要な基本的な方向性を指摘しているように思われる。しかし、現在の政治権力の中枢である安倍政権は、「悪意に満ちた政治権力」であるため、またもや悪い方向へと進んでいるのが現代日本の状況であるということも、はっきりする。(「無私性」というキーワードに照らしても、安倍晋三が「無私」とは程遠い「ぼくちゃんがやった」と功績を誇りたがり、他人をけなすことで自尊心を保とうとする人間であることなどから、正反対と言ってよいことが了解されるだろう。毎度の組閣が結局は「お友達内閣」であることも、「無私性」がないことをはっきりと示している。)

このような暗い状況ではあっても、本書がここで示している方向性は、日本にとって今後取っていくべき基本的な方向性として参考にすべきものだと考える。


吉田徹 『感情の政治学』(その2)

 もっとも、「討議/熟議民主主義」が予定調和的な市民の合意を導くのではなく、反対に参加者の意見を急進化させ、態度を硬化させてしまうような効果を持つことも明らかになっている。……(中略)……。
 ここでなぜ熟議についての議論をしたのかは、もうわかるだろう。ただ単に異質な者同士を一堂に集めても、そこで調和的な政治が自然発生するわけでも、より良い知恵が生まれるわけでもない。その前提条件として、まず政治的に社会化されていること、すなわち他人と政治を介してつきあうという作法を身につけている必要があるのだ。(p.106-107)


熟議民主主義というと、基本的にはある種の理想的な状況であると考えられ、好意的に語られることが多いように思うが、実際には必ずしもバラ色のものではなく、うまく機能しない、思っていたのとは全く逆の効果を持つことすらあり得ることを踏まえておくことは重要と思われる。他人と政治を介してつきあう作法を身につけるということについて言うと、少なくとも現状の世界は、どんどんこの状態から遠ざかっている。アメリカでトランプがある程度の固い支持を得ていること、イギリスのブリグジットをめぐる混乱(世論の分断状況)などが典型的だが、ヨーロッパでも既存の権威と見なされるものを強く否定するようなポピュリズム政党がある程度の支持を受けていることなど単純で極端な意見へと流れる人びとがかなりの数おり、世論の分断が深まってきているというべきだろう。こうした姿勢を身につけるには、ある程度の若い時期(高校生や大学生くらいの時期)に社会的な問題に関して理性的な議論を重ねる経験を積むことが必要だ(効果的だ)と思われ、社会科学の訓練diciplineを積むことこそが、その最良の方法の一つと思う。しかし、日本の教育では、この点が極めて弱いことも問題である。



このスイスでは選挙の投票率を上げようと、1970年代から郵便による投票を認め、いくつかのカントン(州)ではインターネット投票が認められるまでになった。
 普通に考えて、先のダウンズの仮定を受け入れれば、投票コストは投票所に行くよりも、郵便で投票する方が下がるはずである。そして投票コストを下げれば、投票率は多少なりとも上がるはず、という推測が成り立つだろう。
 ところが、スイスではその逆の現象が起きてしまった。投票にまつわるコストを下げたところ、投票率は高くなるどころか、低くなる事例が多く観察されたのである(Funk 2008)。しかも投票所に赴くコストが高く、ネットや郵便投票でそのコストが決定的に下がるであろう過疎地域や小さなカントンで、さらにそれまで高投票率を実現していた地域であればあるほど、投票率が低下するという傾向がみられた(1000人以下の市町村の連邦選挙での投票率は平均2.5パーセント低下した)。スイス全体でみた場合、投票率はたしかに上がったものの、わずか2.3パーセントポイント程度の増加に留まった。なぜだろうか。
 こうした実態を突き止めた研究者は、郵送という投票方法が採用されたことで有権者は投票する義務(形式的ではあるがスイスでは棄権者は罰せられる)から解放され、むしろ小さなコミュニティでは投票所に足を運ぶことで得られていた社会的尊敬が失われることで、投票することの魅力が失われてしまったために投票率は下がった、と説明した。自分が投票に行く立派な市民であることを誇示するのも大切なことだったのだ。
 このように、投票という行為にも社会のさまざまな関係性が映り込んでいる。
……(中略)……。いずれにしても、投票するかどうかは、投票コストの高低や、自分の一票の軽重ではなく、何らかの外部的要因、それも社会や他人との関係性を無視して論じることはできない。(p.117-119)


