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アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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吉田徹 『感情の政治学』(その1)

なぜなら、政治とは何よりも、それが達成すべき目的について、誰がそこに参加するのかに応じて、「正しさ」絶えず再定義されていく、自己言及的なものだからだ。目的から逆算して手段が決まるのではなく、手段に応じて目的がつねに変わっていくもの、と言い換えてもいい。ある目的を達成しようとして、ある手段を用いようとした場合、その手段を用いること自体についての是非が生じることになり、そしてその是非の如何によって目的の妥当性そのものについても議論が起こるのである。(p.22)


この政治とは自己言及的なものであるという政治観は、本書の随所で語られているが、参考になった。



好ましいと思い、支持している政治家や政党に論理上の過誤があったとしても、それは認識されず、逆に嫌いな政治家や政党に対しては必要以上に論理性を求めるといった行動があることなどが明らかにされた。(p.24)


なるほど。政治的な判断においては、政党や政治家に対する好感度や愛着のようなものが論理に先立っており、優位にあるわけだ。確かにこうした傾向はネットなどの言説ではっきり見て取れるし、ネットによって増幅もされているようにも思われる。



秘密投票は、投票所の仕切りのなかで自分自身の考えを何の躊躇もなく、自分自身への内閉を可能にして、政治行為を行うことを正当化し、ソシアビリテによる政治変革の道をマージナルなものへと追いやっていった。1980年代にも、イギリスのサッチャー政権は労働組合の力を削ごうと、ストライキ決行の判断を組合員による秘密投票で決めさせるよう法律を変えた。集団を個人化によって解体しようとしたのだ。こうみると、秘密投票はネット空間の「つぶやき」と似ていなくもない。(p.65)


秘密投票が持つ効果ということについて、この側面から考えたことはなかったので若干の驚きを感じた個所。秘密投票はこうした否定的ともいえる効果も持っているが、それでも、票の売買(買収)や政府や集団からの思想信条の自由の確保などのための制度でもあり、安易に捨てて良いものではないという点には変わりはないだろう。



しかし「ボートマッチ」のもとで展開される政治観はかなり非現実的な前提に基づいている。
 まず、争点に基づいて有権者が投票する選挙という想定自体が、きわめて思い込みの強い想定からの演繹である。というのも、このモデルが機能するためには、まず有権者が自分の意志が何であるかを自分で了解しており、各党がそれぞれ異なる政策を掲げており、その政党が政権をとった場合にはその政策が必ず実行されるはずだという信頼感を有権者が持っていることを前提とするからだ。しかし、これだけの条件が現実で出揃うのは、無理とまでは言わなくとも、かなり希少なことである。
 さらに、自分が好ましいと思う政策のすべてが、ひとつの政党や政治家の公約に集約されているとも限らない。(p.79)


候補者の人柄――多くの場合、実際には単なる「人柄のイメージ」だが――などではなく、掲げている政策に基づいて候補者や政党を選ぶべきだという考え方は、確かに正論ではあるが、こうした考え方は現実の政治から見逃しているものが多くあり、その点で誤りも多く含まれている。特に、上記引用文で強調した政策が実行されるかどうかについての信頼感という観点は重要であると思われる。むしろ、「ある政党や政治家はあることを実現すると言っているが、実際にはこのように動くだろう」という予想は投票先の決定に思われている以上に大きな影響力を持っているように思う。



そもそも、個人の個々の意思を積み重ねたとして、それはおそらくきわめて脆弱で移り変わりの激しい政治しか生まないだろう。党派性が薄れ、無党派層が増大したのと並行して、政治が争点の激しい入れ替わり(失言問題、郵政民営化、消えた年金、政権交代選挙等々)を経験するようになったことは無関係ではない。(p.80)


この観点から見たとき、現在の安倍政権がこれに対して極めて有効な対策を取っている点が想起される。マスメディアに圧力をかけることで批判的な意見が流れにくくした上で、官僚の人事を官邸が握れるように制度を変えることにより掌握することで、情報公開的な要求に対いても恣意的に不都合な情報は出ないようにする。記者会見なども多くは不都合な質問が出ないように「配慮」されている。こうして権力を極めて私物化する傾向が強い政権であるにもかかわらず、そのイメージを個々人が持ちにくいように仕向けることによって政権を維持している。これは反動的な勢力だからこそやりやすいやり方であって、民主的な勢力にはこのような情報統制的なやり方は支持者からの支持が得にくいという点だけで見ても不利である。この点はリベラル側の勢力にとっての課題の一つとなっているように思われる。



