FC2ブログ
アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

吉田秀樹+歴史とみなと研究会 『港の日本史』

 大津百艘船は享保年間(1716~1736)に1300艘を超える船を保有していたという。琵琶湖水運の最盛期をこの時期に求めることもできるが、敦賀に陸揚げされる物資の量でいえば、寛文期から元禄末期(1661~1704)までの約40年間でほぼ半減している。これは河村瑞賢いよる西廻り航路の開拓が大きく影響している。
 従来の琵琶湖を介した輸送では、北国の物資は敦賀において一度陸揚げしなければならず、問丸(輸送業者)への手数料などの面で不便があった。一方の西廻り航路では、北国の物資は関門海峡から瀬戸内海を通って大坂へ、紀伊水道を抜けて江戸まで陸路を使わずに運ぶことができた。これに打撃を受けた大津百艘船は次第に衰退し、1766(明和3)年には39艘にまで減少したという。(p.46-47)


西廻り航路は北前船に多少の興味を持っている者であれば、必ず耳にするものであるが、これができる前は琵琶湖の水運が繁栄していたというところまで繋げて理解すると、北前船の運営に近江商人が積極的に関与し、活躍していた時期があることとの関係性が見えるように思う。近江商人はもともと琵琶湖水運で利益を得ていたが、こちらよりも有利なルートが開拓されたことを察知し、西廻り航路を利用した北前船によるビジネスに乗り換えていったため、北前船の歴史においても近江商人が大きな役割を果たしたのであろう。



 日本に招聘したオランダ人のように、欧米の進んだ科学技術や社会制度を学ぶために、日本政府が雇った西洋人を「お雇い外国人」という。じつは、同じような存在は江戸時代にもいた。(p.168)


江戸時代にも「お雇い外国人」と同じような人々がそれなりの数いたという認識は重要である。明治維新を美化する立場のホイッグ史観(薩長らの明治政府が江戸幕府を倒したことを正当化する立場から描かれた歴史叙述)で見ると、江戸幕府は近代化に後ろ向きであり、それに抵抗したかのようなイメージで、必ずしも事実と一致しない像が描かれることになる。西洋の技術の導入などは明治政府でなくても江戸幕府が既にやっていたということを理解している方が、より公平かつ適切に歴史を認識し、評価することができるだろう。



 明治時代に築港をはじめとする近代的なインフラ設置に関わったのは、オランダ人、イギリス人技術者である。インフラ面においていえば、日本の近代化を先導したのはイギリス人技術者だったが、こと築港や水運に限っていえばオランダ人技術者たちが主流であった。というのも、当時の港湾・河川は海運・水運を目的としていたからだ。(p.169)


分野によってどこの国の影響を強く受けたかが違い、それも時期によって変わっていたということは他の本などで指摘されていたので一応の理解はしていたが、ここでの指摘について言えば、私としてはオランダにはあまり港湾のイメージはなかったのでやや意外な感じがした。


スポンサーサイト



小野寺敦子 『小学生のことがまるごとわかるキーワード55』

きょうだいへの養育態度の差は、夫婦関係と関連しているという研究報告もあります。夫婦間で対立や葛藤がある場合、子どもに対する養育態度が夫婦で異なり子どもを混乱させてしまうと考えられ、それがきょうだい間の葛藤を高めるというのです。逆に夫婦間に葛藤がなく相互に尊敬しあう夫婦の場合は、子どもに対する養育態度に一貫性があり安定した親子関係になると考えられます。(p.37)


夫婦間の葛藤が大きい場合、離婚という帰結に至ることが考えられるが、離婚して父または母が一人で育てる場合と葛藤を抱えたまま夫婦で育てる場合で、どちらが否定的な影響が大きいか(どのような影響の違いがあるか)ということには非常に興味がある。