興味ぶかい指摘。こうした社会的尊敬のような観点は見落とされがちだが、場合によっては無視できない重みがある。



新自由主義が真に非難されるべきなのは格差を拡大させたり、権威主義的な政治を行ったりするからではない。それは社会全体を他人に対する不信を前提に組み立てようとした「新自由主義モード」をもたらしたことにある。
 ……(中略)……。
 もし、政治家も公務員も市民も、自分の利益しか顧みずに、そして自分の利益を実現するために政治的な活動をしているとの考えが蔓延した場合、どのような帰結が生じるだろうか。それは、まず政治不信を帰結させる。政治家や公務員が市民の利益のために働いていないのだとすれば、有権者は政治に期待などしなくなってしまうだろう。公務員は納税者の「血税」を私利私欲で無駄遣いする存在でしかなくなるからだ。さらなる問題は、このような回路がいったんできあがってしまうと、有権者が最も重視するのは、こうした政治エリートから自分の利益を守るということになってしまう点にある。こうして、それぞれが互いに合理的な人間だとみなすことで、共同体全体の厚生が損なわれていくことになる。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 1980年代に台頭した新自由主義は、自身の論理を貫徹させることで、思わぬ副作用を生み出した。政治家や公務員が自己利益的な存在だとするならば、どのようにして政治に中立性と公平性をもたらしたらよいのか。
 その解答として出されたのが、公的な政治アクターを政治そのものから除外してしまうこと、すなわち「脱政治化」を進めることだった。(p.124-125)


新自由主義に対する興味深い批判。新自由主義の世界観を受けれ入れてしまうと、社会全体を他人に対する不信を前提に組み立てることになる。それは政治や行政への不信を帰結させ、こうした政治エリートから身を守るために、これらのアクターを政治の世界から除外しようとすること(民営化)に繋がっていく、というわけだ。



 政治的恩顧主義というと、腐敗や汚職といったダーティなイメージがつきまとうかもしれない。しかし、キッチェルトの他の研究では、恩顧主義的な政治を展開しているとされる国と、その国の政治腐敗度に明らかな相関関係はみられない(Kitschelt 2007)。恩顧主義と腐敗を同一視するのだとすればそれは、新興民主主義国や途上国一般が恩顧主義的政治をとっており、これらの国々では他の何らかの要因から汚職が発生しているという「観察上の一致」が生じていること、すなわち我々の偏見から生じているとした方が適切だろう。(p.142-143)


何となく、恩顧主義というと悪いものとされているが、必ずしもそうではないという理解は重要。



 こうしたエルスターの分類にしたがえば、政治とは人びとの手段に矮小化されるわけでもなければ、人びとの活動の目的として存在しているわけでもなく、その中間にあるものだ。そうであるのだとすれば、手段と目的をつなぐことのできる、個人と政治を結びつける何らかの行為が想定されなければならない。政治「によって生きる」のでも、政治「のために生きる」のでもなく、政治を他人と「作り上げて」いくためには、どうしても自分以外の存在と何がしかのものを交換しつづけていかなければならない。(p.144-145)


政治によって生きると政治のために生きるという表現は言うまでもなく、マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』における分類である。政治を他人と「作り上げて」いくという表現は、確かにヴェーバーのパースペクティブでは捉え切れていない部分であり、自己言及的なものとしての政治という本書の政治観のイメージをつかみやすい表現であるように思われ、参考になる。



 個人が求めるものを与えるのが政治の使命と機能である、という観方は最終的に他人を手段として扱うようになってしまうことを、最後に協調しておこう。(p.147-148)


言われてみればその通りであると思う。この観点はかなり重要であり、より深く考えるに値するものであるように思う。