 つまり、同じ志向を持つ人びとがコミュニケーションをする場合、人びとは連帯意識や自分たちの正しさを再確認し、自分の思い込みを強化していくいのが一般的である(だからこそ集会は今も昔も重要な政治的動員の手段となる)。その地域で共和党支持者が多ければ多くの人びとが共和党に、反対に民主党支持者が多ければ多くの人びとが民主党に投票することになると推定するのが当然であり、アメリカでは、だから「ブルー・ステイツ(民主党常勝州)」と「レッド・ステイツ(共和党常勝州)」が存在する。(p.84)


新しい人が参加してこなくても同じ人たちだけで集まっていれば集会には意味があるということか。この点はあまり考えたことがなかった、というか、そんなことをして意味があるのかとさえ考えていたが、やはり意味はあるようだ。



アメリカの大統領選が「政策の選択」ではなく、単なる候補者の「人気投票」に過ぎず、あまりにも大統領の人格や性格が注目されすぎるというコメントが聞かれることがあるが、それは政治の本質を理解していない証である。アメリカの多くの青少年は大統領の権威を認めるなかで、徐々に民主政治を実現する政治制度への愛着を持つようになると言われる(Hess & Torney 1967)。自分よりも上位の権威に愛着を持ったうえで自分の存在を受容し、そしてその権威が保障する制度そのものに愛着を持つようになるというプロセスは、民主政治のなかの重要な契機なのであって、それゆえアメリカ大統領選では候補者の人格や生活態度一般までもが厳しい目で見られるのだ。(p.94)


この指摘はもっともだが、共同体の善を実現するためにどのような方法をとっていくのか、つまりどのような政策を実行していくのか、ということは軽視されるべきではなく、政治指導者の人格や性格などよりも重視される「べき」ものであるように思われる。その点で、人気投票的な形で選挙が行われる傾向の中、政策の妥当性をどのように担保していくのかということが、もっと厳しく問われるべきではないかと思う。


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南彰 『報道事変 なぜこの国では自由に質問できなくなったか』

その激務には頭が下がるが、この会見場を広角でとらえると、奇妙な光景が広がる。
 記者がほとんどいないのだ。
 かつては会見を主催する記者クラブとの間で、記者が間に合うように一定の時間を設けて開始するのが通例だった。しかし、報道機関に頼らなくても会見の様子をインターネット中継できるようになった官邸は、記者がいようが、いまいが、速やかに記者会見を行えるようになった。そもそも質問を受けることを想定していない。ここに政府の見解を発表だけすればいいという本音が見えるが、そうした記者会見の映像が流れることによって、「危機管理に強い」というイメージを作り出すことにも成功している。
 「令和おじさん」として好感度を上げた19年4月1日の元号発表の記者会見も、あらかじめ幹事社(フジテレビ、産経新聞)の質問だけとし、政府の伝えたいことに絞った。(p.50-51)


メディア環境の変化によって既存マスメディアの力自体が相対的にかつてより落ちてきている。こうした環境の下で政府は自ら伝えたいことだけを垂れ流す傾向を強めている。安倍政権は説明責任については全く果たすつもりがない政権だと私は認識しているが、こうした邪悪な意図を持った権力者にとっては極めて都合の良い環境が整ってしまっている。マスメディアを批判する場合にも、こうした環境の変化を踏まえて、メディアが為すべきことを見定めていく必要があるように思われる。



公文書管理法は、人事権の掌握などによって権限が強大化する官邸に対し、事実に基づいて公平・中立な行政を行っていくための防波堤になるものだった。
 ところが、森友・加計学園問題や防衛省日報隠蔽問題などを受けて、安倍政権が17年12月に見直した公文書管理の基準となるガイドラインでは、そうした理念に逆行する見直しが行われた。
 加計学園問題で、文部科学省と首相官邸、内閣府側の言い分が対立した事例を念頭に、新しいガイドラインでは、他省庁や民間企業との協議内容を議事録に残す際は、原則として相手に内容を確認することになった。
 こうしたルールになれば、「総理のご意向」などと書かれた文書が作られることはないだろう。官邸に人事権を握られている役人にとって、先方から合意を得られる見通しのない記載をすること自体がリスクになったからだ。政策決定プロセスが見えにくくなり、将来的に軌道修正が必要になったときにも、そのヒントなどが見えにくくなるだろう。(p.171-172)