 子どものうつ病を誘発しやすい体験や環境として、①喪失体験(身近な人の死、ペットの死、親友の引っ越し)、②孤独の体験、③不安感の蓄積(教師や親から否定的評価を繰り返し受ける、失敗体験、怒りの抑圧)、④我慢することの多い養育環境、⑤不安定な養育環境(家族に気分障害の人がいる、虐待、親の病気、単身赴任、引っ越しの繰り返しなど環境の変化)があげられます。これ以外に菅原ら(2002)は、夫婦関係が家族機能を通して小学生の抑うつに影響を与えていると指摘しています。また、研究の結果、抑うつ傾向が高い子どもの母親は夫に対して愛情得点が低い傾向が認められています。その一方で、夫婦間で配偶者への愛情得点が高いほど、家庭の雰囲気と家族の凝集性評価が高い傾向が認められました。……(中略)……。その結果、3者均等近接型、3者均等中距離型というバランスがよくとれた関係性では子どもの抑うつ傾向が低く、父子接近型、母子接近型、夫婦接近型では抑うつ傾向が高いことが明らかになりました。こうした結果から子どもが自分の父母は仲が良いと認識している場合、子どもの抑うつ傾向は低いことがわかります。子どもの抑うつ症状には、家庭の雰囲気が悪かったり父母の喧嘩が絶えず不仲であったりすることが関連しているといえましょう。(p.43)


子どもの心と父母同士の人間関係、父母と子の人間関係のあり方は関係が深い。



就学前の子どもは「すごいね。上手」といった賞賛の「褒め」を好みますが、小学1年生の子どもは「ありがとう」といった愛情や感情のこもった「褒め」を好むことを明らかにしています。つまり何気なく私たちが行っている「褒め方」にもいろいろな種類があり、年齢に合わせた褒め方が効果的だとわかります。
 そしてさらに効果的なのが「具体的な褒め」です。……(中略)……。先生そして親が自分のことに関心をもってみてくれていることが伝わることで、子どもに安心感とやる気をもたせることができるのです。(p.47)


これ自体は目新しい指摘ではないが、わかっていても適時的確に行うことは簡単ではないことの一つ。



これらの不安は男子よりも女子の方が、また教師のサポート量が多い子どもの方が強くなっていました。これは教師からのサポートが多ければよいわけでは決してないことを示しています。(p.51)


勉強をするときに、親などに見られることが子どもにとって不安を増大させることがあるということを理解するのは実践上重要と思う。



小泉武夫 『醤油・味噌・酢はすごい 三大発酵調味料と日本人』

 江戸末期、松前藩は蝦夷の地を幕府直轄とし、そこに居住する人たちは米、味噌などの生活物資を内地から輸送していた。その後明治時代に入ると政府は「北海道開拓使」を設置して蝦夷を北海道に改称した。そのため北海道には全国から屯田兵や開拓者が集まり、生活上、味噌は不可欠の必需品となった。そこで開拓使が明治4年(1871年)に札幌郡篠路村に味噌醤油醸造所を開設したのが北海道での味噌生産の始まりである。そして道内での開拓事業は全道に広がり、明治35年(1902年)には工場数30余、年間生産量は味噌74万貫、そしてその10年後は工場70余、味噌生産量200万貫に及んだ。以後は大正、昭和と人口が増え続けるのに従って味噌の生産は追い付かなくなり、船便で本州から運んでいた。今なお北海道には道内のあちこちに味噌屋があるが、日本一の大豆生産地として、むしろ全国の味噌屋に国産大豆を供給する重要な役割を担っている地となっている。(p.107-108)


北海道と味噌の関係。明治政府の官営工場の多くは成功しなかったといわれるが、この醤油味噌醸造所はどうだったのだろうか?