こうした事態については、本書を読む以前からも私も知ってはいたが、問題の大きさの割に世論での問題視のされ方は全く不釣り合いに小さい。世論に騒がれないように市民や国民に情報を閉ざしていくこうした姿勢こそ、安倍政権が支配の正当性を持たない、代表として選ばれるに値しない人々であることの証左なのだが。



 それどころか、公文書管理担当相は、首相が議長を務める国家戦略特区の担当相を兼ねていることが多い。いわば利益相反のような状況になっていて、加計学園問題でも、文部科学省や自治体側から文書が出ても、公文書管理担当相が所管している内閣府からは開示されないということが相次ぎ、規範意識は崩れる一方だった。(p.173-174)


なるほど。どうやら、内閣府特命担当大臣(地方創生担当大臣)というのが、これら両方を兼ねている役職のようだ。



 情報の出口をマスメディアが独占していた時代は、記者クラブに所属している既存メディアには取材先との間である種の交渉力があった。しかし、当事者がSNSで自由に発信できる環境となり、さらには、これまでのルールや表現方法と異なるネットメディアも選べる時代になるなかで、記者クラブメディアの交渉力は格段に落ちている。意に沿わないのであれば、相手にする必要性が薄れているのだ。
 先述した首相官邸の記者会見などの公の取材機会がどんどん縮小されている動きは、こうした既存メディアと取材先の力関係の変化のもとに進行している。(p.186)


マスメディアと政治権力との間の力関係が、メディア環境の変化によって格段に落ちてきている。そうした環境の助けを得て、安倍政権という邪悪な意図を持つ(つまり、本来は国民のものである情報を適切に公開することなく、政権にとって都合の良い形に加工した情報だけを垂れ流すことに腐心している)人々が、やりたい放題をやっている。こうした構造になっているということを理解できた点が本書から得た最大の収穫だった。



 メディアが全体として培ってきた権力均衡の仕組みが崩れている。
 政治部の取材現場でいえば、官邸クラブ、与党クラブ、野党クラブの間でお互いの取材をチェックし合い、個々の記者やクラブはキーパーソンの取材先に密着していたとしても、政治報道全体としてはバランスを取ることができた。
 しかし、官邸主導が強まるなかで、与党によって物事が左右されることはほぼなくなった。もちろん野党が動かすことも当面想定しにくい状況だ。そうしたなかでは、政治の動向を取材するには、官邸のキーパーソンに情報を依存せざるをえなくなる傾向が強まっている。(p.187)


90年代以後の政治改革の流れは首相の権限を強くし過ぎた。その結果、官邸は立法府(与党、野党)よりも、司法よりも力が強くなった(司法については次の引用文を参照)。その副作用的な帰結として、マスメディアに対しても優位に立った。これが現在の位置付けである。行政府が暴走したとき、それを止めるのは誰なのか?また、可能なのか?この問題に対して適切な回答が得られないのであれば、これまで進めてきた改革とは全く逆のベクトルで政府(首相)の権限を弱くする政治改革が必要である。



 また、自民党の長期政権が続くなかで、権力監視・均衡に大きな役割を果たしてきた司法の世界にも、強い官邸の影響が及んでいる。
 ……(中略)……。
 大谷氏が指摘するように、司法権力を密着取材する社会部の存在が権力チェックを担ってきたが、公文書改ざんという問題が起きても、検察は、財務省から徹底的に証拠を押収する強制捜査すら行わず、「証拠に基づいて」と言って、改ざん当時の佐川宣寿・理財局長らの不起訴処分を決めた。法務省を通じて、官邸の意向が捜査現場にも影響を与えたとされ、政治権力をチェックしてきた伝統的な社会部の報道の在り方を揺るがそうとしている。(p.188-189)


もはや司法すらも信用できない状況となってしまっている。このような権力(行政)が腐敗しないはずがない。



 最高裁は、国会と内閣をチェックし、三権分立の一角を担っているが、その弱みは、長官人事を内閣に握られていることだ
 過去にも、労働訴訟などの判断に自民党が不満を募らせていた1969年、安倍氏の大叔父にあたる佐藤栄作首相が、本命と目されていたリベラル派の田中二郎氏ではなく、保守派の石田和外氏を最高裁長官に任命したことがあった。第5代長官に就任した石田氏は「極端な軍国主義者、無政府主義者、はっきりした共産主義者は、裁判官として活動することには限界がありはしないか」と公言。リベラル傾向が強かった青年法律家協会所属の裁判官を排除していき、最高裁の判例も政府・自民党寄りへと覆った。「青年」にちなみ「ブルーパージ」といわれる黒歴史として語り継がれている。
 『日本の最高裁判所』の編著書がある市川正人・立命館大法科大学院教授(憲法学)は、「最高裁には権力も金もなく、権威だけを頼りに政治権力と対峙しなければならない。2000年代以降、権力側から反撃を食らわないギリギリの範囲で違憲判決を出そうという姿勢が出てきたことは評価できる。ただそれゆえに、いざ人事に介入されたとき、最高裁が政治権力に過度にすり寄ってしまわないかが心配だ」と指摘。「権威しかない最高裁が踏ん張れるかどうかは国民の側から『政権のやり方はおかしい』と声が上がってくるかどうかにかかっている」と語った。(p.194-195)


最高裁の判決に対しては、普通に考えると不自然なほど保守的(反動的あるいは自民党寄り)な傾向があると思ってきたが、その理由がよくわかった(ここで指摘されるブルーパージという黒歴史の作用)。21世紀になってから、行政権がさらに強まったためにこの問題がさらにはっきりと出てくることになっているというのが現時点の状況。

吉田秀樹+歴史とみなと研究会 『港の日本史』

 大津百艘船は享保年間(1716~1736)に1300艘を超える船を保有していたという。琵琶湖水運の最盛期をこの時期に求めることもできるが、敦賀に陸揚げされる物資の量でいえば、寛文期から元禄末期(1661~1704)までの約40年間でほぼ半減している。これは河村瑞賢いよる西廻り航路の開拓が大きく影響している。
 従来の琵琶湖を介した輸送では、北国の物資は敦賀において一度陸揚げしなければならず、問丸(輸送業者)への手数料などの面で不便があった。一方の西廻り航路では、北国の物資は関門海峡から瀬戸内海を通って大坂へ、紀伊水道を抜けて江戸まで陸路を使わずに運ぶことができた。これに打撃を受けた大津百艘船は次第に衰退し、1766(明和3)年には39艘にまで減少したという。(p.46-47)


西廻り航路は北前船に多少の興味を持っている者であれば、必ず耳にするものであるが、これができる前は琵琶湖の水運が繁栄していたというところまで繋げて理解すると、北前船の運営に近江商人が積極的に関与し、活躍していた時期があることとの関係性が見えるように思う。近江商人はもともと琵琶湖水運で利益を得ていたが、こちらよりも有利なルートが開拓されたことを察知し、西廻り航路を利用した北前船によるビジネスに乗り換えていったため、北前船の歴史においても近江商人が大きな役割を果たしたのであろう。



 日本に招聘したオランダ人のように、欧米の進んだ科学技術や社会制度を学ぶために、日本政府が雇った西洋人を「お雇い外国人」という。じつは、同じような存在は江戸時代にもいた。(p.168)


江戸時代にも「お雇い外国人」と同じような人々がそれなりの数いたという認識は重要である。明治維新を美化する立場のホイッグ史観(薩長らの明治政府が江戸幕府を倒したことを正当化する立場から描かれた歴史叙述)で見ると、江戸幕府は近代化に後ろ向きであり、それに抵抗したかのようなイメージで、必ずしも事実と一致しない像が描かれることになる。西洋の技術の導入などは明治政府でなくても江戸幕府が既にやっていたということを理解している方が、より公平かつ適切に歴史を認識し、評価することができるだろう。



 明治時代に築港をはじめとする近代的なインフラ設置に関わったのは、オランダ人、イギリス人技術者である。インフラ面においていえば、日本の近代化を先導したのはイギリス人技術者だったが、こと築港や水運に限っていえばオランダ人技術者たちが主流であった。というのも、当時の港湾・河川は海運・水運を目的としていたからだ。(p.169)


分野によってどこの国の影響を強く受けたかが違い、それも時期によって変わっていたということは他の本などで指摘されていたので一応の理解はしていたが、ここでの指摘について言えば、私としてはオランダにはあまり港湾のイメージはなかったのでやや意外な感じがした。