荒松雄 『インド史におけるイスラム聖廟』(その2)

 以上、トゥグルグ朝後期の史書の記述を引用しつつ、スルターン=フィーローズ=シャーの治世におけるスーフィーを含めた宗教者の処遇の改善、ハーンカーや宗教建造物の建設や改築・補修事業の進展、あるいは、公費によるダルガーおよびハーンカーの維持といった事実などについて、その一端を紹介してきた。ズィヤーウッディーン=バラニーやシャムセ=スィラージュ=アフィーフの如き宮廷史家、あるいはスルターン自身の手になるという文献だけに、その記述の内容には、若干の誇張が認められることは致し方ない。しかし、これらの叙述によって、大筋においては、トゥグルグ朝後期のスルターン=フィーローズ=シャーの治世には、さきのムハンマド=シャーの時代に企てられたスーフィー教団の抑圧、あるいは権力によるスーフィー聖者の統制・支配といった政策が、大幅に転換をみたことが、ほぼ推察されるのである。……(中略)……。
 これらのことがらは、右に私がいくつかの例を挙げて紹介した同時代の文献の記述内容によって推察されるばかりでなく、スルターン=フィーローズの治世に造営されたと思われる建造物が、デリー地域に残存している一部のダルガーの内域やその周辺の地に見出されることや、その時期に造られたと思われる建造物で、今日なお往古のシェイフたちのハーンカーあるいはチッラーガーchillagahと伝えられている遺跡が残っているという事実によっても裏づけられると思うのである。それらの遺跡のなかには、スルターン=フィーローズ=シャーの名やその治世に当る年次とを記している歴史碑文が現存している建造物も見出されるのである。
 ……(中略)……。しかしながら、こうした建造物の数や、本節で私が述べてきたような状況が、一部の文献が記しているように、スーフィー聖者の活動あるいは拠点となったハーンカーやダルガーの権威に対する、スルターン=フィーローズ=シャーの側からの崇敬の心情や寛大な政策の結果であるとだけ考えるとしたら、それは、一面的な考察というそしりを免れないであろう。一方において、宗教者の活動、とくに一部のスーフィーの熱心な実践、あるいは一部スーフィー聖者のダルガーの持つ社会的影響力を考え、他の一方において、支配権力の側からする支配貫徹の論理を考えるとき、サルタナット権力による宗教者および宗教施設の掌握という政策的意図を、さきの歴史的事実のなかに見出さざるを得ないのである。とりわけ、上に述べてきたスルターン=フィーローズ=シャーの場合には、彼のイスラムへの信仰の根強さの背後に秘められた、サルタナット最高主権者としての政策的意図を認めないわけにはいかないのである。
 このことと関連して注目すべき点は、この時代を契機として、ハーンカーの社会的意味に変化が見られるということである。くり返し述べてきたように、ジャマーァト=ハーナやハーンカーの如き宗教施設は、スーフィー同士、あるいは、ヒンドゥーその他の異教徒をも含む民衆とスーフィーとのあいだの接触の場であった。それは、第一義的には、ムスリム宗教者にとっての修道・布教の拠点であり、ムスリム=コミュニティーのメンバーの連帯意識を相互に確認し合う場所でもあった。しかしながら、私がさきに引用したバラニーその他同時代の文献に見る記述内容は、トゥグルグ朝後期におけるハーンカーが、そうしたハーンカー本来の目的乃至は機能とは少しく異なった方向に利用されていったことを推測させはしないであろうか。数百から千を越える数にものぼって建てられたとされるハーンカーが、むしろそうしたムスリム社会本来の宗教的・社会的目的のほかに、交通の整備、流通経済の維持、治安の確保、あるいは未知の旅行者や遊行者などの把握を最も能率的かつ組織的に行い得る施設としての機能を持つものとして造営されたものであることを思わせるのである。(p.642-643)


宗教者に対して強硬なムハンマド=シャーのに対し、次のフィーローズ=シャーの政策は宗教者に対して融和的であると見えるが、単に飴を与えるだけでなく、宗教者たちの影響力を(経済政策なども含めた)統治のために利用する意図を持って寛容な政策をとったという。この辺りは、本書の考察の中でも最も興味深い部分の一つである。