小野寺敦子 『小学生のことがまるごとわかるキーワード55』

きょうだいへの養育態度の差は、夫婦関係と関連しているという研究報告もあります。夫婦間で対立や葛藤がある場合、子どもに対する養育態度が夫婦で異なり子どもを混乱させてしまうと考えられ、それがきょうだい間の葛藤を高めるというのです。逆に夫婦間に葛藤がなく相互に尊敬しあう夫婦の場合は、子どもに対する養育態度に一貫性があり安定した親子関係になると考えられます。(p.37)


夫婦間の葛藤が大きい場合、離婚という帰結に至ることが考えられるが、離婚して父または母が一人で育てる場合と葛藤を抱えたまま夫婦で育てる場合で、どちらが否定的な影響が大きいか(どのような影響の違いがあるか)ということには非常に興味がある。



 子どものうつ病を誘発しやすい体験や環境として、①喪失体験(身近な人の死、ペットの死、親友の引っ越し)、②孤独の体験、③不安感の蓄積(教師や親から否定的評価を繰り返し受ける、失敗体験、怒りの抑圧)、④我慢することの多い養育環境、⑤不安定な養育環境(家族に気分障害の人がいる、虐待、親の病気、単身赴任、引っ越しの繰り返しなど環境の変化)があげられます。これ以外に菅原ら(2002)は、夫婦関係が家族機能を通して小学生の抑うつに影響を与えていると指摘しています。また、研究の結果、抑うつ傾向が高い子どもの母親は夫に対して愛情得点が低い傾向が認められています。その一方で、夫婦間で配偶者への愛情得点が高いほど、家庭の雰囲気と家族の凝集性評価が高い傾向が認められました。……(中略)……。その結果、3者均等近接型、3者均等中距離型というバランスがよくとれた関係性では子どもの抑うつ傾向が低く、父子接近型、母子接近型、夫婦接近型では抑うつ傾向が高いことが明らかになりました。こうした結果から子どもが自分の父母は仲が良いと認識している場合、子どもの抑うつ傾向は低いことがわかります。子どもの抑うつ症状には、家庭の雰囲気が悪かったり父母の喧嘩が絶えず不仲であったりすることが関連しているといえましょう。(p.43)


子どもの心と父母同士の人間関係、父母と子の人間関係のあり方は関係が深い。



就学前の子どもは「すごいね。上手」といった賞賛の「褒め」を好みますが、小学1年生の子どもは「ありがとう」といった愛情や感情のこもった「褒め」を好むことを明らかにしています。つまり何気なく私たちが行っている「褒め方」にもいろいろな種類があり、年齢に合わせた褒め方が効果的だとわかります。
 そしてさらに効果的なのが「具体的な褒め」です。……(中略)……。先生そして親が自分のことに関心をもってみてくれていることが伝わることで、子どもに安心感とやる気をもたせることができるのです。(p.47)


これ自体は目新しい指摘ではないが、わかっていても適時的確に行うことは簡単ではないことの一つ。



これらの不安は男子よりも女子の方が、また教師のサポート量が多い子どもの方が強くなっていました。これは教師からのサポートが多ければよいわけでは決してないことを示しています。(p.51)


勉強をするときに、親などに見られることが子どもにとって不安を増大させることがあるということを理解するのは実践上重要と思う。



小泉武夫 『醤油・味噌・酢はすごい 三大発酵調味料と日本人』

 江戸末期、松前藩は蝦夷の地を幕府直轄とし、そこに居住する人たちは米、味噌などの生活物資を内地から輸送していた。その後明治時代に入ると政府は「北海道開拓使」を設置して蝦夷を北海道に改称した。そのため北海道には全国から屯田兵や開拓者が集まり、生活上、味噌は不可欠の必需品となった。そこで開拓使が明治4年(1871年)に札幌郡篠路村に味噌醤油醸造所を開設したのが北海道での味噌生産の始まりである。そして道内での開拓事業は全道に広がり、明治35年(1902年)には工場数30余、年間生産量は味噌74万貫、そしてその10年後は工場70余、味噌生産量200万貫に及んだ。以後は大正、昭和と人口が増え続けるのに従って味噌の生産は追い付かなくなり、船便で本州から運んでいた。今なお北海道には道内のあちこちに味噌屋があるが、日本一の大豆生産地として、むしろ全国の味噌屋に国産大豆を供給する重要な役割を担っている地となっている。(p.107-108)


北海道と味噌の関係。明治政府の官営工場の多くは成功しなかったといわれるが、この醤油味噌醸造所はどうだったのだろうか?



荒松雄 『インド史におけるイスラム聖廟』(その2)

 以上、トゥグルグ朝後期の史書の記述を引用しつつ、スルターン=フィーローズ=シャーの治世におけるスーフィーを含めた宗教者の処遇の改善、ハーンカーや宗教建造物の建設や改築・補修事業の進展、あるいは、公費によるダルガーおよびハーンカーの維持といった事実などについて、その一端を紹介してきた。ズィヤーウッディーン=バラニーやシャムセ=スィラージュ=アフィーフの如き宮廷史家、あるいはスルターン自身の手になるという文献だけに、その記述の内容には、若干の誇張が認められることは致し方ない。しかし、これらの叙述によって、大筋においては、トゥグルグ朝後期のスルターン=フィーローズ=シャーの治世には、さきのムハンマド=シャーの時代に企てられたスーフィー教団の抑圧、あるいは権力によるスーフィー聖者の統制・支配といった政策が、大幅に転換をみたことが、ほぼ推察されるのである。……(中略)……。
 これらのことがらは、右に私がいくつかの例を挙げて紹介した同時代の文献の記述内容によって推察されるばかりでなく、スルターン=フィーローズの治世に造営されたと思われる建造物が、デリー地域に残存している一部のダルガーの内域やその周辺の地に見出されることや、その時期に造られたと思われる建造物で、今日なお往古のシェイフたちのハーンカーあるいはチッラーガーchillagahと伝えられている遺跡が残っているという事実によっても裏づけられると思うのである。それらの遺跡のなかには、スルターン=フィーローズ=シャーの名やその治世に当る年次とを記している歴史碑文が現存している建造物も見出されるのである。
 ……(中略)……。しかしながら、こうした建造物の数や、本節で私が述べてきたような状況が、一部の文献が記しているように、スーフィー聖者の活動あるいは拠点となったハーンカーやダルガーの権威に対する、スルターン=フィーローズ=シャーの側からの崇敬の心情や寛大な政策の結果であるとだけ考えるとしたら、それは、一面的な考察というそしりを免れないであろう。一方において、宗教者の活動、とくに一部のスーフィーの熱心な実践、あるいは一部スーフィー聖者のダルガーの持つ社会的影響力を考え、他の一方において、支配権力の側からする支配貫徹の論理を考えるとき、サルタナット権力による宗教者および宗教施設の掌握という政策的意図を、さきの歴史的事実のなかに見出さざるを得ないのである。とりわけ、上に述べてきたスルターン=フィーローズ=シャーの場合には、彼のイスラムへの信仰の根強さの背後に秘められた、サルタナット最高主権者としての政策的意図を認めないわけにはいかないのである。
 このことと関連して注目すべき点は、この時代を契機として、ハーンカーの社会的意味に変化が見られるということである。くり返し述べてきたように、ジャマーァト=ハーナやハーンカーの如き宗教施設は、スーフィー同士、あるいは、ヒンドゥーその他の異教徒をも含む民衆とスーフィーとのあいだの接触の場であった。それは、第一義的には、ムスリム宗教者にとっての修道・布教の拠点であり、ムスリム=コミュニティーのメンバーの連帯意識を相互に確認し合う場所でもあった。しかしながら、私がさきに引用したバラニーその他同時代の文献に見る記述内容は、トゥグルグ朝後期におけるハーンカーが、そうしたハーンカー本来の目的乃至は機能とは少しく異なった方向に利用されていったことを推測させはしないであろうか。数百から千を越える数にものぼって建てられたとされるハーンカーが、むしろそうしたムスリム社会本来の宗教的・社会的目的のほかに、交通の整備、流通経済の維持、治安の確保、あるいは未知の旅行者や遊行者などの把握を最も能率的かつ組織的に行い得る施設としての機能を持つものとして造営されたものであることを思わせるのである。(p.642-643)


宗教者に対して強硬なムハンマド=シャーのに対し、次のフィーローズ=シャーの政策は宗教者に対して融和的であると見えるが、単に飴を与えるだけでなく、宗教者たちの影響力を(経済政策なども含めた)統治のために利用する意図を持って寛容な政策をとったという。この辺りは、本書の考察の中でも最も興味深い部分の一つである。